45. 分かってる でも俺はどっちも手放したくねぇんだ 【 前編 】
ボアンジュの定休日は水曜日と決めている。
しかし定休日というものが、下着製作に忙殺される職人の身体を休ませるためにあるものなのだとするならば、その定めた休みも薫にとっては今はまだあまり意味がない。
なぜなら忙殺されるような日々を送っていないからだ。
開店から一ヵ月半が経ったが店舗に足を運んでくれる人間はおらず、老婦人たちのシニアブラの納品をすべて終えた後、ツテを頼って仕事を回してもらうのもそろそろ限界に来ている。
何か戦略を考えないとこのままではいずれ先行きが暗くなるのは目に見えていた。
受注している依頼がまだいくつか残っているうちに早急に次なる手を考える必要性がある。
── そして薫は決断した。
10月27日水曜日。
定休日の今日、今にも降り出してきそうな空模様の下、可乃子を学校へと送り出した薫は樹里を家に残し、一人で外出をしていた。
両親と深い親交のあった、あるマスター・ファンデの元を訪ねるのが今回の外出の目的だ。
正直、この職人に会いたくはなかったが、背に腹は変えられない。
先日、「一流の職人なら仕事道具は大切にするはず」と樹里に指摘されたことが胸の中で今も引っかかってはいるが、敢えてサクラは家に置いてきた。
それは、これから会う人間とのやり取りを、お喋りなサクラが自宅に戻ってペラペラと樹里に話すことを警戒してだ。
「お前は留守番をしていろ。ついてくんなよ? 勝手についてきやがったらすぐに完落ちさせっからな」
と出掛けにきつく釘を刺すと、普段の命令にはすぐに 『 かしこまりました My マスター 』 と答えるサクラが黙り込んだ。
そしてたっぷり十秒ほど時間を置いた後でようやく、 『 ……かしこまりました My マスター。お気をつけて 』 と空中で一礼すると、薫に背を向けてふよふよと家の中へ入ってゆく。
樹里から耳の痛い指摘を受けたせいなのかもしれないが、自宅の中へと消えていくパールピンクの後ろ姿はどことなくさみしげに見えた。
これからもうちょいあいつに優しくしてやるか、そう考えながら歩いていた薫の脚が止まる。
御子舞という超一等地の区画にある、今回の目的場所についた薫はその建物を見上げた。
── 【 一見さんはお断り 】
入り口にそんな無粋な注意書きは書かれていないが、顧客を広く迎え入れるはずのその和風作りの扉は、簡単にその敷居を踏み越えさせないような妙に貫禄のある和の佇まいを見せている。
早くもその雰囲気に飲み込まれそうになった薫は、その威圧感を跳ね飛ばすように横引きの扉をやや乱暴に開けた。
店内に入るとまず耳に入ったのは川が流れているような穏やかな水音のBGMだ。
そんな安らぎの水音が絶え間なく流れ、衝立代わりの障子が、黒と赤を基調とした空間の中を遮るようにあちらこちらにそびえている。
『 ようこそ、清水長次郎の “ 乳当て工房 ” へ。雲行きがあやしい中、当店にご足労いただき、誠にありがとうございます 』
全身をピカピカに磨き上げられた漆黒の電脳巻尺が障子の影から現れ、恭しく薫を出迎える。落ち着いた、渋みのあるその音声を聞く限りでは男のエスカルゴらしい。
「雷太。そいつに挨拶なんていらん」
店の奥からしわがれた声が聞こえてくる。
その五秒後に藍色の上質な作務衣に雪駄を穿いた一人の老人がゆっくりとした足取りで店内に現れ、「やはり来おったな。二人きりで会うのは久しぶりだな」と薫を見上げた。
清水 長次郎。
万能工匠であり、国宝の認定を受けた有名な下着職人だ。
御子舞区画の超一等地に高級下着店を構えるこの職人は亡き父の師匠でもあり、八月下旬に行われたFSS試験の面接で顔も合わせている。
長次郎は顎から伸びている長い白髭を手でいじりながら、
「まさかお前さんが儂らと同じ職業になるとはな……。これも運命なのかもしれんて」
と感慨深げに呟いた。
そして呟き終わった後は、自分の側に戻ってきた雷太をその皺だらけの手で愛おしそうに撫でる。薫はその光景を複雑な思いで眺めた。
「そういえばお前の半身をまだ見ておらんかったな。連れてきとるんじゃろ? どれ、見せてみろ」
「……エスカルゴなら連れて来てねーよ」
「何?」
長次郎は不可解そうな面持ちで薫を見た。
「お前は下着職人になったのだぞ? 例え仕事以外の時でも己の半身は常に連れて歩くものだ。そのような半端な心構えでは立派な職人にはなれんぞ」
「…………」
樹里の指摘と長次郎の苦言にぎっちりと挟まれた薫は黙る事しかできなかった。
そんな今の自分の無様さが、以前FSS広報部から取材に来た、芝桜 林太郎の仕事に対するいい加減な姿勢と重なって、薫を暗澹たる気持ちにさせる。
そんな気持ちを押し隠し、薫は長次郎の前で軽く頭を下げ、
「おふくろの葬儀の時にはあんたにも色々と世話になった」
と礼を述べた。
長次郎はフンと鼻を鳴らすと白髭から手を離す。
「口の聞き方は全然なっとらんが、一応目上に対する礼儀の欠片ぐらいは持っとるようだな。彩子さんもあの世で少しは安心しとるだろう。時にお前、幸之進の店で一人でやっとるようだが、どうだ? うまく行ってるのか?」
「……いや、たいして客は来ていない」
「儂の予想通りの結果となったか。ヒヨッ子はまず別の職人に師事し、ある程度修業をしてから独立するのがこの業界の常識だ。で、お前さんが急に儂の店に来たのは、その辺りの相談だろう?」
「……あぁ」
「それなら助言は決まっとるさ。どこか大手の店に勤めろ。そこで経験を積んでから、あらためて店を持て。お前さんはなまじ店を持っているからそれがかなりの遠回りのように感じるだろうが、職人として大成を為すにはそれが一番の近道だ。お前は儂の一番弟子の息子だからな、店の口利きぐらいはしてやらんでもないぞ?」
「それが出来れば苦労はしねぇよ。店に勤めることはできねぇんだ」
「ほう、なぜだ?」
急に興味が出てきたのか、長次郎の瞳に強い光が宿り出す。
「最初は俺も勤める気でいたさ。でも俺の家の近場にマスター・ファンデを募集しているようなデカい下着店は無ぇ。だが離れた場所に就職しちまうと家を空けちまうことになる」
薫の口から引き出したその理由に、長次郎は泰然とした表情で目を閉じた。
「……なるほどな。お前は可乃子と離れたくないわけか」
「離れたくないんじゃねぇ。絶対に離れるわけにはいかねぇんだ。あいつが大きくなるまでは俺が育てる。そう決めてんだ」
「あの店を捨て、可乃子を連れて新天地で暮らしてゆく考えはないのか」
この提案にも薫は頷かない。
「俺はあの店を手放す気は無ぇよ。可乃子もあの店も俺が守ると決めてんだ」
「あの店は幸之進が必死で守った場所。お前にとってはいわば形見のようなもの、というわけか……」
そう呟くと、長次郎はゆっくりと目を開けた。
「だから他の店に勤める以外で何かいい案はねぇか、教えてほしい」
「ないな」
他に当てもないから自分を頼ってきているのが分かっているのにもかかわらず、長次郎は素っ気無く即答する。
「儂の顧客をお前に回すことはできないのは、お前さんだって分かっとるだろう? ヒヨッ子に務まるレベルの仕事ではないからな。それに儂の店に来る客に、今年職人になったばかりの店に行ってみろと言ってもおそらく誰も行かないだろう。下町区画とこの御子舞では客層が違いすぎる」
しかし長次郎もここで薫を切り捨てる気はないようだ。「ネット注文は請けているのか?」と別の質問をする。
「あぁ。でもそっちも大して依頼は無い」
「まぁ客の心理を考えれば当然だな。実績も何もない新米の職人にわざわざ乳当てを注文する理由がない」
「何かいい知恵はねぇか爺さん?」
「爺さんじゃない。長次郎さんと呼べ。儂に対して無礼なところは幸之進とそっくりだな。まったく血は争えんて」
そう文句はつけたものの、長次郎は一つの少々無謀ともいうべきアイディアを薫に授ける。
「今日は10月27日か……。よし、では開店記念と銘打ち、11月一杯は店舗販売及びネット販売の商品代金を全て半額にする大売出をしてみろ」




