61. 全部教えろ あんたの知っていること全部だ
「だっ誰だよオッサン!?」
「さっき名前が出てたじゃねぇか。俺が噂の漸次さんだよ」
突然現れたタコ坊主のようないかつい顔の中年男は自分の名を名乗ると、かなりの力で薫の両肩を力強くグリグリと揉みしだく。
「痛てぇな!! なにしやがんだ!?」
ソファの背から身を跳ね除けた薫に、漸次は強引なマッサージの手を止めて、「でかくなったなお前」と呟いた。
「店の奥で話を聞かせてもらってた。お前、幸之進の息子なんだな。あいつが死んだ時、まだ
お前はこれぐらいのガキだったろう? 大きくなったもんだ」
そういうと男は七歳の薫の背丈ぐらいの位置に手をかざし、まじまじと薫の顔を見た。
「……しかしすげぇな……、幸之進と瓜二つの顔をしてやがる。あいつが18ぐらいの頃にお前と
一緒に並ばせたらこの俺でも見分けがつかねぇかもしれん。血ってのはすげぇもんだな」
この漸次という男の身体から父が好きだった煙草の匂いがかすかに漂っていることに気付いた薫は、親父の命日に墓に煙草を置いていったのはこのオッサンだ、と直感した。
「あんた、親父の知り合いなのか?」
「おう。俺もあの下町の生まれなんだよ。ガキの頃はお前の親父としょっちゅう色んな悪さをして遊んでた。マスター・ファンデとしては幸之進の方が先輩になるがな。……親父さんは気の毒なことをしたな」
「もう昔のことだ」
同情など真っ平な薫が顔を背けると、「奥さんはどうしてる?」と現在の廻堂家の状況を何も知らない漸次が尋ねる。
「……おふくろも病気で死んだ。九ヶ月前に」
「何!? そうか……。あいつの墓には時々顔を出してたが、奥さんまで……。お前、たしか下に妹がいたろう? その子はどうした?」
「今はそいつと二人で暮らしてる。だからマスター・ファンデになったんだ」
「それで幸之進と同じ道を……。その若さで大したもんだ」
「なぁ、形見分けで親父のエスカルゴを引き取ったのはあんただろ? あの武蔵っていうエスカルゴの唐草柄はうちの親父のエスカルゴと全く同じだった。しかも名前まで同じなんて偶然とは思えねぇよ」
漸次は顎を撫でながらあらためてサングラスの奥から成長した薫を眺める。
「そうだ。武蔵は元はお前の親父さんの巻尺だ」
「やっぱそうか……。でもなんであいつはそれを覚えてないんだ?」
「簡単よ。俺が武蔵の記憶をClearにしちまったからさ。幸之進の葬儀の後に形見分けで奥さんから武蔵を譲ってもらったが、あいつの中には幸之進の顧客データが詰め込まれていた。職人が死んだり廃業をした時は、エスカルゴ内のデータをすべて消去しなければならない決まりだ。だからあいつは幸之進のことも、お前のことも、もう何も覚えちゃいねぇんだよ。……隣、座るぜ」
漸次は薫の隣にドサリと腰をかけると、その精力的な浅黒い顔には似つかわしくない、やりきれない表情をその横顔に漂わせる。
「だが過去のあいつの記憶を消除はしたが、さすがは幸之進のエスカルゴだ。忠誠心が異常に強いところや昔気質なところはお前の親父さんにそっくりだぜ。あいつは武蔵という名はこの俺がつけたと思って大切にしているが、本当は俺じゃねぇ。幸之進がつけた名前だ。だからあいつを騙しているようでたまにガラにもなくやるせねぇ気分になる時があるよ」
「……なるほどな、よく分かったよ」
武蔵の疑問が解消し、吊り上がった目つきを少しだけ戻して幾分スッキリした気持ちで顔を上げた薫の目に、店内の壁に掛けられていたある一つのブラが飛び込んでくる。
「あっ!? あのブラジャーじゃねぇか!!」
そのブラに目を奪われ、思わず立ち上がった薫に、「どうした。あのブラジャーがどうかしたのか」とソファに座る漸次が怪訝そうな目で見上げた。
「あのブラジャー、今年の夏に持っていた女がいたんだ」
「その女ってお前の女か?」
「ちっ、違う! 海に来ていた奴でその女が着替えていたのをたまたま見かけただけだ!」
「そうか。つーことはその嬢ちゃんは間違いなく俺の顧客だな。そのブラジャーは今年の俺の新作だ」
「あれはあんたが作ったのか……」
薫は吸い寄せられるようにそのブラを見る。
一番目に付きやすい場所の壁に掛けられているそのブラは、どことなく優越感漂う空気をまといながら自分の身体を惜しげもなくその場所に晒け出していた。
「さ、触ってみてもいいか?」
「おういいぜ」
薫は壁に行くとそこに飾られていたブラを手にする。そして両カップ前面に入れられているオイルのような液体が入っている部分に手を触れてみた。たぷんたぷんとしているが、微妙な弾力もある。奇妙な感触だ。
「これ、何が入ってるんだ?」
「そいつは企業秘密だな。未来の商売敵には教えられねぇよ。お前さんのリテラシーを駆使して
頑張って探ってくれや!」
と愉快そうに漸次が笑う。
薫はもう一度ブラに視線を落とした。
液体は透明感のあるアクアブルー。そしてその弾力のある液体の中にはそれぞれ大きさの違うコバルトブルーの豆粒のような小さな球体がいくつも入っていた。
「なぁ、その液状の部分を手で揉んでみて何も感じねぇか? どうだ?」
そう言われた薫はもう一度カップの盛り上がった部分を確かめるように何度か触る。そして、
「女の胸の感触にそっくりだ」
と言った。
途端に漸次は大爆笑する。
「ははっ、ご名答だ!! だがこれでお前が童貞じゃないことは分かったぜ? 全然分かんねぇよって言われたらどうしようかと思ったよ。ま、デブった男の胸を揉んだことがあるっていうオチもあるにはあるがな!」
笑い終えた漸次はそのブラの製作秘話を語り出した。
「ちょいと前に豊乳ブームが来た時があっただろう? あの時、ブラジャーの内側に厚手のパットを詰め込んで胸を実際よりデカく見せるのが一時的に流行ったけどよ、でも上げ底パットでの盛り上げじゃ不自然なラインになるから上に服を着てても分かる奴にはやっぱり分かっちまうんだよなぁ。それで俺の客からその辺りを何とかうまくカバーできねぇかって前から結構うるさく言われててよ、そんでそれを開発したってわけさ」
「これ、売れてんのか?」
「おう、おかげさんでそいつはなかなか好評だぜ? そいつを着ければかがんだりした時の胸の動きも本物のように自然だしよ、服の上からぐいぐい揉まれてもまず相手にはバレねぇ。ま、全部裸に剥かれちまったらさすがにバレちまうだろうけどな!」
そのシーンを脳内で想像したのか、漸次が豪快に笑う。
「でもそうまでしても自分の胸を魅力的に見せたいっていう女の執念は凄いと思わねぇか? まぁだからこそ、俺らの商売がありがたく成り立つんだけどよ」
「……そうかもな」
薫は手にしていたブラを元通りに壁に掛けると、またソファに戻った。
少し離れた隣に座った薫に、「久々に武蔵に会って懐かしかったか?」と漸次が問いかける。
「あぁ。ガキの頃を思い出したよ。性格はかなり変わっちまってるがな。そもそもあんなに喋る奴じゃなかった」
「AIも十年前に比べてだいぶ進化してるしな。それに武蔵の場合は俺が内部をかなり弄っちまってるからしゃあねぇよ」
「なんでそんなに内部を弄る必要があるんだよ? 確かにすげぇパワーだったが、女の胸を計るのにパワーが必要か?」
「まぁそれは純粋にこっちの都合だな。俺や息子に必要な力だからさ。だからあいつを能力補強した。それだけだ」
「ふぅん……」
「本当はあいつの記憶を消したくなかったよ。だが俺が武蔵を引き取らなかったらきっとあいつは一生動くこともなく、今もお前の家にただの置物として居たことだろうよ。俺はその方が可哀想だと思ったんだ。幸之進だってよ、武蔵が俺の息子とコンビを組んで今も現役でマスター・ファンデの片腕として働いていることをあの世で喜んでいると思うぜ?」
「親父が先輩ってことは、あんたも清水の爺さんの弟子なのか?」
「いや俺はあの爺さんの弟子じゃねぇ。俺はほぼ独学よ」
「独学!? すげぇな!」
「何言ってんだ、幸之進だってそうだぜ? あいつは手先が器用だったから本職の合間を縫って色んな物を作ってたぞ。物を作るとストレス発散になるんだとよ。そんでマスター・ファンデを本職に切り替える時に清水の爺さんに短期間だが弟子入りしたってだけさ」
「ま、待てよ! 本職ってなんだ!? うちの親父は最初からマスター・ファンデじゃなかったのかよ!?」
その薫の反応に、漸次は唖然とした顔で口を開けた。
「お前、知らなかったのか……? や、やべぇな、幸之進も奥さんも子どもには言ってなかったのか……。悪い、忘れてくれるか?」
「ふざけんな!! 今さら遅ぇよ!! 教えろよ!! 親父は元々何をやってたんだ!?」
血相を変えて詰め寄る薫に、漸次は迷いながらもある一つの事実を話し出した。
「……俺も幸之進も昔は国家警察に所属してたんだ」
「うちの親父が警察……?」
「あぁ。でも幸之進がその仕事をしていたのは本当にわずかの期間だぜ? あいつはすぐに辞めちまったからな」
「なんですぐ辞めたんだよ?」
「あいつ、仕事中にちょっとした縁で知り合った女にベタ惚れしてよ。で、その女からの結婚の条件が仕事を辞める事だったんだ。その時の俺らの仕事は危険が標準装備だったからな。殉職なんてクソも珍しいことじゃねぇ。だからいつ未亡人になるかも分からねぇ職業の男と家庭なんざ持ちたくないってのも女からしてみればある意味当然だ。だから幸之進はそっちを止めてマスター・ファンデになったんだよ」
「その女って俺のおふくろなのか?」
「そういうことだ。まぁそんで幸之進が辞めちまっても俺はまだ残ってその仕事に精を出してたんだが、俺にも息子ができたんでね、それで俺も幸之進を見習って本職を引退してこの世界に飛び込んだってわけさ。ま、この職業に転職する時には武蔵の引継ぎとか諸々のことであの清水の爺さんに色々と世話にはなったがな」
「さっきの男があんたの息子か?」
「おうよ」と漸次が頷く。
その顔はとても誇らしげだ。
「幸之進って言うんだってな。まさか親父の名から取ったわけじゃねぇだろ?」
「いや、そうだぜ。あいつの名を引き継がせてもらった。あいつの遺志と共にな」
その返答には大きな違和感があった。
瞬く間に薫の目つきが吊り上がる。
「引き継ぐ? なんでだよ? さっきの男はどうみても二十代だ。親父が死んだのは十一年前だぞ? 引き継ぐなんておかしいじゃねぇか」
薫の鋭い追求に、漸次は一瞬言葉を無くしたかのようにその場で微動だにしなかった。そして両の指を組み合わせ、そこに視線を落とす。
「……スマン。引き継ぐという言い方が適切ではなかったな。俺はあいつが好きなんだよ。だからあいつの名前を息子にもらった。それだけだ」
「はぁっ!? いくら昔からの付き合いだからってよ、普通自分のダチの名を息子につけるか? 気色悪いオッサンだなあんた」
昔話を終えた漸次が急にソファから立ち上がる。
「覚えとけルーキー。年を取ってオッサンになるとな、色んな面で感傷的になってくるもんなんだよ。茶ァ入れてくっからちょっと待ってろ」
「別に要らねぇよ」
「俺が飲みたいんだよ。いいから待ってろ。焙じ茶は飲めるな?」
そう言って再び店の奥に行こうとした漸次を「待ってくれ。まだあんたに聞きたいことがある」と薫が呼び止める。
「ハハッせっかちな奴だな! 俺が茶を淹れてくる間も待てないのかよ?」
しかし薫は笑わない。
失笑する漸次を無視し、スキンヘッドの大男を真上から一気に串刺しにするような強烈な視線でギロリと睨んだ。
「……親父が円抉銃で殺されたのは、国家警察に所属していたのが原因だったのか……?」