44. 教えてくれ 俺はこれからどうすればいいんだ
── 10月24日、午後三時。
もうすぐ可乃子が小学校から帰ってくる時刻なことを確認した薫は、台所に顔を出して夕食の支度をしていた樹里を呼ぶ。
「おい、可乃子が帰ってきたらすぐに出かけるぞ。出られる支度をしておけ」
振り返った樹里は手を止め、「こんな時間からどこに行くの?」と尋ねた。
「親父の墓参りだ」
「薫のお父さんの……? ではもしかすると今日はお父さんの…」
「命日だ」
答えを引き継いだ薫はアッシュブラウンの鶏冠頭をがしがしと掻いた。
「今日はもう店も閉める。暗くなる前に戻ってきてぇから、お前も出られるようにしておいてくれ」
「うん、分かった。ちょうど出来たところだから私は大丈夫だよ」
樹里は調理の終わった鍋に蓋をすると急いでエプロンを外し始める。
「円蓋霊園なんでしょ?」
「いや、屋外だ」
「屋外……。ドームじゃないならお墓は電脳蘭塔ではないの?」
「あぁ、普通の墓石だ」
「サイバーグラヴではないお墓を見るのは私は初めてだよ」
「マジかよ? あぁ、でも蕪利みてぇな狭い特殊区画なら外に墓を置くスペースはなさそうだもんな」
「うん。場所はどこ?」
「車なら一時間ありゃあ着く。海のすぐ側だ」
「夏休みに出かけたあの海の近く?」
「まるっきり反対の方角だ。そっち側の海は泳げる場所なんて全然ねぇよ」
二人がそんな会話をしていた時、「ただいまー!!」という可乃子の声が玄関先から聞こえてきた。
「お、帰ってきやがったな」
可乃子がバタバタと足音を響かせながら室内に駆け込んでくる。そして、「お兄ちゃんっ、これからお父さんたちの所に行くんでしょ!?」と息せき切った様子で尋ねてきた。
「おう。すぐに出かけるぞ」
「うん! ランドセル置いてくるね!」
可乃子はニッコリと笑うと背中から下ろしたランドセルを手に台所を飛び出してゆく。
「薫、サクラも一緒に連れて行ってあげてね」
そう樹里が頼むと、薫は面倒臭そうに「さっき完落ちさせちまったからいい。置いていく」とにべもない返事をした。
「また!? どうして君はサクラを可愛がってあげないの? サクラが可哀想だよ」
その非難に、薫は付き合ってられねぇといった顔で口を尖らせた。
「何が可哀想なんだよ。お前も可乃子もあいつをペットか何かと勘違いしてねーか? エスカルゴは可愛がるもんじゃねぇって前にも言ったろうが」
「ううん、可哀想だよ。だってサクラはあんなにいつも君と一緒にいたがっているのに」
「アホか。あいつは単なる仕事の道具だぞ? 仕事の時だけ起きてりゃいいんだよ」
薫のその発言に、樹里は失望したような表情でわずかに顔を伏せる。
「……薫」
「あ?」
「君は確かにとても素敵なブラを作る職人さんだよ。でも、きっと君が目指している万能工匠にはなれないだろうね」
「なんだと!?」
樹里は顔を上げ、澄んだ瞳で薫を直視すると静かに断定する。
「一流の職人さんなら仕事の道具は大切にするはずだから」
二秒もあれば言い終える樹里の指摘は、その短さに反してとてつもない精神的なダメージを薫に与えた。だが、このまま樹里の言いなりになって今さらサクラを連れて行く気にもなれないこの鶏冠頭の天邪鬼は、
「潮風に当てるのは機械に良くねーんだよ! おい可乃子! 準備は出来たか!?」
と、とってつけたような言い訳をして足音荒く玄関先へと向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
可乃子と樹里を連れ、薫は両親が眠る墓地へと車を走らせる。
場所は下町区画に隣接された埋葬専用の区画だ。
この区画は海に面した小高い丘にあり、四季の移り変わりをいつも眺められる場所ではあるが、傾斜が激しく住居用のエリアとしては快適なレベルではないため、埋葬用の区画として指定されている場所だった。
「可乃子、お前これ持て」
来る途中、花屋で墓参りに行く事を伝えて購入した供花を可乃子に持たせる。可乃子はうん、というと菊や蘭、百合が混じった白い花束を大切そうに抱えた。
供花の中には花屋の計らいで白を基調とした中にもいくつかの色花も添えられている。
「薫、私も何か持つよ。君は左手をケガしてるんだし」
「じゃあお前はこれ持て」
手伝いを申し出る樹里に薫は紙袋を渡す。その中には供物である果物が入っていた。
自分はバケツや線香などを手にし、「行くぞ」と墓に向かって歩き出す。
可乃子が薫を追い越し、小走りで廻堂家の墓に駆け上がっていった。そして墓の前を見ると、大声で薫を呼ぶ。
「お兄ちゃん! 誰か来てる! お花あるもん!!」
墓の前に行くと、確かにそこには花が供えられていて、線香代わりに火のついた煙草が置かれていた。煙草は吸い口の所まで消し炭になっていたが、まだ煙を出し続けていたのでつい先ほどまで誰かがここにいたことは容易に想像できた。
薫は墓石の前に置かれた煙草の箱を手に取る。
そして潮風と絡まって顔にまとわりつくその独特なきつい残り香を嗅ぎながら呟いた。
「親父の好きだったヤツだ」
「ではお父さんの知り合いの方がお墓参りに来てくれたということなのかな?」
肩越しに煙草の箱を覗きこんできた樹里に「おふくろは吸わなかったし、たぶんそうだろうな」と答える。
「誰だろうね、お兄ちゃん?」
「……さぁな。よし、先に掃除するぞ」
三人は一度墓に手を合わせた後、供えられていた花と煙草を一時避けて墓石やその周囲の清掃を行った。
墓石の周囲をほうきで掃き、枯葉などのゴミを拾い、バケツに水を汲んで墓石を洗う。墓石に打ち水をした後、花立に元通り生花を挿し、果物や煙草も供え、線香を手向けた。
準備ができたところで可乃子が薫を見上げる。
「お兄ちゃん、可乃子からお参りしてもいい?」
「おう」
可乃子は墓の前にちょこんとしゃがみこむと目を閉じ、しっかりと手を合わせた。そして今の自分たちの生活を声に出して報告する。
「お父さん、お母さん。あのね、今日はお父さんとお母さんにステキなことを二つお話しできるよ。まず一つ目はね、お兄ちゃんがお父さんと同じお仕事をすることになったの! お兄ちゃん、すっごく頑張ってたんだよ。大嫌いなお勉強も毎日毎日一生懸命頑張って、マスター・ファンデの試験に合格したんだよ。今年のお盆に来られなかったのも、試験がもうすぐだったからお兄ちゃんが最後の追い込みで必死に勉強をしていたからなの。来られなくてごめんね」
そう伝えた可乃子はしばらく黙った。
やがて可乃子はまた口を開いたが、その声はそれまでよりもほんの少しだけかすれていた。
「…………可乃子ね、お母さんまで死んじゃってすごくさみしかった。一人ぼっちになったらどうしようって思った。でもお兄ちゃんがね、お父さんと同じお仕事で可乃子が大きくなるまで育ててくれるって言ってくれた。絶対離れ離れにはならないって、可乃子を一人ぼっちには絶対にしないって約束してくれたの。だから可乃子、今はもうさみしくないよ」
可乃子はここでパッと目を開くと、本当に嬉しそうな表情で続きを報告する。
「それと二つ目はね、うちに家族が増えたの! もう可乃子とお兄ちゃんだけじゃないんだよ。樹里ちゃんっていってね、すごく優しくてきれいなお姉さんなの。可乃子もいつも面倒みてもらってるんだ。宿題で分からないところとか教えてもらったり、お兄ちゃんが試験でおうちにいなかった時も樹里ちゃんがいるから全然さみしくなかった。そのうちお兄ちゃんと樹里ちゃんは結婚するみたいだから、可乃子、すごく楽しみにしてるんだ。だってそうなったら樹里ちゃんは本当に本当の家族ってことだもんね。だからお父さんもお母さんも可乃子のことは心配しないでこれからも天国から見守っていてね」
すべての報告を終えた可乃子が線香の煙がたなびく墓石に向かって深くお辞儀をする。
今の可乃子の近況報告を後半の部分から渋い顔で聞いていた薫が、すぐ横にいた樹里の頭をケガをしている拳で軽く小突いた。
「何泣きそうになってんだお前は」
「だ、だって可乃子がご両親に私を家族だと紹介してくれたから……」
「ったく勝手に感動してんじゃねーよ。おら、次はお前だ。手を合わせてやってくれ」
「うん」
目尻に浮かびかけていた涙を拭い、樹里も幸之進と彩子が眠る場所の前にしゃがみこむ。
そして眼を閉じ、長い間ずっと手を合わせていた。
「樹里ちゃん、お父さんとお母さんに何をお話ししてたの?」
可乃子の問いに樹里は恥ずかしげに微笑むと、「世間知らずで不束者ですがよろしくお願いします、とご挨拶したよ」と答えた。
「はい、じゃあ最後はお兄ちゃん!」
「おう」
薫は樹里が避けた場所に入ると、誰かが置いていった幸之進の好きだった煙草を一本取り、それを口に咥えた。そして線香をつけるために持ってきていた柄の長いライターで先端に火をつけ、口から外すとそれも墓前に供える。そして紙袋から用意してきていた日本酒の小瓶も取り出し、飲み口を開封した後、墓石の上から中身をすべてかけた。
その場にしゃがみ、薫は手を合わせる。
── 親父 おふくろ 教えてくれ
あの店と可乃子を俺が守っていくにはどうしたらいいんだ
天へと還った両親から返事は戻ってこないことはもちろん分かっている。
だが薫は心の中でそう祈った。祈ることで少しでも何かが良い方向に変わることを信じて。
合わせていた手を外し、薫は立ち上がる。
海の方角を振り返ると、朱に染まった夕焼けが、空だけではなく海面にもその美しい色を映し出している幻想的な光景が目に飛び込んできた。
「薫のご両親はいつもこの光景をここから見ていらっしゃるんだね……」
噛み締めるように呟いた樹里に、薫は無言で横に視線を走らせる。
連れ添うように隣に立っている樹里の表情はどことなく寂しげに見えた。
「……お前、親の墓は蕪利にあるんだろ?」
そう尋ねると樹里が寂しげな表情のままで静かに頷く。
今の樹里の気持ちが予測できた薫はそれ以上何も言えなくなった。
初めて出会った日に “ もう二度と蕪利に戻る気はない ”、と家出の決意を口にした樹里の気持ちは今もおそらく変わってはいないだろう。
しかし二度と蕪利に戻らないのであれば、それは自分を慈しみ、ここまで育ててくれた、今は亡き両親の墓前に永遠に手を合わせることが出来ないということだ。
それがどんなに辛く、そして悲しいことなのか、同じ境遇の薫にはよく分かる。
だからこそ、何も言えなくなった。今の自分にしてやれることは何もないのだから。
「よし、暗くなる前に帰るぞ」
それだけを言葉に出して供物を片付け始めると、可乃子と樹里もそれに習った。
もう一度バケツに水を汲んできて酒をかけた墓石を綺麗に洗い流した後、三人は丘を下り始める。海を渡り、丘に辿りついた潮風が帰途につく三人の背中をゆっくりと押していた。
「ねっ、お兄ちゃんはお父さんとお母さんに何をお話したのー?」
三つ編みを揺らし、薫の腕につかまってきた可乃子が無邪気に尋ねる。
自分を守ってくれると心から信じているその純粋な瞳を、今の薫の心境で直視するのは辛かった。
「言わねーよ」
ぶっきらぼうにそれだけを答えると薫はまた前を向く。
両脇では薫の苦悩をまったく知らない可乃子と樹里が笑顔で、「どーして男の人って秘密主義なのかなぁ?」という話題で盛り上がっていた。