8. 川の字で初めての夜は更けてゆく
バスタオルで覆われてはいたが見事な曲線のボディラインが視界から消えると、畜生、あのまま襲っちまえば良かったか、と少し後悔する。
あんな格好で風呂場に入ってきたのは自分を誘っていたに違いない。
だがここで手を出したせいでそのままデカい顔で家に居座られることにでもなったら厄介だ。
自分の判断に間違いはなかったと言い聞かせ、流してもらった背中以外の箇所をすべて洗い、風呂場を出る。
脱衣所に出た薫はすぐにブラファイルを探したが、どこを探しても見当たらなかった。
── あの女、また持っていきやがった!
見るなと言っているのにまたしても樹里に勝手な行動を取られ、頭に血が上る。
Tシャツと短パンを身に着けて自室に戻りかけた時、可乃子の部屋にいた樹里が青い顔で飛び出してきた。
「薫!」
「あ?」
「可乃子の様子がおかしいんだ。目を覚ましたかと思ったら急に泣き出して……」
そう聞いた瞬間に走り出していた。
「どけ!」
樹里を押しのけて可乃子の部屋に飛び込むと、布団の上に起き上がり、しくしくと泣いている妹の姿が目に入る。
照明を点けて大股で歩み寄ると、震える可乃子の頭を強い力で抱きしめた。
「また見たのか?」
「うん……」
「ただの夢だ。俺はここにいるだろ」
しゃくりあげる可乃子を落ち着かせるように小さな背中を何度も撫でると、可乃子が涙で濡れた顔を上げる。
「……お兄ちゃん、今日は一緒に寝てくれる?」
「あぁ」
そう頷くと薫は後方で自分たちを心配そうに見守っている樹里を振り返る。
「悪い、俺ここで寝るからお前俺の部屋で寝ろ」
樹里は可乃子が自分のために用意してくれた布団に目を向けた。
「薫、私もここで君たちと一緒に寝ては駄目だろうか……?」
「あ!?」
んなこと駄目に決まってるだろ、と言おうとした時、可乃子が「うん、樹里ちゃんも一緒にここにいて」と言い出す。
「たくさん人が側にいてくれた方が可乃子も怖い夢を見ないから」
「怖い夢……?」
眉をひそめ、樹里が訝しげな顔つきになった。
「お兄ちゃんの分のお布団、可乃子が持って来るね」
布団から出ようとする妹を薫は押し留めた。
「いい、俺が持ってくる」
自分の部屋から布団をかつぎだし、妹の部屋に戻ると、「可乃子、お前一回布団から出ろ」と命令する。そして可乃子の布団を中央にし、部屋の中に川の字の形を作った。
「ほら、いいぞ。お前真ん中に寝ろ」
「わぁ、三人で並んで寝るんだねっ」
可乃子は嬉しそうに真ん中の布団に潜り込むと、「早く二人ともお布団に入って!」と呼びかけた。
促された二人はそれぞれ左右の布団に入る。そして室内照明を消そうとした薫に、
「あ、お兄ちゃん。お部屋の中、真っ暗にしないでね?」
と可乃子が頼んだ。
頷いた薫が小電灯に切り替えると、室内に橙色の優しい灯りが充満する。
「早く寝ろ。明日寝坊しても知らねぇぞ」
「うん。おやすみなさい、お兄ちゃん、樹里ちゃん」
「あぁ、おやすみ可乃子」
室内に静寂が訪れた。
しばらくして規則正しい可乃子の寝息が聞こえ始めると、まだ眠っていなかった樹里が小声で薫を呼ぶ。
「薫……、起きているか?」
「あぁ」
天井に向けていた視軸はそのままで、薫は返事をする。
「さっき可乃子は怖い夢を見たと言っていたが怖い夢を見るといつもああして脅えるのか?」
「そうだ」
「一体どんな怖い夢を見るのだろう? あの怖がり方は普通ではないように感じるのだが……」
薫はすぐ横の可乃子の寝顔に視線を移し、間違いなく眠っているかを確認してから重い口を開いた。
「両親や俺がいなくなる夢らしい」
「君やご両親がいなくなる?」
「……色んなパターンがあるみたいでよ、俺らが一人ずつ溶けるように消えていったり、いきなり真っ青になってその場に崩れ折れて泡を吹いたり、錯乱した男が飛び出てきてそいつに順繰りに刺し殺されたりするらしいんだ。でもどれも最後の展開は必ず一緒で、親父もおふくろも俺も全員いなくなってこいつ一人が取り残される」
薫は骨ばった大きな手ですやすやと眠る可乃子の頭に触れる。
「こいつはいつもはそんな素振りを見せねぇが、いつか自分一人になっちまうんじゃねぇかって、きっと内心は怖くてたまんねぇんだろうな……。可乃子がやけにお前に肩入れするのも、たぶんお前も俺らと同じ境遇だからだと思う。お前も親がいないんだろ? だから一人になっちまったお前が心配でほっとけねぇんだろうな」
「そうだったのか……。優しい子だな……」
樹里も手を伸ばし、可乃子の額にそっと手を触れる。
「さっき一緒に入浴している時に可乃子がしばらくここにいろとずっと勧めてきていたんだ。それでは迷惑をかけるからと言っても聞き入れてくれなくて……。明日出て行く時は可乃子に心配をかけないようにしなくてはいけないな」
「……もう寝るぞ」
樹里の呟きを流し、可乃子の頭から手を放すと薫は自分の布団に入り直した。
「こうやって誰かと並んで眠るのは初めてだよ。可乃子の言うとおり、自分以外の誰かが側で寝ているというのはどことなく安心できるものなのだな」
樹里がしみじみとした口調で呟く。
「おい、それよりあのファイルはどうした?」
「あぁあのブラのファイルか?」
「てめぇ先に風呂から出た時にそのまま持って行きやがったろ」
「ファイルは君の部屋に返しておいたよ。まだ他にデザインしたブラがあったら明日見せてほしいな」
「誰が見せるか。さっさと寝ろ」
拒絶の意味もこめ、薫は樹里に背を向けて目を閉じた。