54. いいからお前は俺の部屋に来い
── 12月14日金曜日。
この日の夜、夕食を終えた廻堂家の居間には緊迫した空気が漂っていた。
壁沿いに置かれたソファの中央に険しい顔でふんぞり返り、正面を睨みつけているのは薫だ。
しかしその正面にあるソファには誰も座っていない。
「いいかお前ら! 今日という今日は俺も堪忍袋の尾が切れたぞ!!」
正面に向かって薫は怒鳴る。
廻堂家の女性陣はソファの座面ではなく、その手前のカーペットに横一列になって正座させられていた。
薫から見て、一番右が樹里、真ん中が可乃子、そして左端がサクラというラインナップだ。
樹里と可乃子はきちんと正座をしているが、サクラは自分の身体の構造上 正座ができないので、そのパールピンクの本体を横にパタリと倒し、カーペットに寝転がった状態でおとなしくしている。
まるで魔女裁判を彷彿とさせるかのような重々しい雰囲気の中、女性陣を自分の目の前に従えた薫は、憤懣やるかたなしといった様子でソファから前のめりに身を乗り出した。
「あんなくだらねぇ番組を見るなと何度言えば分かるんだ! 特に可乃子! てめぇ今まで何度俺にあの番組はもう観ないと言った!? 口約束は破るためにあるんじゃねぇんだぞ!?」
「うん、ごめんねお兄ちゃん」
「謝まりゃいいってもんじゃねぇ!!」
声を荒げた薫が一喝する。
「もう見るなと昨日散々お前を叱っただろうが! なんで今日もまたちゃっかりと録画ってやがるんだ!」
『 Myマスター。それは今週が 【 意中の男性を必ず落とせる必殺テクニック・ボディタッチ編 】 の続きだからなのです。ここは絶対に見逃せない回なのです 』
とカーペットに寝転がっている機械仕掛けの魔女が代わりに答えると、三つ編みの魔女が慌てたように自分の口に指を当てる。
「しっ、余計なこと言わない方がいいよサクラ! お兄ちゃんのお説教が長くなっちゃうからこういう時は静かにしてうんうん頷いてればいいのっ」
鳶色の髪の魔女もそれに同調する。
「うん、私もその方がいいと思うよサクラ。薫が落ち着くまでこのままおとなしくしていよう」
『 可乃子様、樹里様、了解です。サクラは只今から物言わぬ貝となります 』
「てめぇら全然反省してねーじゃねーか!!」
殊勝な態度は見せ掛けで、三人の魔女たちの反省度がほぼゼロなその様子に、薫が大喝する。
しかしいつもの如く薫の雷に慣れている魔女たちは涼しい顔だ。目の前のその反応に薫は悔しげに顔をしかめる。
元々 “ 女三対男一 ” という圧倒的に不利な立場で、しかも口から生まれてきたような生き物たちを相手に言い負かそうとすること自体が無謀なのだ。
だがこのまま引き下がっては沽券にかかわる。
薫はソファから荒々しく立ち上がると正座をしている女性陣をギロリと睥睨し、これ以上ないほどの威圧感を携えて勇ましく命令した。
「ついでに言っとくぞ! いいかお前ら! お前らは日頃から俺に対して尊敬の念が足りな過ぎんだよ! 俺はここの家主だぞ!? トップである俺の言う事に従わねぇなんてゲンゴドウダンだ!!」
『 Myマスター、それを言うなら言語道断です 』
即行でサクラの突っ込みが入る。
「アハッ、お兄ちゃん間違って覚えてたんだー!? 可乃子だってそれぐらい知ってたよ?」
「仕方ないよ。薫は勉強が苦手なんだから」
「ぐっ……」
目の前で魔女たちがクスクスと笑っている。
廻堂家の家長として、何となくカッコよさそうなことをよく知りもしない難しそうな言葉で言おうとしたのが裏目に出た。
魔女たちに笑われ、逆に恥という名の墓穴を掘る結果となった薫はその屈辱にプルプルと身体を震わせる。
「う、うるせぇ!! いいか!? その録ったヤツは絶対に見んじゃねーぞ!? 家主命令だ!!」
そう捨てゼリフを吐き、足音荒くこの居間を出て行きかける。
その出て行き間際、食卓の上にアイスコーヒーが入ったグラスが置かれているのを見つけ、気を落ち着けるためにそのグラスを掴むと苛立ちと共にゴクゴクと一気に喉に流し込んだ。
それを見た樹里が叫ぶ。
「薫! それお醤油!!」
しかし樹里がそう叫ぶ前にすでに口中の異常事態に気付いた薫は「ぶはっ!!!!」と叫ぶと飲みかけていた醤油を吐き出した。そしてゴホゴホと何度もむせた後、
「なっ、なんでこんなとこに醤油が入ってんだよ!?」
と目を剥く。すると樹里が申し訳無さそうにそこに至った経緯を説明した。
「えっと、今日のお料理で使おうと思ってボウルにお醤油を入れたらつい量を多く入れすぎちゃって、とりあえずそのグラスに余った分を入れておいたの」
「このバカ野郎!! 危うく全部飲んじまうとこだったじゃねーか! お前は俺を殺す気か!!」
「ご、ごめんなさい。そこ、私が拭いておくから……」
「当たり前だ!! ったくこんなとこに置いておくんじゃねぇ! ドアホ!」
八つ当たり気味に怒鳴り散らすと薫は足音荒く居間を出て行った。
ムシャクシャしている時は好きな事に没頭するに限る。
苛立ちがまだ収まりきっていない薫は一旦は閉めた店舗内に戻り、次回、樹里に着せる新作ブラのサンプル作りを始めた。
以前に樹里に勝手に見られたブラのデザインノートを取り出し、父の形見のナイフで削った2Bの鉛筆でデザインを始める。
肩紐やサイドベルトの太さ、エッジラインの曲線の角度、ホックの位置や段数など、すべてを無から決めてゆくこの初期の工程が薫は一番好きだった。
デザインが終われば次は製作だ。
それまでは何も変哲もない生地や金具がお互いの身を寄せ合い、薫の動かす針を介してやがて一つの作品へと昇華してゆく。
── やっぱり俺にはこの仕事しかねぇ
完成に向けて走り出しているブラを手に、薫はそう強く思う。
マスター・ファンデになってまだ三ヶ月ほどしか経っていない新米職人ではあるが、こうしてブラを作れば作るほど、自分がこの仕事が本当に好きなのだと痛いほどに実感するのだ。
そしてその実感を噛み締める度、下着職人として生きていきたいという強固な気持ちが抑えきれないほどの欲求として薫の身体の中を駆け巡る。
その不退転の決意が時間が経つのを忘れるほどの集中力を薫に与えた。
一心不乱に作業をし、遅くまでサンプルブラの製作作業に没頭する。
気付けば時刻は日付変更線を過ぎていた。
店を出て寝る支度を終えた後、可乃子の部屋に向かう。
可乃子や樹里を起こさないよう、足音を立てないように薄暗い室内に入り、敷かれていた自分の布団に入るとすぐに「薫」と声がかかった。
「お前寝てなかったのかよ?」
横になりかけていた上半身を途中で止め、薫は樹里の寝ている方に顔を向ける。
「うん。薫が戻ってくるのを待ってた。そっちに行ってもいい?」
「……来んなっつても結局来るじゃねぇか。さっさと来いよ」
「うんっ」
嬉しそうに返事をすると、樹里が布団にもぐりこんできた。
布団の中で向き合うと、いつものようにその冷えた足先に自分の足先をつけてまた体温を分けてやる。
「薫の足っていつもあったかいね」
「お前が冷えすぎなんだよ。身体ん中に氷でも入ってんじゃねーのか」
「ふふっ、私が氷なら薫の身体にはきっと溶岩が入っているんだろうね。だからいつも怒りっぽいんじゃない?」
「違うっつーの。お前らが俺を怒らせるようなことをやらかすからだろうが」
樹里の冗談に不満げに口を尖らせると、薫は目の前の肩を掴む。
「なぁ、お前らマジであの番組観るのやめろって。いや、お前はいいんだ。お前はもう二十歳を越えてんだからよ。でも可乃子には見せたくねぇんだ。だが俺が何度言っても可乃子のヤツはあの番組を観るのを止めやがらねぇし、お前からも言ってやってくれよ。頼む」
普段は命令ばかりで滅多に頼みごとなどしてこない薫が、自分を頼ってきたことが嬉しい樹里が「うん」と目を輝かせる。
「でも安心していいよ薫。あの番組、今日で最終回だったから」
「マジか!?」
「うん」
【 モテる悪女の作り方 】 が終わると知った薫が「へっ、あまりのくだらなさに打ち切りか? ざまぁみろってんだ」と毒を吐いた。そんな悪態をつく薫に、樹里がある心配事を告げる。
「それとね薫。もう一つ君に伝えておきたい事があるの」
「なんだよ?」
「可乃子が明日から一人で寝るって言い出してるの」
「あ? なんでだよ?」
「ほら、半月前に私、ここで朝まで眠っちゃったことあるでしょ? それ、可乃子が知ってて、“ これからは樹里ちゃんはお兄ちゃんのお部屋でお兄ちゃんと一緒に寝て ” って言われたの」
以前に樹里に風呂場で背中を流させた所を可乃子に見られていた悪夢が甦る。
「なに!? お前あの時朝方に自分の所に戻っただろ!?」
「それがその前に可乃子が一度トイレに起きたみたいで、その時に私たちがここで一緒に寝ていたのを見たらしいの。それからずっと、もう一人で寝なくっちゃ、って考えていたみたい。もう最近は怖い夢も見なくなったから大丈夫、って言ってた。だから三人で寝るのは今日で最後ってお兄ちゃんに言っておいてって」
「……」
それを聞いた薫は身を起こすと枕に肘を付き、考え込むように黙り込んだ。そこへ樹里が自分の意見を述べる。
「でもね薫。確かに私たちがここで寝るようになって可乃子が脅えて泣き出すことって一度も無かったけど私はまだ不安なの。だから私はこのまましばらくはまだ三人で寝たほうがいいと思う」
薫はまだ何も言わなかった。
「ね、そうしよう薫?」
樹里がそう呼びかけるとようやく薫が口を開く。
「……いや、こいつの意志を尊重する。可乃子がそう言い出したんなら明日から一人で寝かせてみようぜ」
家長の下した決断に樹里は薫の胸から顔を上げた。
「でも一人にしてまた怖い夢を見たら……」
「そん時はこいつが落ち着くまでまたしばらく一緒に寝てやりゃあいいじゃねぇか。可乃子もあと三年経てば中学だ。いつまでも俺が一緒に寝てやるわけにもいかないしな」
「じゃあ少しずつにしたらどうかな?」
「あ? どういう意味だよ」
「明日からまずは薫だけ自分の部屋で寝てみるの。私はここでしばらく可乃子と一緒に寝てみて、それで大丈夫そうだったら…」
「アホか。んなまだるっこしいことをしてられっかよ」
薫が樹里の額を軽く弾く。
そして「いたっ」と額を押さえた樹里の顔にデコピンを決めたばかりの指をそのまま突きつけた。
「いいからお前も明日から俺の部屋に来い。分かったな?」
「う、うん……。分かった」
「じゃあもう寝ろ。もうあったまったろ? 早く自分とこに戻れ」
「うん、ありがとう。おやすみ薫」
「おう」
樹里が自分の布団に戻り、室内は静かになった。
樹里のいる方向に背を向けて寝ようとした薫の顔の前に、パールピンクの電脳巻尺が音も立てずにやって来る。そして小声で薫を呼んだ。
『 Myマスターっ 』
目を開けた薫はすぐ前にサクラがいたので、
「なんだよお前も寝てなかったのかよ。早く省電力機能にして寝ろ」
と命令した。すると興奮状態のサクラはブルーランプを今までにないくらいの速度で忙しく早点滅させ、またしても著しく品性に欠けたことを言い出す。
『 いえ、ちゃんと省電力機能にしてましたよ? それよりもやりましたねMyマスター。来週の水曜日まで待たないでも明日愛の営みがイけそうじゃないですかっ 』
「テメェやっぱりセーブモードでもちゃっかり聞いてんじゃねぇか……!」
薫の右のこめかみに青く太い血管がビキビキと浮き上がる。しかし部屋が薄暗いのでサクラは主の変化に気付いていないようだ。
『 Myマスター、あなたとサクラは表裏一体の関係。なのでサクラも明日はMyマスターのお部屋で休ませていただきますねっ 』
薫はサクラに聞こえないように口中でケッと声を漏らすと、「さっさと寝ろや」と緊急停止用の単語を口にした。
『 きゃんっ!? 』
その驚きの音声を最後にサクラが黙り込む。
明日に備え、久々の完落ちを事前に試してみたがきちんと効くようだ。これで明日の夜も大丈夫だろう。
「どうかした薫? サクラの声が聞こえたような気がするけど……」
寝入りばなの樹里を起こしてしまったようだ。
「なんでもねーよ。早く寝ろ」
一つ向こう側の布団にそう声をかけ、久々に相棒を完落ちさせた薫は身を起こし、サクラを可乃子の机の上に置こうとした。
だが少し考えた後、思い直したように元居た場所に戻すのは止め、自分の枕元の側にサクラを置いてやったのだった。