52. 見てやってくれ これが俺の尊敬する男だ 【 後編 】
最期の言葉を伝え終えた幸之進の手が、力を無くしてダラリと下がる。
その手から滑り落ち、耳障りな音を立てて地面へと落ちた携帯は、アスファルトの上で横向きに転がると偶然にも幸之進の方を向いて止まった。
路地裏に座り込み、腹部を真っ赤に染めて目を閉じた幸之進を、携帯の一つ眼は片時も休まずに無情に録り続けている。紅い夕焼けに照らされた幸之進はもう二度と動かなかったが、その顔は何かを成し遂げたかのように満ち足りた安らかな顔だった。
やがて静止画のようなその映像は唐突に消え、この世に残していく家族に自分の思いを全て伝えきった幸之進の姿が元のデータフォルダの中に収納される。
再生を終えた携帯のディスプレイを初期の状態に戻した薫は、すぐ横の樹里に視線を送ると素っ気無い口調で口を尖らせた。
「なんでお前が泣くんだよ」
「だ、だって、だってこんな……!」
幸之進の壮絶な最期を見た樹里は薫の横で大粒の涙を流していた。初めて見た幸之進の顔があまりにも薫によく似ていたせいで、余計に動揺してしまっている。そしてついに堪えきれなくなったのか、薫の肩に顔を押し当てて激しい嗚咽も漏らし始めた。
「……だから泣くなって。んな顔で帰ったら可乃子が驚くじゃねぇか。また俺がお前に何かしたかと誤解されちまうだろ」
なだめるように震える樹里の肩を軽く二度叩いてやる。
しかし樹里の身体の震えは止まらない。
「私は何も知らないで薫に勝手な事を言ってた……。だ、だから薫は自分は自慢をしないと言ったり、可乃子に対してもあんなに過保護だったりしていたんだね……」
あぁ、と頷き、携帯をジーンズの尻ポケットに無造作に突っ込む。
「親父にあそこまで頼まれたら断れねぇよ」
「ご、ごめんなさい、私、私……!」
「アホ。お前が謝ることなんか何もねぇだろ。どうだった、俺の親父は?」
樹里が涙に濡れた顔をゆっくりと上げる。
「素晴らしいお父さんだよ……。生きているお父さんにお会いしてみたかった……」
「俺がこの世でたった一人、尊敬する男だ」
薫は得意げな顔でフッと笑うと、「お前の親にも会ってみたかった」とさりげなく口にする。
その言葉に、自分の両親を心の中に呼び覚ました樹里が声を落とした。
「私の両親が薫を見たらきっと驚いただろうな……。お父様もお母様もどちらかというと堅い人たちだったから」
「あぁそれはよく分かってるぜ。なにせお前ん家はガキの作り方もろくに教えねぇ、戦国時代に生きる時代錯誤な家だったみたいだからな」
薫のこの痛烈な皮肉に、ようやく樹里が泣きながらも「ひどいな」と笑顔を見せる。
「だからもう泣くなっての。お前がそんな顔じゃいつまでたっても帰れねぇじゃねーか。可乃子には三十分ぐらいで帰るって言っちまってるんだぞ? ったく手間のかかる奴だな」
荒い口ぶりだがまだ涙で濡れている樹里の目元を人指し指で拭ってやると、何度も忙しく目を瞬かせ、樹里は溢れ出る涙を止めようと必死だ。
「……薫、この間可乃子に聞かれたの」
自分の気持ちを切り替えようと、樹里はつい先日可乃子と話した会話の内容を薫に話し出した。
「 “ うちのお兄ちゃんはマスター・ファンデになるって決めて一生懸命頑張ってその職業に就けたけど、樹里ちゃんは何かやりたいことはないの? ” って……。私、すぐには答えられなかった。だからそう聞かれて考えてみたの。この先自分が何をしたいのか」
「…………」
薫は流れ続ける川を見ながら黙って横で聞いている。
樹里も燃え尽きる太陽が放つ朱に染まったその川面を見つめ、静かな声で言った。
「私は好きな人のために尽くしたい。誰かのために生きたい」
そう告げると、樹里は身体にかけられたライダースジャケットの前身頃を合わせるようにきゅっと握り、
「薫のために生きたい」
と目を伏せて呟いた。
「……おう。もうちょい待っとけや」
そうぶっきらぼうに一言だけ答えると薫は土手から立ち上がる。
「帰るぞ。日も暮れてきた。メシの支度だ」
ジーンズの前ポケットに手を突っ込み、薫が大股で歩き出す。少し先を歩くその黒いニットの袖口を、追いかけてきた樹里がそっと掴んだ。
掴まれた薫は何も言わない。
だが大股だった足取りはその半分以下の歩幅になった。
土手の道に細長く伸びる、繋がる二つの人影。
その影の形を保ったままで、二人は可乃子とサクラの待つ家までの道のりを、樹里の涙を乾かすためにゆっくりとした歩調で帰っていった。