47. 俺は卑怯だ だからお前を縛らない
長次郎の店を出た直後、御子舞区画一帯に冷たい時雨が降り出し始める。
歩道にいた人々は一斉に手近の建物や地下歩道に逃げ込みだし、繁華街の路上があっという間に閑散としてゆく。未だ歩道に残っているのは薫ぐらいだ。
周囲に人がいないほうが会話をしやすい。
一人残った歩道上で薫は携帯を取り出した。
雨粒が次々に当たる画面を素早く操作し、通話開始の指示を出す。
「お電話、ありがとうございます。ブラショップ・ボアンジュです」
樹里の声だ。
「俺だ」
「薫? 雨が降ってきたけど今どこにいるの?」
「御子舞だ」
「ミスマイ? 行き先を言わなかったから近場に出かけていると思っていたけど、そんな遠くまで出ていたんだね。置いていかれたサクラがしょんぼりしているよ。次はちゃんと連れて行ってあげてね」
「……あぁ」
つい先ほど、長次郎が雷太を愛おしげに撫でていた光景が頭をよぎる。
「傘は持っているのかな? 無いなら駅前まで迎えに行くよ」
「いやいい。それよりお前に頼みがあるんだ」
「頼み? また君の背中を流すのだろうか?」
「ちっ、違う! 何言ってんだお前!?」
「だって薫の頼みといえば家庭教師かそれぐらいしか聞いた事がないから」
「……専属型式の件もあるじゃねぇか」
「あぁ、そういえばそれもあったね」
雨脚が強くなってきた。
薫は一気に用件を言う。
「お前の画像を店のサイトに載せたい。その許可をくれ」
「私の画像?」
「あぁ。俺の作った下着をお前が着て、それをサイトに上げる。いくらお前と専属契約しているとはいっても、個人の画像を公の場で使う場合、モデル本人の事前許可は必要だからな」
「わ、私の下着姿が今度はネットに流れるということに!?」
「そういうことだ。世界中の人間がお前の下着姿を見ることになる。その許可をくれ」
「ど、どうして急にそんなことを!? 私の下着姿はお客様にお見せしている店内のサンプルファイルで充分だと思うよ」
「来月一ヶ月間だけ特売をやることにしたから大々的に宣伝したい。お前に俺のブラジャーを着けてもらってその画像をネット上に載せたいんだ」
携帯の向こう側は少しの間沈黙した。
そして樹里は今の自分の気持ちを伝える。
「……少し考えさせてほしい」
「あぁ、無理強いはしない。駄目ならそう言ってくれ。これから帰る」
「では下町の駅まで迎えにいくよ。こちらに着いたらまた電話してほしい」
「来なくていい。こっちは大して降ってねぇから。じゃあな」
嘘をつき、薫は電話を切った。
長次郎の店を出たばかりの時はまだポツポツとだった雨脚は次第に速度を増してゆき、今は大き目の雨粒となって薫の髪や顔に容赦なく降り注ぎだしている。
しかし薫は地下歩道には入らずにそのまま外を歩いた。
樹里の想いを利用し続けているのにそれに対して何も応えていない勝手な自分が、雨の当たらない快適な場所へ移動してはいけないような気がしたせいだ。
冷たい雨に身体を濡らし、人気の少なくなった歩道を薫は黙々と歩く。
スクランブル交差点を渡っている最中、ビルの一角にある大型電光モニターからよく通る声で、
『 ご家族を持つ男性の方にお聞きします。
もし、妻か子ども、どちらかしか助けられない場面に
遭遇してしまったら、あなたはどちらを助けますか? 』
という質問が上空から聞こえてきた。
何かのTV番組を流している最中らしい。
薫は一瞬足を止めたが、まだ自分が交差点の真ん中にいることを思い出し、歩きながら電光モニターを見続ける。
見上げた特大の画面には働き盛りの中年男性を主に、このいささか悪趣味ともいえるアンケートに答えるたくさんの男たちの顔が次々に映し出されていた。
男たちの回答が一つ増える度、画面右端にある円グラフの数値と面積が刻一刻とリアルタイムで変化をしてゆく。
やがて、すべての答えを回収した結果が出る。その回答結果は見事なまでに片側に偏っていた。
その結果を交差点を渡りきった薫は無言で見上げる。
もちろんどちらも助けたい。
そんなのは当たり前のことだ。
もし自分の命を引き換えにして妻子を助けることができるのなら、アンケートに答えたあのたくさんの男たちもおそらくためらうことなく自分の命をその場に差し出すことだろう。
しかし、自分の手で片方しか助けられないのであれば、それしか選ぶ道が無いというのであれば、我が身を真っ二つに引き千切られるような葛藤と戦いながらも、ほとんどの男たちはその大きな手を精一杯に伸ばすのだ。
圧倒的な回答数を得た、子どもの方へ。
雨は降り続く。
冷え切った水滴が薫の髪の先からポタポタと垂れ落ちてくるようになった。
たった今、長次郎から諭された言葉が、二度と消すことの出来ない烙印のように薫の中に焼き付いている。
店が立ち行かなくなれば、マスター・ファンデとして生きていくことはできなくなる。
長次郎の言う日雇い暮らしで可乃子を育てていかなければならない。
むろんその覚悟はできている。
だが今の自分が背負うことのできる人間は一人だけだ。いや、その一人を背負うことも難しいのかもしれない。
ならば、手を差し伸べることができないもう片方の相手に、せめて自分がしてやれることはなんなのか。
自由にしてやることだ、と薫は思った。
自分は何も与えていないのに、樹里の好意に甘えたままではフェアではないとも思った。
“ いいか息子一号 自分のやりたい道を進め ”
亡き父が自分に遺した、必ず守らなければならない男同士の鉄の掟。
その一つが今の薫をがんじがらめに縛り付ける。
店の経営がいよいようまく行かなくなれば、おそらく樹里は自分も働く、と再び言い出すだろう。
だが、両親を事故で同時に失い、その悲しみに身をやつす時間も与えられず、欲と陰謀の渦巻く狭い世界からたった一人で必死に逃げ出してきた樹里に、自分のせいでこれ以上辛い思いを味あわせたくなかった。
── あいつにだって きっとやりたい事があるはずだ
それを俺が潰すわけにはいかない──。
朝、念入りにセットし大胆に散らして立ち上げた毛先は、今は降りしきる雨のせいで見る影もなく潰れている。薫は濡れた前髪を後ろに掻きあげたが、それでも地下歩道に入ろうとはしなかった。
ようやく御子舞の駅に着くと特急の車両切符を買い、リニアに乗り込む。
平日のせいか車内は空いていた。
しかし雨に体を濡らした薫は座席には座らず、乗車口側の壁にもたれ、窓から流れる景色を眺める。
今回のセールは絶対に成功させなければならない。そのためにできることは何でもしたかった。
だがそれは結局また樹里の好意に甘えてしまうということだ。
フェアではないと内心では思っているのに、もし樹里がサイトに画像掲載の許可をくれるのなら、きっと自分はそれを受けてしまうだろう、と薫は思った。
マスター・ファンデとして生きていきたい自分自身の利己のために。
公共機関を乗り継いで御子舞区画から下町区画へ戻ってくると、こちらも強めの雨が降っていた。
駅前を出たところで「薫」と声をかけられる。
傘を差して待っていた樹里に、薫は走り出そうとしていた足を止めた。
「……来たのかお前」
「うん。降りが強くなってきているから来てしまったよ。マスターが風邪を引いてしまったらお店に影響が出てしまうからね」
来なくていいと言われたのに来てしまった理由を先に伝えた樹里は、サクラを連れて来なかった訳も話す。
「サクラも連れてこようと思ったんだけど、留守番をしているようにと君に命令されたから家に残るってきかないんだ。いいからおいでって何度も誘ったんだけど、エスカルゴはマスターの命令には絶対に服従しなくちゃいけないんですって言い続けるだけで」
「……」
「ほら、入って」
樹里が自分の傘を薫に傾ける。
「お前、傘一つしか持ってこなかったのかよ?」
「一緒に入ればいいかなと思ったから」
「なら一番でかい傘もってこいよ。濡れんだろうが」
「元々傘がなかったはずなのだからいいじゃない。それに薫、もう結構濡れているよ。自慢の髪型もぺしゃんこになってる。傘を買うか地下に入れば良かったのに」
「……貸せ。俺が持つ」
樹里から傘を取り上げ、二人は一つの傘の中に入った。
「薫。私に傘を傾けすぎだよ。身体がほとんど傘の外になってるじゃないか。ほら、もっとそっちに」
ほとんど傘の中に入っていない薫にこれ以上雨が当たらないよう、樹里が傘を押し戻そうとする。しかし薫はひょいと手を高く上げ、樹里が届かない高さにまで傘を掲げた。
「いいんだよ。どうせ結構濡れちまってるんだから」
「でも薫が風邪を引いてしまったら……」
「帰ったらすぐに風呂に入りゃ大丈夫だ。お前のことだからもう湯は張っておいてくれてんだろ?」
「うん、もちろんだよ。きっと薫は濡れて帰ってくると思ったからね」
樹里がほんの少しだけ誇らしげに頷く。
そして急に、「薫、先ほどの話しだが、私の画像を使ってほしい」と言い出した。
それを聞いた薫の心臓がドクリと鳴った。
「い、いいのか?」
「不特定多数の人間に下着姿を見られてしまうのは躊躇するけど、でも私は薫の力になりたい」
「…………」
それを聞いた薫は重苦しい表情で足元に視線を落とした。
そして低い声でつい先ほど御子舞区画で決断したばかりのことを伝える。
「……来月一ヶ月の間だけだ。それが終わればもうお前は使わねぇ。専属契約も解除してやる」
突然告げられた契約解除通告に、薫の意図が飲み込めていない樹里は「どうして解除をするの?」と尋ねた。
「七月に出会ってから今までお前を散々利用してきたが、これで最後ってことだ」
裏を含んだようなその言葉に、樹里は思わず息を呑むように薫の横顔を見上げた。
「で、では薫は、もう私は必要ないと……?」
傘の中で不安げに瞳を揺らす樹里に、薫は硬い表情で厳然と宣告する。
「あぁそうだ。家には好きなだけいればいい。出て行きたくなったら勝手に出て行け。そして俺の嫁になるのは諦めろ。いいな?」
瞬時、言葉にならぬ複雑な沈黙が二人の間を無情に隔てた。
「薫……。なぜ急に……?」
哀しげな樹里から顔を背け、薫は言い放つ。
「俺にとって一番大事な奴は可乃子なんだ。可乃子が成人するまでまだ十年もある。俺はこの先あいつを食わせていくだけでたぶん精一杯だ」
「だから私も働…」
「止めろ」
傘の中で樹里の言葉を遮る。
そして樹里にとっておそらく一番残酷な言葉を、薫は押し殺すような低い声で告げた。
「俺はこれ以上家族はいらねぇんだよ」