【 4 】 くだらねぇ そんなことを気にしてたのかよ
―― 世の中、正しい者が必ず勝つとは限らない。
認めたくない事実ではあるが、それがこの世の儚き理だ。
最初は負けじと声高に言い争っていたものの、結局は樹里の壮絶な剣幕に押しきられてその場からの一時撤退を余儀なくされた薫は、自分と一緒に店を脱出してきたサクラと共に当てもなく近所を彷徨っていた。
今回は正義側の完全敗北である。
「Myマスター、サクラ、あんなに怒っている樹里様を初めて見ました……」
「……俺もだ」
二つの影が背後の夕日の後押しで進行方向へと細く伸びている。
肩を並べて歩き、今しがた遭遇した菩庵寿内での修羅場を回想をする薫とサクラは、同じ戦場で共に戦ったかのような奇妙な連帯感で結ばれていた。
「なんだか鬼気迫るものがありましたよね……。あれは女性のプライドが大きく傷ついことによるものなのでしょうか?」
「チッ、知らねぇよ! そのアンドロイドはもらわねぇって何度も言ってんのにあいつ一人で勝手にヒートアップしやがってアホかっつーの。ったく、あのオッサンのせいでとんでもねぇ迷惑喰らっちまったぜ。お前も災難だったなサクラ」
ジーンズのポケットに両手を突っ込み両肩をいからせて歩く薫に、サクラは「いいえ」と首を大きく横に振って見せる。
「サクラは嬉しいですよ、Myマスター」
「嬉しいだと?」
「はいっ。だって野獣さんのおかげで人間そっくりになれたんですもん。実はサクラ、琥珀さんみたいにこういうアンドロイドがずっと欲しかったんです。だから一週間の期限付きでも、今日こうして夢が叶って嬉しいんです」
「意味がわかんねぇよ。なんで人間そっくりになるのがそんなに嬉しいんだよ」
「だって、いつものエスカルゴの姿でMyマスターの肩に乗せていただいて外出すると、道行く方々からよく奇異の視線を向けられるじゃないですか。この格好ですとそんな目で見られることがないですから」
サクラの本心を初めて聞いた薫はダラダラと歩いていた足を止め、メイド服姿で佇む少女を見下ろす。
「……お前、そんなこと気にしてたのかよ?」
するとサクラは先ほどよりも素早く、そして何倍も力強く、首を横に振った。
「いえ、サクラ自身が気にするというよりも、Myマスターに悪いような気がしちゃうんです。エスカルゴ姿のサクラが常にご一緒しているせいでMyマスターが恥ずかしい思いをしているんじゃないかなぁって……。ほら、この間もご近所の小さなお子さんたちに “ あれ女のおっぱいを測るやつだぜ! 男のくせにあんなの持ってるなんてあの兄ちゃんエロだっ! ” ってMyマスターが笑われちゃったじゃないですか……」
自分の専属操作者がからかわれた辛い経験を思いだし、サクラがしゅんとした様子で俯く。
相棒の密かな悩みを知った薫はガリガリと頭を掻くと、その無骨な手で表情を曇らせているサクラの頭を乱暴に撫でた。
「アホ。俺がそんなこと気にするわけねーだろ。あんな小せぇクソガキの言うことを真に受けて頭にきたってしゃあねぇだろうが。言いたい奴には言わせておけばいいんだよ。おら、行くぞ」
そう言い切ってまた先に歩きだした薫をサクラが急いで追う。そしてキラキラとした瞳でアンドロイドが持つもう一つの良さも嬉しそうに話した。
「それと理由はもう一つあるんですMyマスター! この格好だと人間の殿方がサクラにすっごく優しいんです! さっき野獣さんの所からここへ戻ってくる途中も色んな男の人に声をかけられて、サクラ、困っちゃいました! こういう女の子らしい格好をすると面白いぐらいに男性が寄ってくるのですね! 可乃子様のお気持ちがちょっと分かった気がします!」
「何!?」
可乃子の名が出たので過保護兄の目つきが変わる。
鋭く尖ったその両目は、さっさとその先を話せと言いたげに強く光りだした。
「だって可乃子様は殿方におモテになりますもの。学校のアイドル的存在になってらっしゃるの、Myマスターはご存じないんですか?」
「……おい、それもっと詳しく話せや」
「あのMyマスター、お顔がすごく怖いです」
「いいから話せっての!! まさかあいつ男がいるんじゃねーだろうな!? まだ中学生のくせに男なんていたら俺は許さねぇぞっ!?」
「大丈夫ですよMyマスター!」
サクラはまず最初に自分の主を安心させる結果から伝えた。
その理由は、妹の男関係の話題に関しては一切の洒落や冗談が通用しない薫の厄介な気質をきちんと理解しているせいだ。
そして結果の次はその理由も意気揚々と伝える。
「そのようなご心配は無用です! なぜなら可乃子様は “ モテる悪女の作り方 ” を初回放送から最終回まですべてご覧になったお方! 邪な野心を持つ危険な男性を紙一重でかわす術は、すでにしっかりと身につけておいでです!」
安心していい理由を告げたのに薫の顔は険しいままだ。
「……えらく懐かしい番組名が出てきやがったなおい」
「うふふっ、昔あの番組をサクラたちが見ていると、Myマスターは凄い形相でいつも怒ってらっしゃいましたよね! でもご安心くださいませMyマスター。可乃子さまは同じ学校の男子生徒さんたちから大人気ですが、付き合ってらっしゃる方はおりません。だから余計に人気が出るみたいで、皆さんなんとか可乃子様の気をご自分の元に引こうと必死なんです。入れ替わり立ち替わりで色んなプレゼントを贈ってくださるみたいですよ」
「なんだと!? 可乃子の奴、男に貢がせるような真似させてんのかよ!?」
「いえとんでもありませんMyマスター! そんな誤解をなさらないでください! 可乃子様はあれが欲しい、これが欲しいなんて何も仰ってませんよ? 皆さんが勝手に贈り物をくださるんです。とにかくプレゼント攻勢がすごくて可乃子様もお困りになっているぐらいなんですから」
「…………」
自分が守らなければならない大切な妹に現時点では男の影が無さそうなことが分かり、薫は内心で安堵する。しかし決してそれを表面には出さないのがこの天の邪鬼な荒くれ男の特徴だ。
「チッ、まだガキのくせに色気づきやがって」
とわざと毒づき、不快そうに鼻を鳴らすだけである。
「それよりMyマスター、これからどうしましょう? あれから三十分以上経過しましたが、そろそろ樹里様も元に戻って落ち着いていらっしゃるでしょうか?」
薫は再び足を止め、樹里を残してきた自宅の方角を眺めた。
「戻っててくんなきゃ困るっての。俺、ブラジャー作ってる途中なんだぞ?」
こうして意味や目的もなく、家の近所をただ歩き続けているのは有意義な時間の使い方ではない。しかもこのまま歩き続けていればどんどんと自宅から遠ざかっていくことにもなる。
「そうでしたよね。どうしましょうか?」
「あともうちょいだけ時間潰したら帰るぞ。それでもまだあいつが怒ってんなら知らねぇよ。勝手にしろってんだ」
早く店に戻って仕事の続きをしたい薫は足元の小石を蹴飛ばした。
八つ当たりを受けた小石は左四十五度の角度で一直線に前方へと飛び、近所の家の壁にぶつかる。
「やべっ、当たっちまった!」
「あら、あそこは須藤さまのお宅ですよね。あともう少し上にずれていたら窓の部分に当たってしまっていたかもしれませんよ? 良かったですねMyマスター」
「あそこの婆さんは怒らすと厄介だからな……。ガラスを壊さなくてラッキーだったぜ。行くぞ」
「はい」
二人はまた並んで歩きだす。
するとピッタリと自分に寄り添うように歩いていたサクラが急にもじもじと身をよじらせ始めた。
「なにゴソゴソやってんだお前? 身体でも痒いのか?」
そんな的外れな薫の言葉にサクラは身をよじらすのを止め、口元に手を当てるとくすくすと笑う。
「いえ、アンドロイドですから痒いとかそういう感覚はないですよ」
「それもそうだな。じゃあなんなんだよ」
「はい、あ、あのMyマスター……」
まもなく地平線に沈む夕日の色が一段とその濃さを増した。
薫のTシャツの裾をそっと掴んだサクラの人工皮膚の表面はまるで薄い朱色をほんのりとコーティングしているかのようだ。
「今はこうして二人っきりですので、お店に戻る前にどうしても一つ確認しておきたいことがあるんです。お答えいただけますでしょうか?」
「なんだよあらたまって気色悪ぃな。さっさと言えよ」
「分かりました。では言います。Myマスター、サクラはあなたの正直なお気持ちを聞きたいんです。あなたの本当のお心が知りたいんです。ですから」
サクラは真剣な表情でそう前置きをした上で、その身をふわりと半回転させて薫の前に立ち、主の歩みを一時的に止めさせた。
そして怪訝そうに立ち止った薫を真っ直ぐに見上げると、紛い物の両瞳を恥ずかしげに揺らしてストレートに尋ねる。
「ですから、どうかありのままに何も隠さずにお答えください。このアンドロイドを野獣さんに返すまでの間、Myマスターはサクラを一夜の恋人としてご利用なさりたいお気持ちは本当にないのですか……?」