67. 【 本編完結 】 ― 新しい家族 ―
下町区画には桜の木々が数多く植えられている。
強めの春風が吹くたびに、薄桃色のたくさんの花びらが薫の店の周りを、まるで手に手をとるようにひらひらと楽しげに舞っていた。
見頃のピークは二日前に過ぎてしまったが、桜の木々が自身の一部を散らせて魅せてくれるその美しくも心和む風景に、店内でブラの作成に没頭していた薫は一旦手を止めて入り口の硝子部分から外を眺める。
すると引き戸の向こう側に、見覚えのある特徴的なヘアースタイルの男が映った。
まん丸によく膨らんだアフロを頭頂部に乗せたその男は、勢いよく引き戸を開けると、
「どうも~! FSS広報部です! 廻堂 薫さんはいらっしゃいますかぁ~!?」
とうるさいぐらいの陽気な挨拶をする。
「なんだよ芝エビかよ」
うんざりした様子の薫に、芝桜 林太郎はいつものハイテンションで更なる精神攻撃を仕掛け始めた。
「芝エビじゃないです! シ・バ・ザ・ク・ラ! FSSに入社して五年目の今年で27歳! そろそろ仕事に責任を持たないといけなくなってきた芝桜です!」
「アホか、入社年数なんか関係ねぇだろ。男が仕事に責任持たないでどうすんだ」
「おぉ~っと! 入店してわずか10秒! いきなり重々しいお言葉をいただきました! 今の台詞も早速我が広報誌、【 Bra LOVE 】で使わせていただきますね薫さん!」
「だから馴れ馴れしく名前で呼ぶんじゃねぇよ。何回言えば分かるんだお前は」
「なぁにを今さら! 僕が初めてこのお店に来てマスター・ファンデになったばかりの薫さんを取材させていただいてからもうすぐ三年ッスよ、三年!! こんなに長いお付き合いなのに相変わらずつれないなぁ~!」
「少しは落ち着けよお前」
そこへ薫の側にいたサクラが芝桜を認識し、空中から挨拶をする。
『 お久しぶりです! 昼行灯な芝エビ様! 』
「ひ、昼行灯!? ちょ、薫さんヒドイっすよ~! エスカルゴにまで僕の悪口を教え込んでるんスかぁ!?」
「事実じゃねぇか。で、今日は何の用だ?」
「ハイ! 今日は次号の特集で 【 いざ活目せよ乙女たち! 今をときめく男性マスター・ファンデはこいつらだぁ!! 】 の取材っス! 今回は非常に数少ない男性職人さんにビシバシとスポットを当てていくことになったんスよ! あ、もっちろん今回も謝礼はビッとお支払いしますんで、よろしく~!」
「生憎だが忙しい。んな取材はお断りだ」
即行で取材拒否をされた芝桜だが、薫とのこのやり取りは毎度のことでもう半分お約束と化してきているため、微塵のショックも感じていないようだ。
「えぇ、えぇ、えぇ、えぇっ!! それはもちろん知っておりますとも!! 新米一年目の時はお店の経営も大変だったようですが、二年目にして大爆発!! 今やこのボアンジュは、長い人生を歩ききってきた女性たちの大人の聖域、いわばサンクチュアリですからね!!」
薫は冷めた横目で、今にも揉み手をしかねない勢いの芝桜をジロリと睨みつけた。
「わざとまだるっこしい言い方してんじゃねぇよ。婆さん御用達の店と言え」
「それじゃズバリすぎて味気ないじゃないっスか~! でも俺マジで感動っスよ! ウチで半年前に60代以上の女性のみを対象にアンケートを取ったことがあるんスけど、皆さんが一度行ってみたいと回答したお店のNo,1はダントツでここでしたからね! なんでも最近じゃ、下町区画を旅行ついでにボアンジュに寄って薫さんにブラを作ってもらう、というのがお婆さんたちの下町巡礼コースになってきてるみたいっスよ! モテモテっすね薫さん!」
「アホか、婆さんにモテてどうすんだ」
「まぁまぁ、そう言わないで! お婆さんたちだって元はうら若き一人の女性なんすよ? やっぱ女は灰になるまで女ってことなんスかねぇ~! でもどうして薫さんはそんなにお婆さんに人気があるんでしょうかね? 薫さん以外にも男のマスター・ファンデさんは若干名ですがいるのに、俺、不思議っス!」
「俺だって知らねぇよ」
そこへ二人組みの小柄な老婆がガラリと店の扉を開ける。
「薫ちゃんはいるかい? ……あぁいたいた。ほれ、かすべの煮付け作ったから晩にお食べ。ここに置いとくよ」
「わっちはおむすびを作ってきてやったからね。どうせ昼も食べないでせっせとぶらじゃーを作ってたんだろ? 忙しいかもしれんが、食事はちゃんと取らんと駄目だよ? あんたの仕事は身体が資本なんだからね」
薫はブラを作っていた手を止め、二人の老婆に礼を言う。
「済まないな婆さんたち。これが終わったら後でありがたくいただくよ」
「なんもなんも。気にせんとき」
「そうそう薫、この間お達者倶楽部の集まりで旅行に行って来た時に、またここの宣伝をばっちりしといたからね。この間あんたに作ってもらった今年の最新もでるのぶらじゃーを見せてやったら皆興味津々だったよ。近いうちに何人かはここに来るんじゃないかねぇ」
「そうか、助かるよ。いつもあんがとな」
「じゃあ私らは行くからね」
「ああー!! ストップ!! ストップっす!! スミマセンがちょーっとお待ちくださぁーい!!」
帰ろうとしていた老婆たちに芝桜が大きなモーションでストップをかける。
アフロヘアーにひょろりとした体躯の芝桜を見た老婆たちは、
「なんね、アンタ?」
と訝しげな視線を向けた。
「ワタクシ、女性下着縫製協会、FSSの広報部に籍を置く芝桜 林太郎と申します! 今、薫さんの取材に来ているんですが、ちょっとお二人にもお話を伺っていいですかぁ?」
「まぁいいけど、私らに何が聞きたいんね?」
「薫さんのお店はお二人のような……、失礼ですが、ご年配の方々に大人気じゃないですか? その理由を探ってるんスよ。どうしてボアンジュがいいんスかね?」
老婆二人は一度お互いの顔を見合わせた後、順番に話しだす。
「私らはここの近所のモンだから、薫や可乃子の何か手助けになれればと思ってるだけさ。だから ぶらじゃーだってそうそうしょっちゅうは作っとらんよ? こうして晩のおかずを届けにくることの方が多いね」
「でもわっちらの友だちや知り合いにここの事はよく話すよ。ぶらじゃーを作るんならここに来んさいってね。口は悪いが孫みたいな子が一生懸命ぶらじゃーを作ってくれるよって宣伝しとるね」
「なるほど、口コミっすね! お婆さんたちの口コミがこのお店の人気を上げた原因の一つってことっスか! ご近所の助け合いの輪がこの地域にはまだ根付いているわけっスね! 感動っス!」
「それと薫は父親に性格が似ているところもいいんじゃないのかね。死んだ幸之進と薫はどっちも昔気質なところがあるから、わっちの知り合いなんかそこがいいとよく言ってるよ。じーさんの若い頃を見ているようで惚れ惚れするってさ」
「おおおおお!! なるほど!! 薫さんをご自身の旦那さんの若い頃に重ねてトキメいてるってことっすね!? すげぇ……! まるでジゴロっすね薫さん! 老婦人のハートを弄ぶプレイボーイ!!」
薫は心底うんざりとした表情でブラを縫い続けている。
「もうお前黙れよ芝エビ」
「黙りません! 黙らないっスよ! 今回の特集はいい記事になりそうな気配がビンビンにしてるっス! 俺の中でマジフラグが立ってるっスよ!」
「もうこんなもんでいいかい? 芝エビさん」
「違います! 芝桜です! でも取材のご協力ありがとうございましたぁー!」
「薫。あんた毎日遅くまでぶらじゃー作ってるみたいだが、あまり無理をするんでないよ」
「あぁ、分かってる。気をつけて帰れよ婆さん」
老婆たちが帰っていくとますます芝桜のテンションが上がる。
「薫さん! 俺マジで薫さんをリスペクトっす! その広い背中から滲み出る渋味に一生付いて行くっス!」
「うっせぇな。気が散るから帰れよ」
「でも薫さん、本当に忙しそうっすね……。それにしてもこの店、メッチャ雰囲気変わりましたよね!! 二年半前に僕が初めてここに来た時はどっちかというと洋風系だったのに、今は内装がメチャ和風じゃないスか! 外の看板も渋い緑青の銅板に変えてるし、名前も片仮名だったのが今は【 菩庵寿 】 になってるし、入り口は自動だったのが引き戸になってるし、古き良き時代への回帰って感じっス!」
「うちのメインの顧客は婆さんたちだからな。あの年代ならこの方が落ち着くだろ」
薫は腕針刺に一旦縫い針を指し、ブラの縫う面を変える。
「いや~マジでレトロですよね! でもこの古さが逆に新鮮っス! この店内も薫さんがコーディネートしたんスか?」
「いや、清水の爺さんにやってもらった」
「清水さん? ご近所に住んでいる方ですか?」
「乳当て工房の清水長次郎だよ」
長次郎の名を聞いた芝桜はアフロのてっぺんから抜け出たような素っ頓狂な声を上げる。
「ちょ、国宝職人じゃないっすか!? 薫さんパネェっす!! そんな凄い方との人脈もお持ちだなんてさすがっスよ!!」
「俺の人脈じゃねぇよ。親父が清水の爺さんの弟子だっただけだ」
「それでもすごいっス! そうかぁ、ここはあの清水さんが手がけた和の空間なんですねぇ……。なんだかありがたい気持ちが湧いてきました!」
感激している芝桜とは対照的に、薫は渋い顔で愚痴る。
「あの爺さん、ここを和風に変えようと思ってるって言ったらメチャクチャ張り切りやがってよ。今もちょくちょくウチを覗いては余計なモンをバンバン設置していこうとしやがるんだ。この間は勝手に鹿おどしを取りつけようとしやがって危うく店内でバトルになりかけた」
「ハハッ、いや~でも長次郎さんの気持ちも分かるような気がするっス! 下着ショップって洋風な店がほとんどだから、薫さんが店を和風にしてくれたのが清水さん的にはチョー嬉しいんスよ! きっと仲間ができたみたいな感覚なんでしょうね!」
芝桜は楽しそうだ。しかしここで急に頭を抱える。
「あー! でも今回の特集はマジで頭が痛いっス!」
「なんでだよ」
「今回の特集でメインスポットを当てようとしていた職人さんへの取材ができなくなったんすよ!」
「へぇ、誰だよそいつ」
「蕪利区画の “ Casquette Walk ” のコウさんっていう職人さんなんですが、薫さん知ってますか?」
薫は一瞬黙った後、低い声で言う。
「……あぁ知ってる。昔会ったことあるぜ」
「おーさすがですね~!! 男性職人さん同士の横のネットワークもお持ちとは! じゃあコウさんが行方不明らしいってのも知ってましたか?」
「…………」
返事をしなかったので、何も知らないと芝桜は判断したようだ。
「行方不明と断定していいのかは分からないんですけどね、二年くらい前からぷっつりと姿が見えなくなってるんスよ。店に出ているのを見たことがあるって人もいるんですが、僕らが取材に行ってもいつもいないんですよねぇ……。ここに来る前にコウさんのお父上で万能工匠の漸次さんにもインタビューをしてきたんですが、コウさんがどこに行ったのか教えてくれないんですよ。 “ もうここには戻ってこねぇかもしれねぇぞ ” って言われましたし……」
「……行方不明じゃないと思うぜ。そいつにとって失くしたくない大事な女を探しに行ったんだろ」
「おおお!? なんか意味深な発言ッスね薫さん!! もしかして何かご存知なんスか!?」
「さぁな」
薫は素っ気無い声でまたブラを縫い続ける。
芝桜はケチっすねぇ、と文句を呟いた後でまだ愚痴を続ける。
「二十代の男性職人さんの中でコウさんはずば抜けて女性人気が凄いですから、今回の特集の目玉になると思ってたんですけどねぇ……。だから僕もマジ参ってるんです。なので、次点人気の薫さんを今回の特集で超プッシュで行かせていただく予定ですのでご協力よろしくッス!」
それを聞いた薫は苛立たしげに舌打ちをした。
「止めてくれや。そんなモンに祭り上げられるのはゴメンだっつーの」
「でもでもでも! 今回の 【 Bra LOVE 】 の男性職人特集で薫さんの名を更にアピールすれば、お婆さんたちだけじゃなく、若くてピッチピチで超キュートな女の子もこの店にたくさん来るかもっスよー!? ヘヘッ、どーすか? 薫さんだってプリティベイビーたちの来襲と聞いて俄然興味が出てきたでしょ?」
「アホか。別に婆さんだって若い女だって構わねぇよ。俺のブラジャーがいいと言ってくれる客に、俺の魂の入った作品を売る。それだけだ」
「くうう~~っ!! 相変わらず仰るお言葉の一つ一つが渋いっスね薫さんは! 女性であれば年齢など一切関係なしで分け隔てせず、ってことっスか! ブラ職人の鑑っス!」
「だからうるせぇってんだろお前は。もう帰れよ」
「嫌っス!! 帰らないっスよ!! まだ取材は終わっておりませんので!! ……あれっ? 今ただいまって声が聞こえたような……」
「可乃子だろ」
「あぁ妹さんっすか! 今何歳でしたっけ?」
「13歳になった。今年から中学だ」
「うおおおお!! もう中学生っスか~!! 時が経つのは早いっスね! 可乃子ちゃんも大きくなったんじゃないスか?」
「あぁ。でもお前は全然変わってねぇよな。今年で27にもなんのによ」
「え~~そうっスかぁ? ヘヘッ褒めてもらえて嬉しいっス!」
「褒めてねぇよ。人間の器が全然デカくなってねぇって言ってんだ。こんな簡単な皮肉も分かんねぇのかてめぇは」
「まーたまたまた! 薫さんは相変わらずキツいことを仰いますね~! えっと確か薫さんは今年で21歳っすよね? いや~とても成人したばかりとは思えない渋さっすよ! 腕も確かだし、すでにマスター・ブラの称号を持つ薫さんなら、このままいけばあと数年で万能工匠の試験にもチャレンジできるんじゃないっスかねぇ? あっ、その時はまたウチで特集を組ませてもらいますよ!! タイトルは 【 いざ見届けろ! 至上最年少の万能工匠誕生か!? 】 で決まりっスね!!」
そこへ中学校から帰ってきたセーラー服姿の可乃子が店の奥から顔を出す。
「お兄ちゃん、可乃子何か手伝うことある?」
「あっ可乃子ちゃん、どうもっス! お邪魔してまーす!」
芝桜を見た可乃子はニコッと会釈をすると、お辞儀をした。
「あ、背は大きいけど中身は小さい芝エビさんだ! こんにちは!」
「し、芝桜っスよ!! もう薫さ~ん!! 可乃子ちゃんにまで変なこと吹き込まないでくださいよ~! 僕、これでも意外にガラスのハートの持ち主なんスよ?」
「嘘付け。お前ほど空気の読めない厚かましい人間見たことねぇぞ」
薫はつっけんどんな口調でそう突っ込むと、可乃子に顔を向けた。
「可乃子、悪ィけど裏の倉庫から生地を持ってきてくれ。AS-2って書いている箱に入ってる」
「うん分かった! AS-2なら矢絣柄の生地だね! 取ってくる!」
「あ、待て可乃子!」
倉庫に行きかけた可乃子を薫は引き止めた。
「おいサクラ、お前念のために可乃子についていけ。あの箱は確かかなり上の方にあるはずだ。万一箱が崩れて可乃子が下敷きになったりしたら大変だからな」
『 了解ですMyマスター! 』
「おいでサクラ!」
『 ハイ、可乃子様! 』
サクラを連れた可乃子がセーラ服の襟元を大きく翻して出て行くと、その可憐な後ろ姿に芝桜が熱い視線をガンガンに送る。
「うおおおお~!! 可乃子ちゃん、ちょっと見ない間にますます可愛くなってるっスね~!! 大きくなったら絶対チョー美人になりますよ! 今13歳なのかぁ……。ん~、あと4、5年したら僕のお嫁さんに来てもらおうかなぁ~~? なーんて!」
「…………殺すぞてめぇ…………!!」
「ひいいいいいいい!! じょ、冗談です薫さん!! だからそんな恐ろしい目で睨まないでください! マジ恐怖っす!!」
「テメェは道端の案山子とでも結婚してりゃいいんだよ」
「ひどいっス! それはあまりにもヒドイッスよ薫さ~ん!」
意気消沈しながら周囲を見回した芝桜は、薫が作業していた台に目を留める。
「あっついに薫さんも導入したんスね、この作業台! その名も、【 Goldfinger―Xヴァージョン 】!! これチョーすげぇんですよね! 台の表面全体に液晶ボードを贅沢に埋め込んでるから、もう一々PCに戻らなくても作業をしながら色んな処理ができちゃう優れもの! これ今かなりの品薄で納品に三ヶ月待ちって噂っスよ? おー! 今日もたっくさんの注文が来てますねぇ! つーか、一分置きに受注件数増えてってません?」
芝桜は興奮した様子で作業台にあちこちに表示されている情報を眺める。
そして左上隅に表示されていたある情報に目を留めた。
「あっ! これ僕が昔勝手に見て薫さんにメッチャ怒られたウチの会計ソフトの入力手順マニュアルですね! ……いや、違うな……。分かったあ! これ最近出た新しいヴァージョンの方だ! そうっすよね?」
「あぁ」
「このソフト、数年ぶりに大幅に仕様変更したんすよね~! これ一本で発注から在庫管理までさらに簡単に管理できるようになったんすからすげぇっスよ! そして薫さんは相変わらずこの綺麗な字を書く方に操作の手順をペンタブで書いてもらって直接送信してもらってる、と! でも薫さん、実は前のマニュアルの時も気になってたんすけど、この右下の隅に描いてある奇妙奇天烈な絵はなんなんすか? UMAっスかね?」
「アホか、なんでそんなところにUMAがいるんだよ」
「だってこの未確認生物がなんなのか僕には全然分かんないっスよ?」
「……それはアヒルだ」
「アヒルゥゥー!? いやおかしいでしょこれ! これのどこがアヒルなんスか!? マジこの絵とアヒルの接点が僕には見つけられないんスけど!?」
「まぁな……。俺も昔はいいだけボコられて死にかけてるモグラだと思ってたよ」
「この人、字はこんなに綺麗なのに、絵心はゼロなんスね……」
「天は二物を与えなかったんだろ」
手元のブラを縫い終えた薫は、また縫い針を手首の針山に刺すと色んな角度からの最終チェックに入る。
「あの~薫さん。未確認生物の話で思い出したんスけど、この店がなぜ老婦人たちに人気があるのかの理由はさっきの話で何となく分かったんですが、でもまだこの店の不思議な点、未確認な情報があるんス! それもお聞きしていいですか!?」
「ったくうっせー奴だな。さっさと言えよ」
「今、このお店の経営は順調なんスよね? ならどうして人を雇わないんですか? もう一人マスター・ファンデを雇うとか、従業員さんを雇うとか……。どう見ても今の薫さんってキャパを思いっきりオーバーしてると思うっス」
薫は今にも「けっ」と言いたげな顔をした。
「職人は雇わねぇよ。この城の主は俺一人で充分だ」
「じゃあ従業員を雇えばいいじゃないですか。雑用を引き受けてもらえるだけでもグッと薫さんの負担が少なくなると思うんスけど?」
「それもいらねぇ。この店は家族だけでやってくって決めてんだ」
「おぉ! それが薫さんの譲れない信念ってことっスね! 今の二つのお言葉もキャッチコピー用にいただいときます!」
その時、またガラリと引き戸が開く。
桜の花びらが乱舞する中、数枚の花びらと共に店内に現れたその来訪者を見た芝桜が最高に興奮した様子で薫に詰め寄った。
「薫さん!! 来た来た来た来たああああ!! ついに来ちゃいましたよおおお!! 本日のラッキータイム到来っス!! これは日々仕事に忙殺される薫さんにブラの神様が与えてくれたご褒美的なサプライズですね!!」
そして芝桜は目の前の訪問者に不躾な視線を戻し、頭のてっぺんから足先までを舐めるように見回した。
「しかしすごくお綺麗な人だなぁ!! ……あ、失礼しました! ワタクシ、女性下着縫製協会、FSSで広報をやらせていただいている芝桜と申します! 今日は老婦人たちの憧れの的、ワイルドな孤高のブラ職人、マスター・ブラの廻堂 薫さんに取材をしに来ております!」
芝桜に全身を凝視されたその訪問者は特に不快な様子を見せるわけでもなく、口元をかすかに上げ、
「あなたのことはよく存じ上げておりますよ、芝エビさん」
と答えた。
「んああ!? な、なぜ私のことをご存知なのですか!?」
一部が間違ってはいたが、自分の名前を言われた芝桜が驚きで目を剥いた。艶めいた桜色の唇がその理由を答える。
「彼からあなたのことはよく聞いていましたから。……薫、遅くなって済まない」
「マジで遅ぇよ」
ブラのチェックを終えた薫はそれを納品棚に置くと、少し伸びかけてきているアッシュブラウンの髪をがしがしと掻く。
「戻るって連絡してきてから何日経ってると思ってるんだよ。花見のピークは一昨日だったんだぞ? お前と花見に行くのを可乃子もサクラも楽しみにしてたのによ」
眉間に皺を寄せた薫からそう文句をつけられた樹里は、その小言を「今夜四人で夜桜を観にいけばいいじゃない」とクールな微笑みで受け流した。
「最後の雑用が思ったより長引いてしまってね。その処理に一週間ほどかかってしまったんだ。あ、それとあの書類はちゃんと10枚きっちり持ってきたよ」
「10枚……? ……バ、バカ、あれは冗談だ! 役所に届けを出すのは一枚でいいんだよ!」
「えっそうなの? でも漸次さんは何も言わないで私が渡した10枚全部に見届人の署名をしてくれたよ?」
「なに!? お前何あの人にくだらねぇ事で迷惑かけてんだよ……。しゃあねぇな、漸次さんには後で俺が連絡して謝っとく」
「お願い。あ、それと薫」
白いブラウスを着ている樹里はその場で少しだけ自分の両腕を広げた。
「今あのビスチェを着ているんだけどどうかな? このビスチェを着けるために体型が変わらないよう、スタイルの維持も努力してきたよ」
「はぁ!? なんで今着けてんだよ!?」
「ここに戻ってくる時は絶対にこれを身に着けて帰ると決めていたの。どう?」
「ったく気の早い奴だな……。分かった、後で向こうで見せろ。直す箇所が無いか、がっつりチェックしてやる」
薫は呆れた様子で再び頭を掻くと、急に真面目な顔になり、
「それでもう全部カタがついたのか?」
と尋ねた。
樹里はしっかりと頷く。
「うん、全て終わったよ。もう私はあの名字から完全に解き放たれた」
「そうか……。長い間大変だったな」
早く逢いたいとずっとずっと待ち望んでいた相手からそんな労わりの言葉をかけられ、万感の思いで胸を震わせた樹里は嬉しさでそっと目を伏せる。
「……薫だってそうだよ。ここまでお店を繁盛させるのに一人で大変だったよね? それこそ身を粉にして朝早くから夜遅くまで毎日必死に働いてきたはずだよ」
しかし薫はそれを強く否定する。
「いや、お前の苦労ほどじゃねぇよ。好きな事を仕事にした俺の苦労と、やりたくないことを無理矢理やらされていたお前の苦労は比べられるようなもんじゃねぇ。今までよく我慢して最後までやり遂げてきたな。本当にお疲れさん。立派だぞ」
「薫……」
二人はしばらくの間、無言でお互いの顔を見つめ合った。
「あ、あのぉー、お取り込み中のところ誠に申し訳ないのですが、こちらの方はどなたなのですかね~? お客様でもなさそうですし、従業員さんでもないのだろうし……」
状況を把握し切れていない芝桜が不思議そうな表情で、薫と樹里を交互に見る。
薫はフッと勝ち誇ったような斜め笑いを漏らすと、「来い」と横柄な口調で樹里を目の前に呼び寄せた。続けざまにその細い腰をガッシリと掴み自分の片腿の上に強引に座らせ、樹里の身体に手を回して抱き寄せる。
そしてその光景に仰天して目を白黒させている芝桜にニッと笑いかけ、この一言で説明を終えた。
「 俺の自慢の嫁さんだ 」
― END ―




