【 7 】 どんだけ間が悪いんだ
“ せめてこの身体を借りていられる間は、
人型でしかできない色んな事をしてみたい―― ”。
そんなサクラの少々強引なおねだりで始まった二人だけの徒競走は菩庵寿の入り口前で無事に終了した。もちろん勝者はメイド服を着たうら若き少女型アンドロイドである。
「はぁふぅ、はぁふぅ、はぁふぅ……、やったぁー! Myマスターに勝っちゃいましたー!!」
勝利の喜びをぴょんぴょんと跳ねることで表し、先にゴールをしたサクラは嬉しそうに両手を上げる。
そんなサクラの頭頂部を上からわしっと掴み、その行為を強引に止めさせたのは薫だ。
「おい! はしゃぎてぇのは分かるがお前そんだけ走りまくって身体ん中に緊急異常は出てねぇだろうな!?」
「大丈夫です! また少し内部温度が上がっただけですからすぐに冷却すれば問題ありません!」
「ならいいけどよ……。俺は漸次さんじゃねぇんだからお前のその身体になんかあっても直してやれねぇことを忘れるなよ?」
「はぁーい! 気をつけまーす!」
アンドロイドの身体で動ける事がよほど楽しいのか、天に向かって片手を上げたその動作は大袈裟過ぎるほどのオーバーアクションだ。
そんなご機嫌なサクラとは対照的に、薫は渋面で自分の店舗を見上げる。するとこれから店の中に入ることを思い出したサクラは急に不安げな表情になって薫の側につつっと寄り添った。
「いよいよですねMyマスター……。中に入られたら樹里様にまずなんと仰るつもりなのですか?」
「別になにも言わねーよ」
「えーっ!? ダメですよぅ! まったくノープランで中に入られようとするなんて! だってもし樹里様がまだ落ち着かれていなかった場合、どうなさるおつもりなんですか!?」
「ドアホ! だからなんでそんな対策を考えなきゃなんねぇんだっての! 俺は別に何も悪いことはしてねーんだぞ!? 謝るのはあいつの方じゃねーか!」
「でもでもこういう時はやっぱり殿方が折れてあげた方が何かとうまくいくかと……」
「ケッやってられっか!! なんで俺があいつの機嫌取りみてぇなことをしなくちゃいけねぇんだっつーの! 入るぞ!!」
牛蒡の泥がまだ残っている前髪をガバッと掻きあげ、薫は荒々しく入り口の取ってに手をかける。そしてガラリと乱暴に引き戸を開け、「おい! 帰ったぞ!」と店の奥に向かって怒鳴った。しかし中はシンと静まり返っている。
「……樹里さまぁー? えっと、Myマスターとサクラ、お散歩からただ今戻ってまいりましたぁー……」
―― やはり返事はない。
代わりに店内に設置されている鹿おどしが、時折カコーン、カコーンとその澄んだ竹の音を鳴らすだけである。
「Myマスター、もしかして樹里様、お家の中にいらっしゃらないのでしょうか? お買い物にでも行かれたかもしれませんね」
「店に鍵もかけねぇでか? 無用心すぎんだろ」
「あっそうですよね……。几帳面な樹里様なら考えられないですよね」
「あいつうたた寝でもしてんじゃねぇだろうな。家ん中見てみっか」
「はい!」
しかし二人で家の中をくまなく探しても樹里の姿は見当たらない。
「こういう時はいつもお出かけ先を書き残して行かれる方なのに、何もメッセージを置かれないで一体どこに行かれたんでしょう? …………あぁっ!! まさか家出なされたんじゃ!? きっとそうですっ!! サクラのこの身体が愛玩少女だったせいで強いショックを受けられてこの家をお出になられてしまったに違いありませんっ!! あぁどうしましょうどうしましょうMyマスター!! すぐに警察に樹里様の捜索願いを出…きゃんっっ!?」
廊下でパニックになりかけているサクラの頭頂部を軽く握った拳で薫が小突く。
「落ち着けドアホ」
「だってだってMyマスター!!」
「そこ見てみろや」
「え?」
まだ動揺しているサクラに向かって薫はすぐ側の玄関先を顎でしゃくって見せる。
「あいつのサンダルがねぇだろ。あいつがあれを履く時はすぐ近所に行く時だけだからな。裏の家にでも行ってんだろ」
「あっホントですね! 良かったぁー! それにしてもさすがですMyマスター! Myマスターって女性のお気持ちを推し量るのは苦手でいらっしゃるのに、見ている所はちゃーんと見てらっしゃるんですよね!」
「……おい、お前のそれは褒めてんのか?」
「はいもちろんです! それよりMyマスター、樹里様が裏にお出かけになっているなら今がチャンスですよ!」
「何がチャンスなんだよ?」
「野獣さんのお作りになった下をぜひご覧になって下さい! サイドのレース使いもスゴいですし、他にも工夫が施されている部分があるんです! オールラウンダーさんの作品を間近で見られるチャンスなんてそうそうないんですから!」
―― しかし実際のところ、万能工匠のステッチの型やそのアイディアを盗もうと様々なルートを駆使して匠の作品を密かに入手し、水面下で研究する下着職人は決して少なくない。
だが自分の信念に沿って己の魂を込めた自分だけの商品を作る、と決めている薫はそのような姑息な真似などするはずもなく、自分以外の職人の作品を間近で観察できる機会はサクラの言うようにそうそう無かった。
だからこそ、今のサクラの力説に薫の職人魂は大きく揺さぶられる。ましてや今回の作品の製作者は自分のよく知る人間だ。興味が出ないほうがおかしい。
「だからサクラ、今すごく後悔してるんです。野獣さんの作品を実際に見る前に下着のセットを頂くのをお断りしてしまったので、こんなに素晴らしい出来ならMyマスターのためにブラもいただいてくれば良かったなぁって」
「漸次さんのはそんなすげぇのかよ?」
「ハイ! いずれMyマスターもオールラウンダーの試験を受けられるのですし、後学のためにもここはぜひぜひご覧になっておくべきです! 一見の価値は絶対にあると思います!」
「分かった。見せてみろや」
「えぇ! どうぞご覧下さい!」
サクラは廊下の中央でメイド服のスカートをひらりと大きくたくし上げた。
三白眼をギロリと光らせ、超がつくほどの真剣な顔でしゃがんだ薫の目の前に形のいい長い脚が剥きだしになる。
薫はしばらく何も言わなかった。
ただ無言でサクラの腰回りや脚の付け根一帯を覆っている真っ白な部分を無遠慮にガン見し続け、やがて眉間に大きく皺を寄せた直後にボソリと呟く。
「……へぇ、一分丈か」
目の前の白いシルエットは小さな三角の形ではなく、短い丈のボクサー型だ。
色が純白な理由は、メイド服のスカートの裏側にたくさんのフリルがあるのでおそらくそれに合わせたためと思われる。
「はいっ一部丈タイプです! そしてサイドのこのレースの細かさもさすがですが、股布部がさらにすごいんですよMyマスター! なんとここ、一枚布なんです!」
「マジか!? 一枚で大丈夫なのかよ!?」
「はい! このクロッチ部分、野獣さんの開発した特殊布で作ってるんだそうです! 従来の二重構造のクロッチよりも耐久性や防水性が高いんですって! しかも一枚しか布を使ってないのに透けちゃうこともなく、通気性もグンと上がってるという優れモノなんだそうですよー? サクラ、この部分の素材はなんですかって野獣さんに聞いてみたんですけど、“ それは企業秘密だからさすがに教えられねーな ” って言われちゃいましたけど……」
ここでサクラはちょっぴり不満そうに薄桃色の唇にかたどられたパーツ部分をきゅっと尖らせた。
「Myマスター、野獣さんっていつも面倒見がよろしい方でいらっしゃるのに、この秘密を教えてくれないなんて意外とケチなところがおありなんですね」
「バカ、何言ってんだ。んなこと当たり前だろ。商売敵に手の内見せる職人がどこにいるんだっつーの。それにあのオッサンは前にも俺には分かんねぇ特殊素材を使って女の胸の感触そっくりなブラジャーを作ってるしな。こういうことをさせたらあのオッサンの右に出る職人はおそらくいないと思うぜ」
「それって商品名は確か 【 盛りブラ +! 】 でしたよね? あのブラ、超メガヒットしましたもんね……。あっ! Myマスター、今突然閃いちゃいました! サクラ、今からこの下を脱ぎます!」
「あぁ!? なんで脱ぐんだよ?」
「この下着のパーツを全て解いてみてはどうでしょう? 布の秘密が何か分かるかもしれませんよ!」
しかしその提案を聞いた薫はスカートを持ち上げているサクラを下から思い切り睨みつける。そして、
「するかドアホ! 何考えてんだお前は!」
と大声でサクラを叱りつけた。
すると頭ごなしに叱責されたサクラが口を尖らせてもごもごと言い訳をする。
「で、でも色んなオールラウンダーさんの作品を集めてそういうことをやっている職人さんもいるって、サクラ、雷太さんから聞いたことありますけど……。雷太さんの専属操作者である清水 長次郎様は国宝職人でいらっしゃるから、そういう目的で長次郎様の作品が裏取引されていることも多いって」
薫はチッといつも癖である舌打ちをすると、「くだらねぇことばかり聞きかじってきやがって!」と険しい顔で吐き捨てる。
「いいかサクラ覚えとけ! 職人が精魂こめて必死に作った下着をテメェの勝手な興味本位で解体すなんてな、どんな理由があろうと絶対にやっちゃいけねーんだよ! 職人に対する冒涜じゃねーか! お前も俺の半身なら二度とそんな馬鹿げた提案なんかすんじゃねぇ!! 分かったな!?」
「はっ、はいっ!! 申し訳ありませんでしたMyマスター!!」
「……分かりゃいい」
仏頂面で下唇を突き出した薫に、感動したサクラが抱きつく。
「Myマスター! やっぱりMyマスターはさすがです!! サクラ、あなたの電脳巻尺なことを誇りに思います!!」
「いいからもっと足上げてみろや。お前がくっついてたら肝心の股部分のステッチが見えねーじゃねぇか」
「はぁーい!! Myマスター、右肩をお借りしてもいいですか?」
「おう」
「では失礼しまーす。よいしょっ」
クロッチの部分がよく見えるよう、サクラは片脚を大きく上げ、薫の右肩に折り曲げた自分の左ひざを軽く乗せた。その脚を支えてやり、漸次の作品を下から覗き上げる格好で下を綿密に観察していた薫が、
「やっぱ万能工匠はすげーな……。縫い合わせに一ミリの狂いもねぇや」
と悔しげに呟いた時、唐突に開いたのはすぐ横の玄関の扉。
続いてカロンカロンという軽やかな音が響いてきた。
突如聞こえてきたその音に一分丈の下着から真横の玄関先に視線を移した薫はギョッとした表情で目を見開く。
―― そこに立っていたのはベージュのサンダルを履いた樹里だった。
青いエプロン姿の妻に今見られているシーンはというと、廊下の中央でメイド服のサクラのスカートを思い切り持ち上げさせ、その前にしゃがんで中を覗いている自分という図。どう転んでもまた誤解されそうな、というか最早誤解されるしかありえない光景だ。
しかし樹里は胸の前で抱えているたくさんの野菜たちを持ち直すと焦っている夫に向かって、
「おかえりなさい薫」
と、いつも薫を出迎えする時と同じ優しげな表情でなぜかニッコリと微笑んだのだった。