5. なぜテメェがそこにいる
「ではいただきましょー! いただきまーす!!」
可乃子の楽しそうな声が廻堂家の夕食開始の合図だ。しかし薫は憮然たる面持ちで自分の皿を眺める。
「おい可乃子、俺の飯がすげぇ少ないがどういうことだ?」
いつもは飯茶碗二杯分はある自分用の白米が、今夜は削岩機で一気に掘られたかのようにガッツリと無残にえぐれている。カレーのルーだけが豊富にあるその様子は、まるで黄金色の大海原に浮かぶ小さな白い孤島だ。
「仕方ないでしょ。二人分のゴハンを三人分に分けてるんだから。お兄ちゃんはもう成長期も終りかけなんだし一日くらい我慢しなさいっ」
「そうだ、白米の食べすぎは太るぞ薫」
本来は薫の分の白米を自分の口に入れる前に、樹里がしれっと口を挟む。
「お前が言うんじゃねぇ!!」
再び怒りの炎が湧き上がり、薫は樹里を怒鳴りつけた。しかし樹里は涼しい顔で一口分の白米にルーをからめてスプーンですくい取り、口の中に入れてゆっくりと咀嚼している。
凄んでもまったく動じない樹里に業を煮やした薫は舌打ちをした。するとそれを聞きつけた可乃子が「お兄ちゃんっ!」と突然声を荒げる。
「今、チッって舌打ちしたでしょ!? これからは女性のお客様をたくさん相手にしていくんだからそういう品のないクセは直さなくっちゃダメだよ!」
「わ、分かってるよ、うっせーな」
今の廻堂兄妹の会話の内容が掴みきれない樹里が可乃子に尋ねる。
「可乃子、薫が女性のお客様を相手にするとはどういうことだ?」
「お兄ちゃんね、これからマスター・ファンデになる予定なの! 来月試験を受けるんだよっ」
「君がマスター・ファンデ……?」
樹里はスプーンの動きを止め、薫の顔を穴の開くほど見つめる。
「な、なんだよその目は! 俺がマスター・ファンデになったら悪いのかよ!?」
「一応確認のために聞いておくが、君がなろうとしているのは女性の下着を製作するあの職人のことでいいのだろうか?」
探るようなその物言いに、バカにされたと感じた薫は思わず食卓の椅子から乱暴に立ち上がる。
「あぁ!? それ以外に何があるっつーんだよ!? なんか文句あんのかてめぇ!?」
「もうお兄ちゃん! いい加減にその口の悪さも何とかして! いくらお兄ちゃんが器用だからって、そんな接客態度じゃお店はうまくいかないよ!? 本当にやる気あるの!?」
「う……」
可乃子に叱責された薫はたじたじで口をつぐむ。高校に在籍時は周囲が恐れた荒くれ者も、この妹の前では形無しだ。
「済まない薫。男性のマスター・ファンデなど珍しいと思ったのでな。決して君が女性下着の職人として不適格だと思って尋ねたわけではない。許してくれ」
しかも樹里が素直に謝ってきたので振り下ろす拳の先を見失った薫は「な、ならいいけどよ」と口中でもごもごと呟くと、決まりが悪そうにまた椅子に座った。
「ねっ、樹里ちゃんは決まったマスターさんはいるの?」
興味津々の様子で可乃子が尋ねる。
「私か? 一人には絞っていないが何人かの職人とは付き合いがある」
「やっぱり全員女のマスターさん?」
「もちろんだ。そもそもあの業界で男性のマスターは非常に数が少ないはずだぞ?」
「実は可乃子もそこが一番心配なんだよね……。お兄ちゃんは器用で何でも作れるからブラだってステキな物を作れるとは思うんだけど、でもお兄ちゃんは男だし、しかも見かけがこんな風にちょっと怖いでしょ? だからブラを作りにお客さんが来ても、お兄ちゃんを見て怖がって帰っちゃうんじゃないかと思ってさ……」
「あぁ確かにな……」
女二人の遠慮のない視線が一気に自分の顔に集まり、動揺した薫はどもる。
「て、てめーら! 二人して人の顔をジロジロ見るんじゃねー!! 俺は見世モンじゃねーぞ!!」
「ほら、しかもこんなにガサツだし、愛想笑いもできないし……。樹里ちゃん、これって前途多難っていうのかな?」
「だが男性のマスター・ファンデは少ないとはいえ、まったくいないわけでもないぞ? 実は私も一度だけ男性の職人にブラを作ってもらったことがあるんだ」
「なに!? マジかよ!?」
驚きで可乃子よりも先に声が出た。その素早い食いつきに樹里が小さく苦笑する。
「あぁ。男性だがすごく人気のある職人さんだ。彼はまだマスター・ブラのランクだが、それでもブラの出来は私が今まで作ってきてもらった中で群を抜いていたよ。今その彼の作品を着けているが、肌触りも最高だ」
それを聞いた時、薫の頭の中で特大の白い花火が盛大に打ちあがる。
「そのブラジャー見せてくれ!! 頼む!!」
しかしその花火が弾けたのと同時に即座に後悔する。
自分と同じ性別の人間が作ったブラを見てみたいと強く思うあまり、深い考えなしでつい口に出してしまったが、どう贔屓目に見ても今の自分の発言は変態のラインに余裕で到達している。
「お兄ちゃん、それはいくらなんでも樹里ちゃんに失礼だよ……」
完全にドン引きしている妹に、薫は頭をかきむしりたい気分になった。
兄としての威厳などこれではもう無いに等しい。
時間を巻き戻せないのなら、いっそこのまま地球の裏側に突き抜けるまで延々と穴を掘り続けたいぐらいの恥ずかしさだ。
とにかくここは何も無かった顔をしてひたすらに飯を食い、少しでもまともな空気にしなくては、そう思い再びカレーを掻き込もうとした薫の思惑を、樹里が華麗にぶち壊す。
「薫、今の君の発言はこれから職人を目指す者として、あくまでも今後の参考のためにブラを見たいという意味でいいのだろうか? それともブラを着けた私にすこぶる興味があるということなのだろうか?」
「んあ!? んなわけねーだろ!! だっ、誰がお前のブラジャー姿なんかに興味なんかあるかよっ!!」
「そうか……。もしや私が気になるあまりの行動かとも思ったが違うのか」
「当たり前だっ!!」
「もうお兄ちゃんさっきから叫びすぎ! そんなにムキになる必要ないじゃない! そこまで必死になると逆に樹里ちゃんの下着姿にすごく興味あるように感じちゃうよ?」
「お前まで何言ってんだ!? おれはこんなブスのブラジャー姿になんて興味ねぇ!!」
「……さっきから人のことをブスブスと連呼して失礼な男だな」
樹里が怒りを抑えた声で反論する。
「薫、仮にも私は先ほど女優にスカウトされたほどの人間だぞ?」
「バカかお前!? だからそりゃあAVだってさっきから言ってるだろうが!」
「ところでエーブイとは会社名なのか? 私は今まで耳にした事は無かったが、可乃子もこの会社の名前は知っていたようだし、その界隈ではさぞかし大手の製作会社なのだろうな」
真顔の表情でそう尋ねる樹里に対し、薫と可乃子はお互いの顔を見合わせた。
「おい可乃子。こいつ一体なんなんだ? AVを知らないなんてありえねぇだろ」
「女の子なんだし別に知らなくても不思議じゃないでしょ。可乃子は前にお兄ちゃんのお部屋を掃除してあげた時にベッドの下にいっぱい隠してるのを見つけたから知ってただけだし」
「な、に……!?」
「あ、でもちゃんと戻しておいたから安心して。無いと色々困るでしょ? たぶん」
秘蔵のエグいお宝グッズを妹に見つけられていたことを知って絶句する薫に、可乃子は残りの言葉を樹里に聞こえないようにそっと小声で伝える。
「……それと樹里ちゃんね、たぶんどこかのお嬢様だよ。着ている服とか持っているバッグとか全部ブランド品だし、車両切符の買い方もよく分かってないみたいなの」
「マジかそれ?」
「うん。それでね、まだ全部詳しくは教えてもらってないんだけど、樹里ちゃんもお父さんとお母さんがいないんだって。事故で死んじゃったみたい」
なぜ可乃子がこの家出女を無理やり家に連れてきたのか、その理由がようやく分かった薫はこの最後の報告には相槌を打たなかった。
「二人でなにをこそこそと話しているのだ? 目の前で内緒話をされると少々不快なのだが?」
静かな声でそう不満も漏らすと、樹里は目の前の小皿によそわれたラッキョウを口の中に入れ、「美味しいな」と感想を述べた。
「あ、それお兄ちゃんが漬けたんだよ!」
「君は料理も出来るのか。マスター・ファンデを目指していることといい、家事に特化した男なのだな。素晴らしい。尊敬するよ」
「べ、別に大したことじゃねぇよ」
思いがけないその賛辞に照れた薫はそっぽを向いた。
「薫、一宿一飯の恩義ではないが、君がマスター・ファンデの試験に受かるよう私も祈らせてもらうよ」
「お、おう。サンキュ」
「さ、お喋りばっかりしてないで食べよっ! せっかくのカレーが冷めちゃうよ!」
三人は再びスプーンを動かし、その合間に当たりの触りのない会話が飛び交う。
可乃子はずっとはしゃぎっ放しだ。
「やっぱり人数が多いほうがゴハンが美味しく感じるね、お兄ちゃん!」
薫は低い声で「そうだな」と相槌を打つ。
何気なく出てしまった可乃子の本音に自分たちが失った家族の重さが透けて見え、薫の胸中に滲むやるせない気持ちが更に強まっていった。