66. あぁ 親父との男同士の掟だからな
「……行っちまったなぁ」
と漸次が呟く。
薫は黙ったまま何も答えない。寂しそうと断言するには少し躊躇するような、遥か遠くを見るような目で樹里を乗せた車を見送っている。
漸次は車が視界から消えてもまだその方角を見ている薫の側に大股で歩み寄ると、「元気出せよルーキー!」とその肩を力強く叩いた。
いきなり肩を乱暴に叩かれ、自分がこの場所とは別の無音世界に一人取り残されていたことを知った薫は険しい顔で後方を振り返る。
「痛ぇなオッサン! いきなり殴るんじゃねぇよ!」
「大袈裟だなぁお前。ちょいと軽く撫でただけじゃねーかよ」
漸次が小山のように盛り上がった両肩を竦めると、そのすぐ横にいた武蔵が先ほどの樹里とのやり取りに偉そうに駄目出しをしてきた。
『 おいヒヨッ子! お前さっきのあれは何だよ!? せっかくあのネーチャンがお前のこと好きって言ってくれてんのによ、“ あぁ ” だけしか言えねぇなんて気が利かないにもほどがあるぜ! 今まで女どもと色恋沙汰の経験がろくにねぇのがバレバレじゃねーかよ! カッコ悪い奴だな! 』
「う、うっせーよ!! ほっとけや!!」
『 ヘッ、ガキはこれだからな! その点、うちのコウならそういう所はビシッと決めるぜー? おいコウ! さっきのシーン、お前ならなんて言う!? このヒヨッ子によ、兄貴分として痺れるような手本を見せてやれや! 』
「えっ僕がですか? うーん、そうですね……」
武蔵にかなり強引な無茶振りをされたコウは、ほんのわずかの間だけ、その端整な顔を思案気なものに変えた。そして「できました」と微笑みながら薫を見ると、自身の考えた必殺の口説き文句を披露する。
「まずは “ 僕も貴女だけが大好きです ” とお答えして、最後にこうお伝えします。 “ 貴女はこの僕がブラのホックを外したくなった初めての女性です ”、と 」
『 ヒューッ!! さすがはコウだぜ!! 』
大興奮した武蔵が口笛によく似た高い音を出す。
『 イカした台詞で決めてきたじゃねぇか!! おい見たかヒヨッ子!? これが真の女性下着請負人の決め台詞だっつーの!! そのニワトリ頭に叩き込んでおけや! 』
「……お前らアホだろ?」
呆れた度合いがついに最高潮に達した薫は思わずそう突っ込み、「ここの連中はどいつもこいつもみんなイカれてやがるぜ」と不機嫌気味に呟いた。
薫の拗ねたような表情を見た漸次が、誇らしげに分厚い胸を張り、太い親指をグッと勇ましく立てる。
「過分な褒め言葉、ありがとよ! ところでお前、婚姻届を出すのには見届人が必要なのは知ってるのか?」
「あぁ知ってる。あいつが前に言ってた。でもそいつがいなくても拇印があればいいんだろ?」
「まぁな。だが見届人にはこの俺がなってやる。幸之進の息子が結婚すんのに親友だったこの俺が見届けないでどうすんだよ。あいつに顔向けできねぇっての。だからあの嬢ちゃんがお前のところに帰る時が来たら、その前に婚姻届を持って俺の所に寄れと言っとけや。それとよ、もしこの先、あの嬢ちゃんとこのエリアで会えそうな時があるなら俺んとこに連絡しろ。その時は俺が保証人になってお前を中に入れてやっからよ。この野獣なオッサンを目一杯頼ってくれていいんだぜ、ルーキー?」
漸次が白い歯を出して笑う。
年に似合わずどこか子供っぽい、いたずら好きな表情だ。
「そうですよ。お好きな時にこの蕪利にお出でください。僕ら一同、いつでもあなたをお待ちしています」
『 ただし今度来る時もその巻尺は絶対に連れてこいよヒヨッ子!! 』
Casquette Walk 内に漂う温かい雰囲気と野次馬たちの笑顔。
その空気に釣られるように薫も表情を緩め、「あぁ、その時はよろしく頼むぜ!」と18歳の少年らしい満面の笑みで素直に頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
蕪利区画を出た薫は封鎖門で没収されていた機器を受け取り、下町区画へと戻った。
半日かけての移動だったため、もう日は西の空に落ちかけている。
自宅に着くと、今日は用事で外出するので一人で留守番をするよう言いつけていた可乃子が飛び出してきた。
「遅いよお兄ちゃん!! 可乃子を一人にしてこんな時間までどこに行ってたの!?」
可乃子は「おかえり」も言わず、戻ってきたばかりの薫をものすごい勢いでなじり出した。しかし薫はその事を咎めもせず、素直に謝る。
「悪ィ。そういや今までこんなに長くお前を一人にしたことがなかったもんな」
「可乃子、このままお兄ちゃんが戻ってこなかったらどうしようって思ってたんだから……!」
たった今まで不安な感情でいっぱいだった顔を今度は泣き顔に変え、可乃子は薫に抱きついた。
もう一度「悪かった」と言うと可乃子を安心させるために抱きしめ返してやる。
しばらく抱きしめていてやると、ようやく落ち着いた可乃子が身を離し、「ゴハン、どこかで食べてきたんでしょ?」と尋ねた。
そう言われて昼から何も食べていなかったことを思い出す。
「あぁそういや食ってねぇな」
「えっ何も食べてないの!? 朝からこんな時間までどこに行ってたのお兄ちゃん?」
「蕪利だ。あいつに会ってきた」
その言葉を聞いた可乃子が目を大きく見開く。
「お兄ちゃん、樹里ちゃんに会えたのっ!?」
「あぁ」
「樹里ちゃんどうしてたっ!? 元気だったっ!?」
「あぁ思ったより元気だった」
可乃子は良かった、と嬉しそうな表情を見せたが、すぐに落ち込んだ表情になる。
「……でもお兄ちゃんが一人で帰ってきたってことは、やっぱり樹里ちゃんは、もう可乃子たちのお家には戻って来られないんだね……」
「いや、あいつは来るぜ」
「えっホント!? いつ!?」
「あいつがやらなきゃいけない事を全部やり切ってからだ」
「それっていつ頃なの!?」
「んなこと俺にも分かんねぇよ。一年後なのか三年後なのか五年後なのか、それとももっと先なのかもしれねぇな」
それを聞いた可乃子が明らかに失望した様子でガックリと肩を落とす。
「なんだ……。それって、樹里ちゃんが来るかどうかもまったく分からないってことじゃない……」
俯いた可乃子を元気付けるように、薫が頭を撫でた。
「でもあいつは必ずここに戻ってくるって言ったんだ。今はそれでいいじゃねぇか。だからよ、俺ら三人であいつを待っててやろう。な?」
『 そうですよ可乃子様! 樹里様はいつか必ずまたここに戻っていらっしゃいます! サクラはそう信じてます! 』
薫の肩に乗っていたサクラがそう励ました。しかし可乃子はまだ半信半疑の様子で、再度 薫の意思を確かめる。
「……でもお兄ちゃんは本当に待てるの? 樹里ちゃんがいつ来てくれるかもまったく分からないんだよ?」
「あぁ」
薫は力強く頷いた。その声に迷いは一切無い。
「ここでずっと待っててやる、ってあいつに言っちまったからな。男は一度口にした約束は必ず守んなきゃいけねぇ。そう決まってんだ」
それを聞いた可乃子はふふっと少しだけおかしそうに笑った。
「ね、それもお父さんの “ 鉄のお約束 ”なんだよね ?」
「鉄の約束じゃねぇ。男同士の鉄の掟、だ。でもお前よく覚えてたな」
「だって昔からお兄ちゃんがいつもよく言ってたもんっ! 可乃子、全部言えるよ? えっと、まず口にした約束は守れ、でしょ、それと自分のやりたい道に進みなさい、でしょ、あとは土下座をするな、に……、あれ、最後はなんだったっけ?」
「絶対に誰にも負けねぇと自信がある時以外は自慢をすんな、だ」
「あ、それそれ! そうだった! ね、お兄ちゃんは今までこの掟を破った事はないの?」
「あぁ。この掟だけは絶対に破らねぇって昔から決めてっからな。だから可乃子、お前もあいつを待っててやれ。な?」
「うん!!」
可乃子は再び薫に抱きついた。
「……時々会えるといいね、樹里ちゃんと」
「連絡ぐらいはたまに来るだろ。通信手段はあるんだからよ」
「ね、お兄ちゃん。もし樹里ちゃんから電話が来たらその時は可乃子にもお話しさせてくれる?」
『 Myマスター! サクラも樹里様とお話がしたいです! その時は代わっていただけますか!? 』
薫は可乃子の頭とサクラの本体に手を乗せ、
「んなこと家族なんだから当たり前だろ!」
と廻堂家の家長らしく、堂々とした態度で大きく頷いた。