【 1 】 なんでだよ あいつは俺の女だぞ
女性下着専門店・【 菩庵寿 】。
夏真っ盛りの八月下旬、下町区画の隠れた名所の一つであるこのブラショップは本日も忙しい。
女性下着請負人暦も四年目に入り、すでに肩書きはワンランク上の 【 Master Bra 】 となっている薫の元には全国各地から数多くの注文が舞い込むようになっている。
今日は水曜日で菩庵寿は定休日だが、少しでも早く顧客の元へ商品を届けるため、薫は店内で商品製作に精を出していた。
「薫、もう1時を過ぎてるわ。お昼にしよ?」
朝食後、一心不乱に仕事に打ち込み続けている薫を心配した樹里が店内に姿を見せ、食事の準備が出来たことを告げた。しかし薫は手元のブラから視線を外さず、その誘いをぶっきらぼうに断る。
「いやいい。後で食うからお前先に食ってろ。一気に仕上げちまいたいんだ」
「そう……」
あまりにもすげなく断わられ、薫と一緒に昼食を取りたい樹里はかすかに目を伏せるとその美しい顔を寂しげに曇らせた。
「じゃあそれが終わるまで待ってるわ」
「だから待たなくていいっつーの。先に食ってろって」
「ううん、終わるまで待ってる」
大きな舌打ちが店内に響いた。
待つなと再三に渡って命令しているにもかかわらず自分の言う事をきかない樹里に、ついいつもの悪癖が出る。
「だからまだかかるって言ってんだろ? お前がわざわざ待ってることねぇんだっての」
「でも」
「グダグダ言うなっつーの。いいから先に食ってこいや」
「……分かったわ」
頭ごなしに拒絶された樹里は青色のエプロンを外し、さみしそうに家の中へと戻っていく。
背を向けた樹里が足音を立てずに店内から出て行った後、夫婦のやり取りの一部始終を薫の左腿の上に鎮座してじっと見守っていた電脳巻尺のサクラが突然、宙にふわりと浮きあがった。
『 Myマスター! 』
「あ?」
『 どうして樹里様にそのような冷たい態度をお取りになるのですか!? あれでは樹里様がお可哀想です! 』
「あぁ!? なにが可哀想なんだよ!? 俺はあいつのために言ってるんだぞ!?」
『 樹里様のため……? ではMyマスター、あなたは樹里様のためを思って、先にお食事を取るようにと仰ったのですか? 』
「当たり前だろ!? いつ終わるかはっきりわかんねぇもんをエンエンと待たせてたらあいつも腹が減っちまうだろうが!」
怒鳴り散らしているこの時間すらも無駄にすまいと、薫はブラを縫製する作業を続行し始めている。そんな仕事中毒気味の主の心に届くよう、サクラはゆっくりとした音声で相槌を打った。
『 ……そうですね、あなたの仰る通りです。ですがあのような言い方では樹里様にMyマスターのそのお心遣いは全然届いていないと思いますよ? 』
「チッ、じゃあなんて言えば良かったんだよ?」
『 とても簡単なことですMyマスター。樹里様を愛しておられるのであれば、あの方を大切に思っているそのお気持ちをもっとストレートにお伝えし、労りのこもった優しいお言葉をおかけになってあげればいいのです 』
薫は途端に眉間に大きな皺を寄せ、不貞腐れたように下唇を突き出す。
「なんでそんなかったるいことをいちいちしなくちゃなんねーんだよ。あいつは俺の女房だぞ?」
『 そこが男性と女性の感性の違いなのでしょうね……。ですがMyマスター、サクラは常日頃からあなたに申し上げているではありませんか。マスター・ファンデたるもの、いつ如何なる時でも女性には優しくせねばならないと。例えそれは奥様であっても同じです。いえ、むしろMyマスターの No,0 でいらっしゃる樹里様を誰よりも一番に慈しんであげるべきです 』
そこまで伝えるとサクラは主の顔の前でふよふよとホバリングを始める。
『 お聞きくださいMyマスター。サクラは機械ですので概念的にしか女性のお気持ちを理解できていませんが、おそらく樹里様もご自身がMyマスターから愛されていることは充分にお分かりになっていると思います。ですが女性は愛しく思っているお相手からの自分に対する気持ちを、言葉という形にして伝えてほしがる傾向があるのです。頭では分かっていても、言葉にして言ってほしいのですよ 』
「…………」
『 ですからMyマスターが樹里様を大切に思っているそのお気持ちのほんの一部分だけでもいいのです。どうかそのお気持ちを樹里様に仰ってあげてください。それだけで、樹里様はどんなにお喜びになることでしょう 』
菩庵寿の店内に沈黙が訪れ、やがてフーッと大きく息が漏れる音がした。
耳の痛い指摘を立て続けに受けた薫が吐いた青息だ。
険しい顔はしているものの、普段から血の気の多い主が口角泡を飛ばして反論してこないので電脳巻尺は更に畳みかける。
『 どうでしょうか? サクラが言いたいことを少しはご理解していただけましたかMyマスター? 』
サクラから肯定の返事を促された薫は「ケッ」と言いたげな顔で、
「どうしてお前ら女ってヤツは愛だの恋だのとクソくだらねぇことにギャーギャーと大げさになりやがるんだ。メンドくせぇにもほどがあるっつーの」
と毒づいた。
そんな不器用な主をすかさずサクラがたしなめる。
『 お言葉ですがMyマスター、今のご発言は完全にNGですよ? 妻帯者ともあろうお方がそのような事を軽々しく口にしてはなりません 』
「うっせーな、本当のことだろうが」
『 仕方ないですよ。だって女は恋に身を任せる生き物なんですから。それにサクラだって恋に生きてますしっ 』
このサクラの突然のカミングアウトに驚いた薫が「なにいいい!?」と目を剥く。
それと同時に店内に設置されていた鹿おどしがまるで合いの手を入れるようにカコーンと小気味よい音を立てた。
「お前何しれっと訳わかんねぇことをぶっこいてやがんだ!?」
『 だって実際に恋してるんですもの! Myマスターもサクラの恋が成就するように祈っていてくださいね! 』
「まっ待てや!! 相手は誰だ!? おいまさか清水のジジイんとこのあいつじゃないだろうな!?」
『 やだぁ! Myマスターってば普段は鈍いくせにヘンなところでは勘がよろしいのですね! 当たりですっ! 』
「やっぱあいつかよっ!?」
サクラの恋い焦がれる相手が国宝下着職人、清水 長次郎の持つ電脳巻尺、雷太だと知った薫は激昂した。目の前に浮かぶサクラをむんずと掴み、大声で怒鳴り散らす。
「ダメだダメだあいつは!! 清水の爺さんもあいつは女たらしだから止めとけって言ってたのを忘れたのか!?」
『 あら、雷太さんはそういう方ではございませんわ。Myマスターの誤解ですっ 』
「誤解じゃねぇ!! あいつ、この間の女性下着会談で他の巻尺にちょっかいかけてたのを見たぞ!?」
『 あはっ、だってあれは大規模なサミットですもの、雷太さんだって他の巻尺とお話することだってありますわ。でも雷太さんが女として見てくださっているのはサクラだけです。雷太さんはあの渋いお声でいつもサクラにそう言って下さいますっ 』
「バカ野郎!! クズ男に騙されてる女がよく言うセリフをしゃあしゃあとのたまってんじゃねぇ!! あいつはダメだ!! あいつにするぐらいならまだ武蔵の方がマシだっつーの!!」
『 武蔵さんはイヤです。それにあの人他に 』
サクラはそこでなぜか急に話すのを止める。
「おい、あいつが他になんだってんだ?」
『 Myマスター、間もなくお客様がお見えになりますよっ 』
「客だと? 店が休みなのにか?」
『 えぇ、Myマスターもよくご存じの方です! 』
誰だよ、と聞く前に菩庵寿の引き戸が勢いよく開けられた。
店の中に陽光を背に受けた大柄なシルエットが現れ、その人物は見事に輝くスキンヘッドを撫でながらずかずかと遠慮なく店内に入ってくる。
「おうルーキー! 久しぶりだな! 今日もクソ暑いが夏バテしてねぇか!?」
「あ!?」
店内に入ってきたその人物を見た薫はサクラを手から離し、慌てて立ち上がった。
突然の訪問者は、樹里と籍を入れる際に見届け人になってもらった人物で、下着職人としても先輩に当たる万能工匠の漸次だ。
「な、なんだよいきなり来やがって! ビックリすんじゃねーか!」
「そうつれないこと言うなよ! お、髪が伸びたなルーキー! だがそのニワトリ頭は変わんねーな!」
「うっせーよ! それにいつまでも俺を新人呼ばわりすんじゃねぇ!! 俺だってもうマスター・ブラなんだぞ!?」
「ヘッ、俺らから見たMater Braなんて所詮は半人前よ! おうそうだ! 今しがたそこで須藤のババアに会ったぜ? あの婆さんまだ生きてやがんだな。しぶといババアだぜ」
漸次の口から近所に住む老婦人の名前がサラリと出たので薫は驚く。
「あんた須藤の婆さんを知ってんのかよっ!?」
「よーく知ってんぜ? 俺はここが生まれ故郷だって前に言ったろうが。ガキの頃お前の親父と悪さをしたらあの婆さんにしょっちゅうしばかれてたよ。ま、昔はあそこまでババアじゃなかったがな。ところでどうだ、そっちの景気は?」
「へっ、メチャ忙しいぜ? 今日も休日返上で仕事中だ」
作業台の椅子に再び座り、ニヤリと笑ってそう即答した薫の声は若干誇らしげなトーンだ。
自分より二回り近く年下のマスター・ブラの仕事が好調なことを知った漸次は「おうそりゃあ結構なことじゃねぇか!」と嬉しそうに顔をほころばせる。
「なんたってお前さんは家族持ちだからな。仕事が順調でなによりだぜ。どうだ、手が足りねぇならうちの武蔵を応援に来させてもいいぞ? あいつも今はヒマぶっこいてるからな」
「いい。あいつ苦手だ」
「しっかしお前らはいつまで経っても仲が悪ィなぁ! どっちも気が短けぇし、気質が似たもの同士だから反発するってか?」
「ほっとけっつーの! そ、それよりよ……」
「ん? どうしたルーキー」
「…………」
よし言うぞ、という空気を滲ませ、薫はゴクリと唾を飲む。
「ココッ、コッ、コウの兄貴は、元気か……?」
「ハハハッ! 急に何どもってんだよお前! んなトサカ頭にしてっから口調までニワトリになっちまったか? あん?」
「からかうんじゃねーよ!! 俺は真面目に聞いてんだぜ!?」
「悪ィ悪ィ! 安心しろ、あいつなら元気だぜ」
その返答に、それまで憤っていた薫の表情が安堵のものに変わる。
「無事ならいいんだけどよ。こっちには戻ってきてないのか?」
「いや、あっちとこっちを行ったり来たりしてるぜ。そういう職業になったからな、あいつも忙しくしてるよ」
「もうマスターファンデの仕事はしていないんだろ?」
「いや、たまにしてるぜ? あの肩書きは維持しとかねーと武蔵がヤバくなるからな」
「あぁそうか、そうだよな」
ここで漸次はパールピンクの電脳巻尺に目を向け、「ようサクラ! お前さんも元気そうだな!」と声をかける。声をかけてもらえたサクラは薫の左腿の上で『 はい! こんにちは野獣さんっ! 』と茶目っ気たっぷりに挨拶を返した。
「バ、バカ! お前そのいい加減に呼び名やめろっての! 俺の立場を考えろ!」
『 あら、そういうMyマスターだっていつも目上の野獣さんに失礼な口のきき方をしているじゃありませんか。しかもこの方はあなたよりランクが上のオールラウンダーさんでおられるのに 』
「ぐ……」
サクラから厳しいツッコミの反撃を受けている薫を見た漸次が高笑いをする。
「いいコンビだなお前らも! ところでルーキー、お前の嫁さんはどうした?」
「カミさんなら奥にいるぜ?」
「元気か?」
「あぁ」
「ちゃんと可愛がってやってっか? 釣った魚にエサはやらねぇなんて調子こいた真似なんかしてっと捨てられっぞ?」
『 それが野獣さん聞いて下さい!! Myマスターはいっつも樹里様にガミガミ言ってばかりなのでサクラはいつもハラハラしっぱなしなんです! 』
「マジかよ? おいルーキー、嫁さんは大事にしてやれや。お前にはもったいないほどの出来た嫁じゃねーかよ」
ここでまた鹿おどしが一段といい音を店内に響かせる。まるで「まったくもってその通りだ」と相槌を打っているような見事なタイミングだ。
その鹿おどしに漸次が一瞬だけ目を向け、「お、とうとう清水のジジイに無理やり付けられちまったみてぇだな」と愉快そうに笑った。
『 野獣さん、お願いがありますっ!! 人生の先輩である野獣さんからも、うちのMyマスターに心が温かくなるような優しいお言葉を樹里様にかけるようにって仰っていただけませんでしょうか? 』
「それは別に構わねぇけどよ、俺の息子ならともかく、こいつのこの性格なら女が喜びそうなキザな台詞は死んでも言えねーと思うぜ?」
『 そうなんですよねぇ……。自分のお気持ちを樹里様に素直に伝えておあげになればいいだけなのに、そんな簡単なことが出来ないなんてホントに困ったMyマスターなんです 』
「う、うっせーよ!!」
「まぁそうカッカするなよ! 相変わらず血の気の多い奴だなお前さんは!」
漸次が薫の肩を勢いよく叩く。
「とにかく嫁さんは大事にしてやれや。お前さんと一生を添い遂げてくれるたった一人の相手なんだからよ。そんで話は変わるけどよ、物は相談でサクラをちぃーっとばかし俺に貸してくんねぇか?」
馬鹿力で肩を叩かれて顔をしかめていた薫はその突拍子もない依頼に声を荒げる。
「なんでだよ!? こいつがいないと俺の仕事が進まなくなるじゃねーか!」
「それはわかってるって! だから半日だけでいいからよ。今日の夕方には帰すからちょいとだけお前の娘を貸してくれや。な? 実はそのためにここに来たんだよ。頼むって」
「なんだよ、それを早く言えっての。今日中に帰してくれんなら構わないぜ。いいな、サクラ?」
『 ハイッ、かしこまりましたMyマスター! 』
サクラは空中で一礼する。
『 野獣さんはご結婚前のMyマスターと樹里様が蕪利区画で時々お逢いできるように色々と計らってくださったり、ご結婚の見届け人にもなっていただいた、この廻堂家にとって、とてもご恩のあるお方。Myマスター以外の男の方に身体を触られるのはイヤですが、採寸のお手伝いをしてまいります! 』
「悪いなサクラ。必ず夕方までには父さんのとこに帰してやっからよ」
『 はい野獣さん! 半日の間よろしくお願いします! 』
「なぁ、琥珀になんかあったのか? 調子悪くてリペアに入れちまってるとか……」
自身も専用のエスカルゴを所持している漸次がなぜサクラを借りたがるのかが分からない薫は理由を尋ねた。
「いやうちの娘は問題ねぇよ。ピンピンしてらぁ。だが琥珀にあれのテストをさせるわけにはいかないんでな」
「テストってなんだよ?」
「おっと詳しい事は後だ後! 時間がねぇんだよ。そんじゃサクラを連れていくぜ?」
「お、おう」
『 ではMyマスター、行ってまいりますね! 』
「ホントすまねぇなルーキー。マジで助かるぜ。これはお前の貸しにしといてくれていいからな」
サクラを連れ、慌ただしく漸次が店を出てゆく。
一人になった店内で薫はブラ制作の続きをしようと左手首の腕針刺に刺してあった針を手に取ったが、少し考えて結局リストを手首から完全に外し、自宅の中へと戻った。
居間に顔を出すと樹里が少し疲れたような顔でうつむき加減にソファに座っている。
「おい、飯は食ったのか?」
ぼんやりとしていた樹里は突然声をかけられ、弾かれたように顔を上げた。そして薫が来たことを知ると「ううん、まだ」と小声で答える。
「やっぱ食ってねーのかよ」
薫は足取りも荒く樹里の側に歩み寄り、その隣に乱暴に腰を落とした。
ソファの座面を通してその衝撃が伝わり、薫が怒っていると勘違いした樹里は、「ごめんなさい。食べようと思ったんだけどなんだかあまり食欲がなくて」と先ほどよりもさらに小さな声で言い訳をする。
そんな樹里に、薫はソファの背に広げた両腕を投げ出してふんぞり返り、ぶっきらぼうに告げた。
「一緒に食おうぜ」
薫から誘われた樹里は「え?」と目をパチクリとさせ、隣に座った夫の横顔を見上げる。
「だってあのブラを一気に作るんでしょ?」
「いやいい。気が変わった」
「ホント!? じゃあ今すぐ支度するねっ!」
すぐに立ち上がった樹里が台所へと小走りに消えてゆく。
やがて楽しそうなハミングが奥から途切れ途切れに流れ出し始めた。
その弾むような旋律を仏頂面で聞いていた薫は樹里の肩にかけそびれた自分の左手を持て余し、
「女が喜びそうなキザな台詞ってどんなんだっつーの」
と口を尖らせて呟いたのだった。




