50. バカ野郎 あいつに聞こえたらどうすんだ
── 12月12日水曜日。
先週の定休日は天気が悪かったのでどこにも出られなかったが今日はよく晴れている。
日中、樹里を連れてどこかに出かけようかと思っていた薫だったが、朝にネットの注文が二件入ったので今日は休みを返上してブラを作ることにした。
50%OFFセールが終わり、来店者数もネット注文もじりじりと下降線を辿っている今、貰った注文にはできるだけ早い対応で応えたいからだ。
午後四時半にブラジャーを作り終えると樹里を呼びつけ、「おらよ」とそれを渡す。
製品を受け取った樹里は、「今夜の便で出すの?」と薫に尋ねた。
「いや、今朝入った注文だから明日の朝でいい」
「うん分かった。では発送依頼だけしておくね」
商品配送を任されている樹里はそう答えると、作業台の隣にあるデスクに座って配達の依頼を手早く行う。これで明日早朝に配達人が薫の作品を依頼人に届ける為に現れることになる。
「定休日なのにお仕事お疲れさま。肩でも揉んであげようか?」
ブラを作り終え、作業台の前で大きく伸びをした薫を樹里が労わる。
「いやいい。もう今日はこれで終わりにすっから家に戻るぞ」
「ではまだ夕飯には少し早いし、居間でお茶にしようか?」
そう誘われた薫は今の時刻を確認した。
「可乃子は何やってんだ?」
「部屋で宿題をするって言ってたよ。今日はたくさん出されたみたいで膨れて帰ってきた」
「へっ、学生は大変だな。俺はもう勉強しなくていいから気楽なもんだ」
「君だってつい五ヶ月前はあんなに必死に勉強していたのに……」
まるで他人事のような薫の態度に、樹里は少し心配げだ。
「まさかもう問題集の答えを全部忘れてしまっているわけではないだろうね?」
「いやあの内容は忘れてねぇよ。あれだけ必死にやったんだ。忘れようたって忘れらねぇさ」
「そうだね、私も忘れられないよ。だって薫と勉強していたあの頃は本当に充実していたから」
胸の前で手を組み、樹里が家庭教師をしていた過去を懐かしむ。
しかし最後の言葉が癇に障った薫は仏頂面だ。
「おい、今が充実していねぇみたいな言い方だな」
口を尖らせてそう文句をつけると、「充実しているに決まってるじゃない。そんなこと君が一番よく分かっているくせに」と樹里が満ち足りた表情で微笑む。
そんな穏やかで優しげな笑顔を向けられた薫は、頭に巻いていた白い手拭いを外し、髪の毛をがしがしと掻くと、
「……散歩にでも行くか?」
と誘った。
「散歩? どこへ?」
「川べりあたりをふらふらっとよ。今日は夕焼けもきれいそうだ」
「じゃあ可乃子もサクラも連れて皆で行こう? もし可乃子の宿題が終わっていなければ帰ってきてからにしてもらえばいいし」
樹里のその提案に、薫は少しの間だけ沈黙した。そして、
「俺が呼んで来る。お前はここで待ってろ」
とだけ言うと樹里を店舗に残し、家の中に入る。
妹の部屋をのぞいてみると、可乃子はキラキラした瞳で少女漫画を読んでいた。
「おい可乃子、お前もう宿題終わったのか?」
「あ、お兄ちゃん。うん、今終わったところだよ」
手にしていた漫画から可乃子が顔を上げる。
薫は一瞬黙った後、「あ、あのよ」とどもりながら早口で言った。
「あいつとちょっとそこらを散歩してくっから、お前留守番できるか?」
「あいつって樹里ちゃんのこと?」
「お、おう」
「ん、いいよっ。でもどれぐらいで帰ってくるの?」
「三十分ぐらいで帰ってくる」
「うん。分かった! 行ってらっしゃーい」
漫画に夢中になっていた可乃子はまたすぐに手元に視線を落とした。
妹の部屋を出て店に戻る前に、薫はすぐ側で浮いているサクラに、「お前も残っててくれ」と伝えた。
するとまた今回も置いていかれると思ったサクラは黙り込んだ。
しかし薫は以前のような冷たい態度は取らない。
『 かしこまりました Myマスター 』 と気落ちした音声が戻ってくる前に空中のサクラをガシリと掴み、顔の前にまで引き寄せる。
「しょぼくれんなっつーの。今回だけだ。次からはどこに行くのにも必ずお前を連れて行く。約束すっからよ」
主からの小声の約束に、サクラは疑心暗鬼な様子で
『 ……本当ですかMyマスター? 』
と確認した。
「おう、男に二言は無ぇ。だから今回だけは可乃子と留守番しててくれ。な?」
長次郎を見習い、照れ臭いが今の自分にできるサクラへの精一杯の態度として、ぎこちなくもそのパールピンクの本体を撫でてやると、初めて薫に優しくされたサクラは、その喜びで嬉しそうにブルーランプを何度も早点滅させた。
『 ハイッ! かしこまりました Myマスター! サクラは可乃子様と家に残りますっ! マスターは樹里様と二人っきりでお出かけになられたいんですねっ! 』
そう指摘された音量がかなりの大きさだったので、狼狽した薫は慌ててサクラを全力で手の中に握りこんだ。
「ババッ、バカ野郎! 声がデケェっての! あいつに聞こえたらどうすんだ!」
『 申し訳ございませんMyマスター……。でも樹里様に聞こえると何かよろしくないことでもあるのですか? 』
「う、うっせーな! お前空気読めなさすぎなんだよ! 可乃子のこと頼むぞ! 三十分くらいで戻ってくっからな!」
『 ハイ! 行ってらっしゃいませ Myマスター! 』
店内に戻った薫は何事も無かったかのような顔で上着を羽織ると「行くぞ」と樹里に声をかける。
「えっ、可乃子は?」
「宿題があるから行かねぇとよ。俺らで行こうぜ。念のために家の方にも鍵かけとけ」
「サクラは連れて行くんでしょ? いつも君はサクラを置いていくんだから今回は連れて行ってあげてね」
「いや、あいつも誘ったんだけどよ、可乃子が心配だから残るとよ。だから任せることにした」
薫が嘘をついていることを知らない樹里は、感心した様子で頬に手を当てた。
「偉いねサクラは……。散歩から戻ったらちゃんと褒めてあげてね」
「分かってるっつーの。おら、行くぞ」
「うん」
自宅と店の入り口に鍵をかけた後、二人は家からそれほど遠くない川べりに散歩に出かける。
外気温が下がり出しているのに加え、川上から吹き付けてくる風のせいで、思っていたよりも肌寒く感じた。
しかし土手から見上げる夕焼けはとても美しかった。
薫と歩きながらその景色を見ていた樹里は感動した様子で呟く。
「こんな綺麗な夕焼けは初めて見たよ」
「大げさなんだよお前。いくら閉鎖的な区画だからって蕪利にだって空はあるだろうが」
「もちろんあるけど、こんなに綺麗だと思ったことはなかったよ。すべてが計算の上で作られたカプセルみたいな街だからね」
「カプセルだぁ!?」
土手の途中で樹里が足を止めたので、薫も立ち止まる。
樹里は「ほら」と言うと対岸に不規則に生えている大木や、荒れ放題といってもいいような草むらを指差した。
「蕪利にはあんな風にあちこちに自然な緑があったり、歩く場所によっていろんな匂いなんてしていない。だからあの区画にいると自分が作られた街のパーツの一部になったような気がするの。でもこの区画にいると、自分も自然から生まれてきたんだなぁって思えるよ」
その返答に、薫はわずかに眉根を寄せる。蕪利区画に入ったことがないせいで、どうしても樹里の言葉がいちいち大げさに聞こえてしまうのだ。
「色んな匂いっつってもよ、来る途中に近所の家から魚を焼く匂いとか味噌汁の匂いとかがしていただけだろうが」
「それが素敵なんだ。人が生活している匂いって私にはとてもあったかく感じるよ」
そこで樹里がくしゅん、と一つくしゃみをする。
薫は薄手のカーディガンしか着ていない樹里を見て先ほどよりもさらに大きく顔をしかめた。
「お前そんな薄着で出てくっからだぞ。おら、ちょっと重てぇがこれ着ろ」
薫は着ていたライダースジャケットを脱ぐと、樹里の身体にドサリとかける。いきなり背中にかけられたのでその重量に樹里が一瞬よろめいた。
「本当だ。この服すごく重たい」
「革だからしゃあねぇだろ。風邪引くよりマシだろうが」
そう言いながら土手に腰を下ろすと樹里もすぐその隣に添うように座り、黒のニットシャツ一枚だけになった薫を気遣う。
「でも薫は寒くない?」
「俺は大丈夫だ。そんなヤワじゃねぇよ。いいから黙って着てろ」
「うん。ありがとう薫」
樹里は革のジャケットをきちんと自分の肩に掛け直すと、再び薫に顔を向ける。
「薫のお父さんも今日みたいに休日を返上してブラを作ったりしていたのかな?」
そう尋ねられた薫は遥か遠くを見るような目で夕焼け空を眺めた。
「親父は万能工匠で注文もひっきりなしにあったし、毎日遅くまでブラジャーを作っていたのは覚えているからそうだったのかもしれねぇな」
「薫のお父さんはどんな人だったの? お母さんのことは可乃子から時々話を聞いているんだけどお父さんに関しては居間に飾ってあるあの写真でしか見たことが無いから」
「しゃあねぇよ。あいつは親父の記憶がないからな。話をしたくたって分かんねぇんだ」
そう答えると、薫は少し考えこんでいたが、唐突に、「……うちの親父に会うか?」と言い出した。
随分前に亡くなっていると聞いていた樹里が、えっ、と驚いた顔をする。
「もうこの世にはいないけどよ、ここにいる」
樹里の顔先に薫は自分の携帯を突き出した。そして同時に探るような視線を向ける。
「可乃子からうちの親父が死んだのは事故だって聞いてるのか?」
樹里はすぐに頷く。
「うん。可乃子と下町区画の駅前で初めて会って話をした時、私の両親が交通事故で亡くなったことを話したら、自分と同じだ、と言っていたよ」
それを聞いた薫はやるせないような表情でわずかに俯いた。
「……あいつには嘘をついてんだ。親父の死因は交通事故なんかじゃねぇ」




