43. そうだな 俺は大馬鹿だ
── 10月19日。
今日も朝から店を訪れる客はいない。ネット注文もひたすら下降線の一途を辿っている。
オープンして二ヶ月目でこの状況ではこの先も決して明るい展望は開けてこないだろう。
老婦人たちのシニアブラの納品をすべて終えた今、亡き母のツテを頼って仕事を回してもらうのもそろそろ限界に来ている。
何か戦略を考えないとこのままではいずれ行き詰ることは目に見えていた。
受注している依頼がまだいくつか残っているうちに一刻も早く次なる手を考える必要性がある。
しかし頭の悪い薫にはその次なる手、という策が何も思いつかない。
暇なせいか、頻繁に話しかけてくるサクラがうるさいのでいつものように完落ちさせ、静まり返った店内で作業台の椅子に深く腰を掛ける。そして眉間に皺を寄せて考えこみだした薫の視界の右端で、店の扉がゆっくりと開いた。
客か、と勢い込んで立ち上がった薫の顔が、瞬時に飢えた狼のような殺気のある顔に変わったのはその時だ。
「こんにちは」
店の入り口に立っていたのは薫が二度と会いたくない相手、児童保護局の局員だった。
年老いたその局員は老婦人らしい落ち着いた口調で薫に挨拶をする。
しかし歓待するつもりなど微塵もない薫は、
「てめぇ何しにきやがった!?」
と荒々しい声で局員を威嚇した。
しかし相手は相変わらず悠然とした態度を崩さない。
憤る薫に向かって軽く会釈をし、「またあなたの様子を見に来ると言ったでしょう?」とサラリと答える。
笑いかけた時に寄った目尻の皺は、前回の訪問時よりもさらに本数が増えていた。そしてその愛想笑いは本来の役割とは逆に、薫の闘争本能を本格的に呼び覚ます原因となる。
「うるせぇ!! もう二度と来るなと言ったはずだ!!」
警戒心を身体の隅々にまで行き渡らせ、獰猛な狼は歯を剥き出して吼える。
相手は自分よりも遥かに年上の人間だ。
本来なら敬うべき相手なのだろうが、しかし今の薫にとっては何よりも恐れるべき相手だった。
店内へと足を踏み入れた局員は物珍しげに中を見回す。
「前回私が来た時はこの場所はお店じゃなかったわよね。でもこうして営業しているという事はあなたは女性の下着を作る職人さんの試験に合格したということなのね」
「あぁそうだ!! おれはマスターファンデになった!! だからもう無職じゃねぇ!!」
「それはおめでとうございます」
「てめぇからの祝いの言葉なんかいらねぇよ!! さっさと出て行きやがれ!!」
「それでお店の経営はうまくいっているのかしら?」
── ここはすぐにYESと答えなければいけない場面だった。
だが頭が悪く、単細胞でバカ正直な薫はこの返答に詰まってしまう。
そしてその妙な間を、この齢を重ねた局員が気付かずに流してしまうことなどありえない。
「どうやらうまくいってらっしゃらないようね」
薫の代わりに正解を口にした局員がかすかに笑う。
「やっぱり男性が女性の下着を作るなんておかしいのよ。だってよく考えて御覧なさい。見ず知らずの、しかもあなたのような若い男性に、下着を作ってもらおうとここを訪れる女性がいるとは思えないわ」
薫は悔しげに顔を歪めると職員を睨みつける。
睨みつけるしか今の薫にすることは無いからだ。この職員の言っている事は今のボアンジュの現状を的確に表した事実なのだから。
「でもあなたはよくやったわ。可乃子ちゃんのためにここまで頑張ったんですものね。だけどもうこれ以上無理をすることはないと思うの。今は可乃子ちゃんを然るべき場所へ預けて、まずはあなた自身が独り立ちできるように努力していくべきですよ。自分で自分を食べさせてゆく、そんな当たり前の事を呼吸をするように自然にできるようになった時に、あらためて可乃子ちゃんを引き取れば…」
── 凄まじい殴打音が店内を貫く。
驚いた局員の言葉がそこで止まった。
薫が握りしめた拳で作業台を全力で殴りつけたその音は、空から稲光と共に落ちる雷の音によく似ていた。
たまたまそこに置いてあったブラジャーを収納するアクリルケースごと作業台を殴りつけたせいで、割れたアクリルの鋭利な破片が、薫の左拳を様々な角度と深さで一気に切り裂く。
拳から流れ出してきた血液が、もはや箱の形を成していないアクリルケースの底面の部分にみるみると溜まり出し始めた。
「あ、あなた、手から血が……」
今まではどんなに薫が怒鳴っても悠然とした態度を崩さなかった局員が、ここで初めて大きな動揺を見せる。
「……帰れ」
吼えるのを止めた薫は凄まじいほどの形相と威圧感でそう命じると、血みどろになった左拳で局員を指さす。
「覚えておけクソババァ。俺は何があっても可乃子を渡さねぇ。てめぇらなんかに絶対に渡さねぇぞ。いいか、これが最後の忠告だクソババァ。もしお前らが可乃子を無理やり連れ去ろうとしやがったらただじゃおかねぇ。ブッ飛ばされたくなかったらもう二度とここには来んじゃねぇぞ。いいか、分かったな……!?」
恐ろしいほどに吊り上がった目と、今にも人を殺めそうなほどの凄みのある薫の気迫に完全に気圧された局員は、青ざめた顔で後ずさりをする。
「……てめぇらの世話にはならねぇ。可乃子は俺が育てる。何があっても俺が必ず守るって決めてんだ。分かったら出て行け。商売の邪魔だ」
局員は固い表情のままで何も言わず、だが辞去する際の一礼はきちんと行ってからボアンジュを出て行った。
シンとした店内で薫は立ち尽くす。
今の自分は断崖絶壁の上に立っているような気がした。
あと一歩誰かに強く押されたら、よろけるほどの突風が吹いたら、真後ろに足を滑らせたら、二度と這い上がる事のできない暗闇に落ちていくような気がしていた。
── 親父 教えてくれ 俺はどうしたらいいんだ──
心の中で亡き父にそう助けを請うた時、ふと左手に温かさを感じた。
いつの間にか店内に入ってきていた樹里が、鮮血に濡れた拳をそっと触っている。
「お前、いつからいたんだ……?」
樹里は答えない。
ただ悲しそうな顔で薫の左拳にまだ刺さっていたいくつかのアクリルの小破片をゆっくりと取り除き、傷の手当てを始めている。
いつもの薫なら「余計なことをすんじゃねぇよ」と言い、樹里の手を払って自分で手際よく傷の手当をしていただろう。
だが八方塞がりでギリギリまで追い詰められている今の薫の精神状態ではいつもの強がりは出せなかった。
樹里に「座って」と言われ、おとなしく作業台の椅子に腰を下ろす。そして左の拳を開いて樹里に手当てをすべて任せた。
「薫はバカだ」
拳の血を拭い、消毒をしながら樹里は言う。
しかしいつもならうるせぇよと怒鳴り返す薫が無言なことに更にショックを受けた樹里は、「本当にバカだよ」と同じ台詞を繰り返す。
「マスター・ファンデの君にとってこの手はとても大切なものなのに……。いくらあの児童保護局の人間に頭に来たからといって、ブラのケースを叩き壊して自分の手を傷つけるなんてバカだよ。薫は大バカだ」
「何度もバカ呼ばわりすんじゃねぇよ」
「利き手ではない方で殴っているけど、それは分かっていてやったの……?」
「いや、たまたま左側に台があっただけだ。右にあったらたぶん右の拳で殴ってた」
「バカ……。右手をケガしたら針が持てなくなるじゃないか。いくら可乃子のことだからって、後先のことを考えなさ過ぎるよ……」
樹里の瞳はわずかな涙で潤んでいる。
今にも泣き出しそうな顔で包帯を巻き始めた樹里は、一瞬間を置いた後で思い切ったように尋ねた。
「……薫、やはりお店の状態はかなり悪いの……?」
「そんなことはねぇよ」
薫はすぐに否定する。
ここも嘘をつかなければいけない場面だ。
先ほど児童保護局の人間には言葉が詰まってしまったが、今回はうまくいった。
「確かに店には客があまり来てねぇが、ネットの方は今も注文がある。それにおふくろのツテで仕事も回してもらってるからお前が心配するようなことじゃ…痛ッ!」
指骨の部分をおかしな巻き方で締め付けられた薫は、渋面を作る。
「お前なぁ、手当てすんならもうちょい優しくやれよ。ったく何やらせてもド下手くそだな」
「ご、ごめんなさい……」
自分の要領の悪さに落ち込む樹里の頭に、薫がケガをしていない方の手を励ますようにポンと乗せる。
「ま、お前が無器用なのは今に始まったことじゃねぇしな。もう昼か。メシにすっか。行くぞ」
「薫、念のために病院で診てもらったほうがいい。骨にヒビでも入っていたら大変だから」
「これぐらいなんてことねーよ。おら、ちゃんと動くだろ?」
薫は怪我をした拳を一度握って見せる。
その瞬間、拳の中央に嫌な痛みが走った。しかしそれを表面には一切出さず、薫は店の奥へと消えていく。
その後ろ姿を心配げな見送った樹里は、まだ作業台の上に残っている無残に割れたアクリルケースと、その底に溜まっている血だまりを恐々と見た。
そして作業台に飛び散っている血飛沫を脅えながらも綺麗に拭き、アクリルケースの処分を終えると、両の目尻を手の甲で拭ってこぼれそうになっている涙を止め、薫を追って急いで家の中へと入っていった。