【 3 】 バカ野郎 浮気じゃねぇよ
―― あまりにも衝撃的な光景に、時の刻みは音もなくその動きを止めた――。
……むろんそれはただの錯覚だ。
実際には悠久の時の流れが、その緩やかで、且つ、決められた一定のリズムを断つことなどあるはずもない。だが、一瞬でもそう錯覚させてしまうほどの冷え切った静寂が、定休日の菩庵寿内にゆっくりと滲み渡ってゆく。
ショックで湯呑みを取り落とした樹里は、白い両肩をむき出しにし、着崩れたメイド服姿の少女を自分の脚の上に侍らせている薫を呆然と見つめ、
「浮…気……?」
とかすれた声で呟いた。
硬直している樹里の姿が目に入った瞬間、そう言われる予感はすでに走っていた。
だがこれは立派な冤罪だ。
とんでもない濡れ衣を着せられかけている薫は、全力で声を張り上げて身の潔白を叫ぶ。
「バッ、バカ野郎!! 浮気じゃねーよっ!! 大体女房がいる家に堂々と女連れ込むバカがどこにいるんだっつーの!!」
「今私の目の前にいます」
なんという即答。
そしてなんという明答。
凛とした表情に戻り、戸口に佇む美しい妻の答えに躊躇いは無い。
「このドアホがああぁっ!! よく見ろ!! こいつはサクラだっ!!」
「えぇっっ!?」
驚いた樹里は空いた両手で自分の口元を覆う。
「この娘がサクラッ!? 嘘!? なぜ!? どうして!?」
「俺だって知らねーよ!! 漸次さんに貸せって言われて貸したらこんなになって帰ってきやがったんだよ!!」
「あなた本当にサクラなの!?」
「ハイ樹里様! サクラです! あ、この身体は作り物、アンドロイドですからどうかご安心ください!」
薫の左腿にちょこんと腰をかけているサクラは小首を傾げて無邪気に答えた。
だが、捲れ上がっているミニスカートからにゅっと伸びている二本の柔らかそうな白い太ももがその存在感をこれでもかとばかりにアピールしているせいで、まだ完全に浮気の疑念を払いきれない樹里は、念を押すようにもう一度同じ質問を繰り返す。
「あなた、本当にうちのサクラなのね?」
「はい樹里様! あなたが名付けてくださったサクラです! うふふっ、Myマスターの浮気相手さんじゃないですよ!」
「なんだそうだったの……。ビックリしたわ」
自分が誤解をしていたことを知った樹里は胸を撫で下ろす。しかし怒りを内包した鋭い目つきで自分をずっと睨んでいる薫に気付くと、慌てて「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝った。
しかし全く身に覚えの無い浮気の疑いをかけられた方としては、そんな一言謝罪だけであっさりと水に流せるものでもない。わざと忌々しそうに激しい舌打ちをし、自分がどれだけ頭にきているのかを態度で示す。
「ったく早合点しやがって……」
「だ、だっていくら下着職人さんだからって、休日の店内でそんなことをしてたらどんな奥さんだって疑うわ」
「ふざけんなっ!! 俺を信用してねぇから早合点すんじゃねぇか!! 女房のくせに亭主を信じてねぇとは何事だっつーの!!」
「ごめんね薫……」
「だから謝りゃいいってもんじゃねーだろうが!!」
「Myマスター、勘違いなされたとはいえ、何もそこまで樹里様をお叱りにならなくても……。今日サクラがあなたにお伝えしたことが何も生かされてないじゃありませんか」
「ぐ……」
またしてもサクラから耳の痛い指摘を喰らった薫は、顔半分を歪めると渋々怒鳴るのを止める。今後は樹里に対して何らかの労りのアクションを起こす努力をしてみるつもりになっていたせいだ。
本音を言えばまだまだ文句は言い足りない。
だが薫はその文句を強引に飲みこみ、神妙な顔をしている樹里をギロリと一瞥した後、顔を横に背け最後の叱責を吐き捨てた。
「今回は許してやる! もうくだらねぇ邪推はすんじゃねーぞ! いいな!?」
「うん、わかったわ。気をつけます」
ようやく許してもらえた樹里はホッとした表情で素直に頷く。
「でも薫、サクラにこんなことをして大丈夫なの?」
「あ? 大丈夫って何がだよ?」
裾に軽くウェーブのかかった鳶色の長い髪を揺らし、樹里が作業台の側に近付いてくる。そして薫が聞き取りやすいようにその略称をゆっくりと発音してみせた。
「“ 国際倫理協定 ” って知ってる?」
「IEA? いや知らねぇ」
「国際倫理協定っていって、人型をしたロボットに高度な自律機能を持った人工知能を組み込むのはその協定で禁止されているの」
「へぇ、そんな協定があんのか」
「えぇ。かなり昔のことだけど薫は覚えてない? アンドロイドに自作のAIを勝手に組み込んで、それが発覚した男性がアンドロイドの回収を拒否して警察に抵抗した事件のこと」
「そういやそんな事件あったな……。俺はまだガキだったからあまりよく覚えちゃいないが、確か警察の人間もそいつの手にかかって何人か死んだ事件だろ。その事件、お前の住んでいた蕪利で起きたんじゃなかったか?」
「そう、蕪利区画で起きた事件よ。あの殺傷事件は当時大ニュースになったからその倫理協定の内容も報道で何度も取り上げられていたわ。それをなんとなく覚えていたからなんだけど、確かサクラにも量子コンピュータが搭載されてるでしょ? だからエスカルゴの形なら問題はないけど、そのアンドロイドに繋げちゃったら協定に違反しちゃうんじゃないのかなと思って……」
初めて聞く込み入った話に、薫は低く唸ると口を尖らす。
「俺は小難しいことはよく分かんねぇけどよ、お前、漸次さんとこのエスカルゴ知ってんだろ?」
「えぇ。武蔵と琥珀でしょ?」
「あぁ。あいつらどっちもアンドロイドを持っててよ。たまにそいつに自分の人工知能を繋いでるみたいだぜ? 武蔵なんて今は完全に融合させちまってるみてぇだしな」
「えっ、そうなの?」
「あぁ。だから別に問題ねぇんじゃないか?」
そこへ Goldfinger -X からアラート音が鳴る。
チラリと台面のディスプレイを眺めた樹里は「薫、今ちょうど噂をしていた人から電話みたい。私が出てもいい?」と告げた。
「あのオッサンか!? いや俺が出る!! おいサクラ! お前いつまで人の脚の上にどっかりと座ってんだ! とっととどきやがれ!」
「きゃんっ! すっ、すみませんMyマスター!」
強引に脚の上から降ろされてしまったサクラに樹里が近づき、着崩れていたメイド服にそっと手を伸ばして外れているボタンを止め直してやる。
「女の子がこんなだらしない格好をしてちゃダメでしょサクラ」
「はい樹里様、申し訳ありません」
「でもどうして服を脱ごうとしていたの?」
「それが樹里様、聞いてください……。実は、菩庵寿に入る時にお客様のフリをしてみたんです。サクラがいない時にダイレクトテイクを希望するお客様がいらしたら、Myマスターはどうするのかなぁって思って……。いつもサクラを大切にしてくれているMyマスターならきっと採寸できないってきっぱり断ってくれると思ったのに、Myマスターってばアナログの巻き紐で依頼を請けようとしたんです。もうサクラ、それがすごくショックで……」
サクラの告白を聞いた樹里は少しだけ驚いた顔をすると、「いけない娘ね。そんな薫を試すようなことをしたらダメじゃないの」と柔らかい口調でたしなめた。
「だって樹里様……」
「ね、サクラ」
樹里は小さく微笑むと、自分よりほんの少し背の低いサクラの黒髪を優しく撫でる。
「マスター・ファンデにとってエスカルゴは確かに大切な存在よ。だけどあなた達のその絆と、職人さんとお客様たちとの繋がりを同列に考えてはいけないわ。だってお客様が商品を注文してくださるから薫の仕事が成り立つのよ? そんなお客様のために、あなたは電脳巻尺として薫の補佐を務めるのでしょ? 違う?」
「は、はい、仰るとおりです……」
ひと言ひと言、噛み砕くように諭されたサクラは、先ほどの自分の行動を省みて恥ずかしそうにうつむいた。
「サクラ、樹里様の仰りたいことが理解できました……。この菩庵寿にせっかくいらしてくださったお客様のために、Myマスターはサクラがいなくても、そして今まで一度もしたことのない手巻きにチャレンジしてでも、ダイレクトテイクでブラを作ろうと思われたんですね……」
「えぇ、きっとそうよ。それに薫はあなたをとても大切にしているんだから、おかしな心配はしちゃダメよ。薫のことを信じてあげて」
「はい樹里様。サクラが悪かったです」
「いい子ね」
直りきっていなかった襟元の乱れも元通りにしてやり、樹里は後方を振り返る。そしてGoldfinger -X に覆いかぶさるような姿勢で、台面にフルサイズで映っている漸次の画像に怒声を浴びせている薫の背中を愛おし気な視線で眺めた。
ディスプレイの中では「今日はあんがとなルーキー! おかげで助かったぜ!」と漸次が呑気に礼を言っている最中だ。
「礼なんか言ってる場合かよ! 何考えてんだよあんた!? うちのサクラになんてことしやがるんだ!!」
「お、サクラから聞いてねぇのか? そのアンドロイドは来年の発売を予定している商品の試作品なんだよ。んで製作元からそいつを一般販売する前にNNを持つ機械とそいつをドッキングさせて動作の最終チェックをしてほしいと懇願されてなぁ。実はその製作元には前にちょいと面倒をかけちまったことがあってよ、その関係でこの依頼を断れなかったからお前さんとこのサクラに協力してもらったってわけさ。うちの武蔵のようにサクラをそいつに完全に組み込んじまってるわけじゃねぇからそう怒るなって! またこの俺がちょいちょいといじればすぐに外してやれるからよ」
「ふざけんなよオッサン!! なんでわざわざ俺のエスカルゴなんだよ!? あんたんとこの琥珀にさせりゃあいいじゃねぇか!!」
「バカ、琥珀にそれを繋げてみろ。うちのエロ娘にそのアンドロイドを与えたら、その身体を使ってまた何をやらかすか分かったもんじゃねぇよ。そいつ、穴持ってんだぞ? 」
「穴だと?」
「なんだ、それもサクラから聞いてないのかよ。そいつ、愛玩少女だぜ?」
「なにぃいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!?」
本日一番の絶叫が店内を駆け抜ける。
サクラのAIが組み込まれたアンドロイドが、男の欲求不満を解消できる特殊機能も兼ね備える高機能タイプなことを知らされた薫は驚きで目を剥いた。
そして絶叫した背後では裕福なお嬢様生活が長かったために一般常識には少々うとい樹里が、
「サクラ、“ チェリッシュ ” ってなぁに?」
と無邪気に尋ねている。
「まままま待て!! 言うんじゃねぇぞサクラ!!」
薫は慌てて後ろを振り返るとサクラにそう厳命を下したが、またしても一瞬遅し。
「はいっ樹里様! チェリッシュとは別名、 “ 一夜の恋人 ” とも申しまして、さみしい男性の夜のお伴ができるアンドロイドのことです! ですのでもしMyマスターがサクラのこの身体でご自身の肉体的欲求を解消したいと仰るのなら、今のサクラはそれに全力でお応えすることができるということなのです!」
と身も蓋もない露骨な正解を告げてしまっている。
しかも悪いことは重なるもので、薫のすぐ後ろに樹理がいることを知らない漸次からは、
「おいどうしたルーキー? ちゃんと聞こえてるかぁー? 今回は下関係のテストは別にしなくてもいいぜー? だがお前さんがせっかくだから具合を試してみたいってんなら別にヤッても一向に構わねぇけどよ。ま、好きにしてくれや! おっとそうだ、それとよ、もしそのアンドロイドが欲しかったらモニター後に特別進呈するってよ。そいつ、実際に販売されたら結構な値段になると思うぜ? 一週間したらまたそっちに顔を出すからよ、要るか要らないか考えといてくれや! じゃ、よろしく頼むぜ!」
と薫の息の根を止めかねないほどの爆弾発言を残し、一方的に画面上から消えてゆく。
「薫……! まさかあなた……!!」
今までは薫にどんなにガミガミと叱られても常に笑顔を絶やさず従順で、しかも籍を入れて妻となってからは夫を立てることを決して忘れなかった樹里が、今だけは薫に負けないほどの鋭い視線と凄まじい気迫で一気に詰め寄ってきた。
「あなたまさかこのアンドロイドをもらうつもりじゃないでしょうね!?」
「もっ、もらわねーよ!!」
「もしこれをもらったらあなたとは離婚しますから覚えておいて!!」
「だからもらわねぇって言ってんだろうがっ!! こんなモンもらってどーすんだっつーの!! 俺の話を聞けドアホ!!」
「聞いてるわ!! 聞いてるから言ってるんじゃないっ!! いつもあんなに激しく私の身体を求めてくるくせに一体何がさみしいっていうの!? 薫のバカああああああああ!!」
「バカ野郎っ! 全然聞いてねぇじゃねーかよっ!! くだらねぇ邪推をすんなって今お前に言ったばかりだろうがぁあああああああ!!」
「あ、あのぉ~、どうかお二人とも落ち着いてください……。どうしましょう、なんだかサクラが悪いような気がしてきました……」
―― 定休日の店内で壮絶な口喧嘩を始めた夫婦の側で高機能なアンドロイドはいたたまれない。
推論形式の一つ、「推定」を使用してこの場に漂うデンジャラスな空気を己の人工知能で判断したサクラは、骨格の外側にあるアクチュエータを小刻みに動かし、メイド服に包まれたその身体をゆっくりと縮こまらせたのだった。




