6. 俺のブラジャーは優しくなんかない
食事を終え、後片付けが始まる。
いつもは薫が食器を洗い、可乃子がそれを拭いて所定の位置に戻すという役割分担だったのだが、今日だけは勝手が違った。
洗浄担当は樹里で、可乃子が拭き取り担当、薫は収納担当となり、片付けは迅速に進む。
「やっぱり三人で片付けると早いね! 流れ作業みたいで面白いし!」
三人で片づけをしているだけなのに可乃子にはそれがとても楽しいらしい。そんな妹の様子を薫は複雑な思いで見ていた。
母親が他界し、可乃子と二人きりの生活になってからは出来るだけ妹の側にいてやるよう、努力はしてきたつもりだ。
だが自分一人だけではやはり可乃子の寂しさを埋め切れてはいなかった現実をまざまざと見せ付けられ、皿をしまう動作もつい遅れがちになる。
「終わった~! 樹里ちゃんっ、お風呂最初にどうぞ! 次が可乃子で、お兄ちゃんは最後ね!」
台所の後片付けが済むと、可乃子はエプロンを外しながらテキパキと次の指示を出した。
しかし薫はその指示に納得がいかない。
「なんで俺が最後なんだよ!? どう考えても最後はこいつじゃなきゃおかしいだろ!?」
薫にはっきりと指をさされ、樹里は素直に頷く。
「確かに薫の言うとおりだ。私は泊めてもらう身だから家主より先に入るわけにはいかないな」
「いいのいいの! お兄ちゃんの後のお風呂じゃ樹里ちゃん可哀想だもん! 入っちゃって!」
「では可乃子、私と一緒に入ろう。それなら私も薫に対して少しは申し訳ない気持ちが薄れる」
一緒の入浴を誘われた可乃子は、少し恥ずかしそうな表情を見せたが「うん」と頷いた。
「お兄ちゃん、最後でいいでしょ?」
「チッ、しゃあねーな……。さっさと入って来いよ」
「うん! 行こっ樹里ちゃん。お風呂場、こっちだよ!」
樹里を連れて浴室へと一旦は消えた可乃子だったが、急に一人で居間に駆け戻ってくる。
「お兄ちゃん!」
「あ? なんだ?」
居間のソファで湯飲み片手にTVを見始めていた薫が振り返る。
「樹里ちゃんの着替えとかお風呂、のぞいちゃダメだからね?」
「だっ誰がのぞくか!! 熱っ!!」
「エヘヘッ、一応警告でした!」
手にしていた湯のみのお茶が手にかかり熱がっている兄を笑うと、可乃子は再び浴室へと消えていった。
一人取り残された薫は誰もいない廊下をしばらく眺めていたが、またTVに向き直る。
しかし今日は夜の勉強をまだしていなかった事を急に思い出し、騒がしいTVを消して自室に戻った。
いつもと勝手が違ったせいでペースが乱れてしまっている。
今はとにかくFSSの試験をパスし、資格を得るために努力をしなければならない時だ。
明日にはあの家出女もどこかに出て行くだろう。
周囲の雑音をすべて排除し、薫は全力で神経を集中して問題集と向かい合った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今までで一番集中できたのではないだろうか。
妹が連れ込んだあの家出人のせいでペースが狂った分を取り戻そうと必死になったのが功を奏したようだ。一気に進んだ問題集を前に、薫は満足気な表情を浮かべる。
机の端に置いてある安物の小さな置時計はまもなく午後十一時を指そうとしていた。
さすがに風呂はもう空いてるだろ、そう思い椅子から立ち上がりざまに後ろを振り返った薫はそこに立っていた人物と危うくぶつかりそうになる。
「うぉ!?」
キャミソールとホットパンツに着替えた樹里が立っていた。
「な、なんでお前がここにいるんだよ!?」
「浴室が空いたことを教えに来たのだが、君があまりに熱心に勉強しているものだからしばらく眺めさせてもらってたよ」
「てめ、そこでずっと見てたのかよ!?」
「あぁ」と樹里が頷く。
「黙って部屋に入り込んで人のやる事をじっと見やがって! いい趣味してんな!」
「それよりその問題集も区切りのいいところまでいったようだし、君も早く入るといい。早く入らないと湯が冷めるぞ」
「あぁ分かってるよ! 入りゃいいんだろ入りゃ!」
「ところで薫、上がってからでいいのだが、一つ君に言いたい事がある」
「なんだよ?」
「まずは先に入ってきた方がいいんじゃないか?」
「いいからさっさと言えよ! 俺はまだるっこしいことは大嫌いなんだよ!」
「そうか。では言わせて貰おう」
樹里はそう言うと、たった今まで薫が格闘していた問題集を細い指でさした。
「君が書いていたその問題集の答え、おそらくほとんど間違っている」
「なに!?」
「答え合わせはしたのか?」
「んなモン、まだに決まってんじゃねーか。一冊を最後までやってから一気にチェックするつもりなんだからよ」
「やった分はすぐにチェックして都度覚えていった方がいいと思うぞ。たぶんこのままでは全部覚え直しだ」
スッと手を伸ばし、樹里が問題集を手に取る。
「てめぇ勝手に触ってんじゃねーよ!」
しかし聞こえないふりをして樹里は薫が解いたページをパラパラと流し読みし始めた。薄茶色の二つの瞳が右に左にと何度も忙しく往復する。
「……ふむ、『 ブラを長持ちさせる洗い方を手洗いの場合と洗濯機の場合に分けて述べよ 』 という問題の君の答えだが、【 手洗いの場合は手で洗い、洗濯機の場合は洗濯機に入れて洗う 】 と答えているが、これはジョークのつもりなのだろうか?」
「バカやろう! 冗談で書いてるわけねーだろうが! ならなんて書きゃあいいんだよ!?」
「私はマスター・ファンデを目指しているわけではないから正しい答えが何になるのかは自信が無いが、少なくとも君の書いたこの答えではない事は分かる。解答集はどこにあるのだ?」
「……そういやどこにやったっけな。最後のページに付いてたから破り取った記憶はあるけどよ」
「しょうがないな君は……。どれ、探してみよう」
机の一番上の引き出しを樹里がスラリと開ける。
「おい!? 勝手に人の引き出し開けんなよ!!」
「解答集が見つからないと困るのは君だぞ」
「自分で探すっつーの! とにかく触んな!」
「ほう、意外と綺麗に片付いているじゃないか。君みたいな豪放磊落な性格の男ならここは人外魔境になっていると思ったよ」
「だから触んじゃねぇっての!! てめ、ブッ飛ばすぞ!?」
「ん、このファイルの中はどうだ?」
「ああああ!? みっ、見んじゃねーよ!!」
開いたファイルに挟まれていた何枚かの用紙を見た樹里は「これは……」と呟くと内容をじっくりと見る。
その用紙には様々なデザインのブラジャーがラフスケッチで描かれていた。
2Bの鉛筆で書かれたブラの絵には、それぞれに細かい注釈もついている。
肩紐の太さについて言及していたり、胸元のカーブのラインを具体的な度数で指定している物もあった。
「スゴイな君は。可乃子が手先が器用と言った意味がよく分かる。絵心もあるとは思わなかったよ」
樹里はファイルから目を離し、わなわなと震えている薫を見上げる。
「見んなって言ってんのになんで勝手に見やがるんだ……!」
「これは君が考えたデザインなのか?」
「返せやゴラァ!!」
薫はファイルを無理やり取り上げようとしたが、一瞬の差で樹里が素早く背中に隠す。ファイルを奪い損ねた薫は忌々しげに吐き捨てた。
「あぁ俺が考えたさ! 悪いか!?」
「悪いなんて言ってないだろう。君がなぜそんなに苛ついているのか私にはさっぱり分からないのだが?」
「ヘッ、どうせ気色悪いって思ってんだろ!? こんなモンをせっせと描いたり、男が女の下着を作ろうとするなんてキモいってな!」
「それは君の被害妄想だ。私はそんなことを思ってない」
「ウソつけ! てめぇも内心では思ってんだよ! 今朝だって家の前で女共にキモいって言われてんだ! だけどな、俺はこれで食っていかなくちゃならねぇんだよ! それしかねぇんだ!」
「薫、他の女性は君の事をどう思うかは私には分からない。でも少なくとも私は君を蔑んでなどいないし、君が本気でマスター・ファンデになろうとしている熱意はこのわずかな時間で理解できたつもりだ」
樹里はファイルを後ろ手に隠したままで静かに続ける。
「それに君は私が黙ってこの部屋に入ってきたと勘違いしているようだが、それは違うぞ? 私は二度ノックをし、応答がないのでドアを開けただけだ。扉口で何度か君の名前を呼んだが、勉強に完全集中してしまっている君がまるで反応しないので、それでしばらく後ろから眺めさせてもらっていただけだよ」
「ぐ……」
完全に自分が悪者の展開だ。
薫はしばらく樹里の顔を睨みつけていたが、フイと顔を背けると、吐き捨てるように「わ、悪ぃ。怒鳴っちまって」と謝った。
「君はとても不器用な人間なのだな」
目を細め、樹里がかすかに笑う。
「だが私には分かるよ。君はたぶん根は良い人なんだろう」
「あぁん!? なんでテメェにそんなことが分かる!? 俺はいい奴なんかじゃねーよ!! 頭も悪ぃし、自分のことしか考えねーし、ケンカするしか能のない男だ!!」
「そしてかなりの照れ屋でもあるみたいだな。でも薫。君がデザインしたこのブラを見れば分かるんだよ。なぜならどのブラもとても優しい表情をしているからな」
後ろ手に持っていたファイルを再び身体の前に戻し、再び樹里が中身をめくり始める。
「だから見るんじゃねぇって言ってんだろ! 返しやがれっ!」
ようやく樹里の手からファイルを取り戻せた薫はそれを抱えたままで浴室へと向かう。
「薫、君は入浴中にもブラのデザインをするのか?」
樹里の声が追いかけてくる。
「そこに置いといたらテメェが勝手に見るだろうが!! 寝場所は可乃子が用意してあんだろ!? さっさと寝ろよ!!」
部屋の中を振り返った薫はそう叫ぶとファイルを握りしめ、乱暴な足取りで部屋を出て行った。