60. お前がコウか 【 後編 】
「土下座をしろだとッ!?」
亡き父の鉄の掟の一つ、【 男は絶対に土下座をするな 】。
その守らねばならぬ教えが頭をかすめる。
『 おう、そうだ! どうした? 早くそこに土下座しろよ。おっと、その額を床にグリグリと三回こすりつけんのも忘れんじゃねーぞ? 』
「く……」
学生時代にムカつく相手を片っ端から殴り飛ばしてきた薫にとって、相手に頭を下げるなど考えられない行為だ。
しかも父の掟を生きる指針としてきた薫にとって、土下座をするなというその教えを破るという事は、この世でただ一人尊敬する人物への裏切りにも等しい行為にもなる。それは出来なかった。
唇を噛み締め、なかなか膝を折ろうとしない薫に痺れをきらした武蔵が「出来ねーのか? なら出てけよ」と素っ気無く言い放つ。
カッと脳天に血が昇り、「てめぇ!!」と見境なくまた武蔵に殴りかかろうとした時、
── 随分と短気な兄なのだな君は
玄関先で初めて出会った時の樹里の第一声が、心乱れる薫の中に響く。
同時に樹里の笑顔が浮かんできた。
初めて家に泊まった夜、済ました顔でちゃっかりと自分の分の夕飯を食べていた時。
自分のデザインしたブラジャーを軽蔑することもせず、優しい表情をしていると言ってくれた時。
一宿一飯の恩義だと、強引に風呂に入ってきて背中を流してくれた時。
試験合格のため、頭の悪い自分の家庭教師をしてくれていた時。
料理下手のくせに自分に美味しいといってもらいたいと様々な恐怖料理を作ってくれた時。
切れた糸を買いに出かけただけなのに、初めてのデート記念日だと喜んでいた時。
今目の前にいる優男なマスター・ブラの作品よりも自分の作品の方が好きだと言ってくれた時。
児童保護局の局員に、この人の妻となって支えていくと毅然とした態度で追い返してくれた時。
うるさいから口を塞いだだけなのに、妊娠したと勝手に勘違いをして大恥をかかされた時。
ボアンジュ開店に向けての連日の下準備を、嫌な顔一つせず一生懸命手伝ってくれた時。
近所の老婆たちの垂れた胸を収納器に入れるのを手伝ってくれた時。
自分の強引な頼みを素直に聞き入れて専属型式になってくれた時。
自分たちが受けた恩を返したい、と双子の赤ん坊を預かると言い出した時。
アクリスケースを殴りつけて血みどろになった拳を、涙をこらえながら治療してくれた時。
二人きりで出かけた川辺で亡き父の最期を見て、お会いしてみたかったと泣いていた時──。
七月初旬に樹里と出会ってからたった五ヶ月弱だ。
たったそれだけの短い期間なのに、その思い出はあまりにも多すぎた。
二人の間で今まで紡いできた数多くの消せない思い出が、薫の中を走馬灯のように駆け巡る。
殴りかかろうと固めた拳は知らぬ内に解けていた。
「……お、お前らに土下座すればあいつの居場所を教えてくれるんだな!?」
このままあいつの顔を見ないで帰るわけにはいかねぇ、俺は絶対にあいつに会わなきゃいけねぇんだ、そう思った時、自然とその言葉が口をついていた。
『 あぁ考えてやるよ。すべてはお前がどこまで気合の入った完璧な土下座を見せてくれるかによって決まるぜ? 俺らの心がビンビンに震えるような土下座を見せてみろや 』
もはや薫に選択の余地は無かった。
「……分かった」
まず大理石の硬い床の上に片膝をつく。
冷やりとした感触が、ベージュのチノパンツの上からでもはっきりと伝わってきた。
そして、親父悪ィ、あの世で会った時には思いっきりぶん殴ってくれ、と内心で謝りながらもう片方の膝も着き、両の手の平を床につけて頭をこすりつけようとした瞬間。
「ぐあっ!?」
真正面から空気を切り裂くようなスピードで飛んできた二本の白い巻尺が、薫の胸倉を一気に掴みあげた。
『 いよっしゃあああ!! 合格だぜヒヨッ子!! 』
武蔵は体内から出した二本の巻尺を同時に操り、黒のトラックジャケットの襟元を捻るように引き上げると、屈辱の誠意を見せようとしていた薫を無理やり立ち上がらせる。
『 大の男が土下座なんかするもんじゃねぇよ! だがどう見てもお前はホイホイと気安く土下座するタイプじゃなさそうだ! なのにお前は今俺らにここで土下座しようとした! そこまでするほどのよっぽどの理由があるってことだな! 』
「じゃあ あいつの家を教えてくれるのか!?」
『 どうすんだコウ? 』
武蔵に振られたコウは、怪我をしている腹部に手を当てながら静かに尋ねた。
「……あなたは樹里さんのお宅を知ってどうするのでしょうか?」
「あいつにどうしても言っておきたいことがあるんだ! だから俺はあいつに会わなきゃならねぇ!」
「でもご住所をあなたに教えても彼女に会えるとは限りませんよ?」
「んな事はやってみないと分かんねぇだろう!! とにかくあいつの家を教えてくれればいいんだ!!」
「分かりました」
コウが素直に頷く。
『 あーあ、やっぱ教えちまうのかよ? 俺は知らねぇからなコウ 』
「いえ、教えませんよ」
コウは小さく微笑むとあっさりと自身の言葉を翻す。
「僕もマスター・ファンデの端くれですから。大切なお客様の個人データを他の方にお教えすることはできません」
「てっ、てめぇ話が違うじゃねぇか!!」
逆上する薫をなだめるように、「大丈夫ですよ」と声をかけた後でコウが店内の中央にまでゆっくりと歩いてくる。
「ご住所はお教えできませんが、代わりに僕が樹里さんのお宅に行ってきます。僕は以前にあの方のブラを作ったことがありますし、マスター・ブラとして用事があるといえば彼女に会うことぐらいはできると思います。その時にあなたが蕪利に来ていることを伝え、樹里さんにこの店に来ていただきましょう。それでいかがですか?」
「た、頼む!!」
「失礼ですがあなたのお名前は?」
「廻堂 薫だ」
「廻堂……?」
その名前を聞いたコウという青年の顔がかすかに強張った。そしてコウは抑揚の無い声でサラリと尋ねる。
「不躾なことをお聞きしますが、あなたのお父さんは万能工匠だったのではないですか?」
「あぁそうだ。あんたも俺の親父のこと知ってるのか?」
そう聞き返すと、コウは笑顔とは言い切りづらい、少し悲しげな不思議な表情で微笑んだ。
「いえ、よく存じません。でもあなたとは初めて会った気がしないです」
そう言われ、薫も自分がこの優男なマスター・ブラに対して同じような思いを抱いていたことに気付く。
「……そうだな。そう言われてみるとさっきあんたを初めて見た時から妙にヘンな感じがしてたぜ。あんたと前にどこかで会ったことがあるか?」
どうなんでしょうね、とコウが煙に巻くような言い方をする。
そこへ武蔵が口を挟んだ。
『 おいコウ、こいつの親父さんの名前、コウノシンって言うんだってよ! 漸次さんがお前につけた名前と同じじゃねぇか! 』
「なに!? あんたも幸之進っていうのかよ!?」
「はい」
コウが静かに頷く。そしてしばらくの間、薫の顔をただ黙って見つめ続けた。
「な、なんだよ。急に人の顔をジロジロ見やがって……。俺の顔になんかついてるのかよ?」
「……済みません、初対面の方に不作法な振る舞いをしてしまいました」
コウはかすかに目を伏せ、申し訳無さそうに謝る。
「では廻堂さん。樹里さんにあなたのお名前を言ってここに来てくださるようにお伝えしてきます。それまでここでお待ちになっていてください。樹里さんは必ずここにお連れします。……この僕の命に代えても」
そのコウの宣言に薫はあんぐりと口を開けた。
「はぁ!? 命に代えてもだと!? 大げさすぎだろあんた!?」
『 おいヒヨッ子、だから言ってるだろ! こいつは今手負いなんだっつーの! 本来なら出歩ける身体じゃねーんだぞ? おいコウ、お前マジでそのケガで出歩いて大丈夫なのか? 』
「えぇ、大丈夫ですよ。そんなにヤワじゃありません」
そう答え、外出をするためにネクタイを締めはじめたコウの元に武蔵が寄っていく。
『 いや、やっぱ俺もついて行くわ。お前が心配だ 』
「分かりました。じゃあ行きましょう武蔵」
『 了解。ここでおとなしく待ってろやヒヨッ子! 』
「あ、あぁ……。頼む、必ずあいつを連れて来てほしい」
「はい。任せて下さい」
ネクタイを締め終わったコウは店の中にかけていたライトグレーの上着を羽織ると武蔵を手の中に収め、店を出ていった。
手持ち無沙汰になった薫はとりあえず応接ソファに腰をかける。
するとその途端にそのソファの後ろにいた190センチはあろうかという大男が薫の両肩を背後からガシリと掴んだ。
「うお!?」
「よお兄ちゃん!!」
驚いた薫が後方を振り返ると、黒のサングラスをかけ、季節は12月なのに上はタンクトップ一枚だけの筋骨たくましい男が白い歯を出して笑っている。
髪の毛は一切ない。まるでよく磨きこまれたヘルメットのような見事なスキンヘッドを持つ中年男だった。




