7. やっぱテメェ年上かよ
「ったくなんなんだあの女は……」
冷めかけている湯船に浸かりながら薫は愚痴をこぼした。
湯をもう少し熱くしたいところだが、光熱費のことを考え、物足りないが我慢する。
不慮の事故で父が亡き後、女手一つで育ててくれた母親が必死に働いて遺してくれた貯金で、一、二年ほどであれば働かなくても妹と二人で生きてはいける。
だが可乃子が成人するまでにまだ十年以上の年月が流れる事を考えると、少しでも早く自活できる目処を立てる必要があった。そのためにもできるだけ節約していかなければならない。
湯がぬるいので身体が温まりにくいせいか、なかなか上がる気になれなかった。
ふぅとため息をつき湯船の中から浴室の小窓を見上げると、窓の桟の部分に浴室内にまで持ち込んだ例のブラファイルが置かれている。
樹里にこのファイルの中身を見られた時、薫の頭の中をよぎったのは「絶対にドン引きされる」という恐れの感情だった。
いくつも書き殴ってあるブラジャーのラフスケッチを見て絶句し、硬直し、ファイルを取り落とし、最後は汚物を見るような目で見られると思った。
だが樹里は薫のそんな予想とは裏腹に、蔑むこともせず、マスター・ファンデを目指す熱意が分かったとまで言ってきた。
その反応があまりにも意外すぎて頭がついていけてない。
「……俺のブラジャーが “ 優しい表情をしている ” だって? 頭おかしいんじゃねぇかあいつ」
浴槽のへりに置いていた手拭いを手に取り二度目の独り言を呟くと、浴室の扉が急に開く。
「あいつ、とはまさか私のことではないだろうな?」
浴室内に「うおおおおお!?」と薫の叫ぶ声が響いた。
「おっおまっ、なに勝手に入ってきてやがんだ!?」
「済まない薫……」
身体を薄いピンクのバスタオルで覆って突然現れた樹里はほんのりと頬を染め、後ろ手で浴室の扉を静かに閉める。
「この場所は本来は裸で入るものだとは思うのだが、やはりいささか恥ずかしくてな。こうしてバスタオルを利用してしまった無礼は許してくれ」
「勝手に入ってくること自体が無礼だろうが!! 何してんだてめぇは!?」
長い髪を頭頂部でひとまとめにした樹里は、湯船のなかで慌てふためいている薫に笑いかける。
「一宿一飯の恩義を返そうと思ってな。君の背中を流してあげよう」
「バッ、バカじゃねーのかお前!? いいから出てけ!!」
「お、これはさっきの君の作品ファイルだな?」
しかしまたしても薫の命令を華麗にスルーし、樹里は窓枠に置いてあったファイルに手を伸ばした。
「脱衣所に無いと思ったらこんなところにまで持ち込んでいたのか。よほど大事なものなのだな」
「だから触るなっての!!」
薫は湯船から立ち上がりかけたが、下半身を晒してしまうことに気付き慌ててザブリと湯船に身を戻す。危うく己の分身を水中から魚雷発射する光景をお披露目するところだった。
「大切なファイルなんだろう? こんなところに置いておいたら濡れてしまうぞ。向こうに置いてきてあげよう」
樹里はファイルを手にすると、脱衣所にファイルを置きに出て行く。
チャンス到来だ。
薫は電光石火の早業でザブリと湯船から立ち上がり、素早く腰に手拭いを巻くと樹里がもう入ってこられないように全力で扉を押さえようとした。しかしタッチの差で扉は外側に大きく開け放たれる。
「薫、まさかもう上がる気ではないだろうな?」
「なんでまた入ってくんだよ!?」
「だから背中を流すといってるだろう」
「いいって言ってんだろ!!」
「しかし恩を受けたままで返さないというのは私が心苦しいのだよ。私の心の平穏を保つためにもおとなしく背中を流させてくれ。流させてくれたら出て行くよ」
「お前どんだけ自由人なんだよ!?」
「ほら座って背中をこちらに向けろ」
バスタオルの上部から妖しく覗き見える樹里の胸の谷間が気になって仕方がない。
湯船の湯はぬるかったはずなのに、まるで湯当たりしたかのように頭がクラクラとしているのはこのクレバスのせいなのか、と薫は思った。
ここは無駄に抵抗するよりも、おとなしくこの女の気の済むようにさせて浴室から早めに追い出した方がこちらの身体の変調を気付かれないだろうと薫は判断する。
「背中を流したら出てくのか!?」
「あぁ約束しよう」
樹里は頷く。
ここは腹を決めるしかない。
浴室の椅子にドッカリと腰を下ろし、薫は背中を向けた。
「て、手っ取り早くやれよ!?」
「了解だ」
樹里はスポンジタオルにボディソープを垂らし、きめ細かい白い泡を充分に泡立ててから薫の背中を流し始める。浴室内にゴシゴシというかすかな音だけが響き始めた。
「……か、可乃子は何してんだ?」
樹里が何も喋らなくなったのでシンとする浴室の雰囲気に耐えかねた薫が妹のことを尋ねた。もし今のこの状況を可乃子に見られたら、という不安もある。
「もうとっくに寝ているよ。今何時だと思ってるんだ? 」
背中側から聞こえてくる樹里の声にはかすかな笑いが含まれている。
「何時か分からないくらい君が熱心に勉強をしていたということだな。そういえば可乃子から聞いたが君はこの間まで高校生だったそうだね。ということは18歳でいいのかな?」
「あぁ。お前は何歳なんだ?」
「20歳だが?」
やたらと尊大な態度と口調から薄々は感じていたが、やっぱり年上かよ、と薫は思う。
だが年上だからと言って今さら年下らしく相手を敬う態度を取るつもりも無い。そこで特に何も感じていない風を装って別の話題を口にした。
「なぁあの問題集だけどよ、マジでほとんど間違えてんのか?」
スポンジの動きが急に止まる。
「あぁ。実はさっき君が部屋を出て行った後、あの引き出しから解答集を見つけたので何ページか答えあわせをしてみたが、やはりほとんど間違っていたよ。たまに三択が合っていたくらいかな。文章で答えるものはほぼ全滅だった」
「……そうか」
薫は肩を落とした。
自分の頭の悪さが恨めしい。
いくら実技が良くても筆記が壊滅的な結果ではFSSの試験をパスすることは難しいだろう。
もっと早くから筆記の試験勉強を始めておけばよかった、と後悔する。
「その試験はいつなんだ?」
「8月25日だ。あと一ヶ月半しかねぇ」
「薫、そう考えてはダメだ。“ あと一ヶ月半もある ” と思わなくてはな。思考は常にポジティブに、だ。これは長い人生を生きていく上で大事なことだよ」
背中をこするスポンジがまた上下に優しく動き出す。
「それにさっきの君のあの凄まじい集中力ならきっとすべての答えを覚えられるさ」
「俺、バカだから記憶力ねぇんだよ」
「本当の愚か者は自分で自分を馬鹿とは言わないものだよ薫」
「…………」
背中を洗い終わった樹里はシャワーのコックをひねると泡まみれの薫の背中を綺麗に流してゆく。
「大きくて広い背中だな。洗い甲斐があったよ」
最後にそう感想を告げると「おやすみ」と言い残し、樹里は浴室を出て行った。