42. なんで女ってヤツはこうもすぐに感傷的になりやがるんだ
── 10月12日午前。
廻堂家へのお土産を手に、双子の赤ん坊を預けた老婆が約束の時間よりも早くボアンジュにやってきた。
「あんた達、慶太と祥太を見てくれて本当にありがとさん。これお土産だよ」
老婆は土産が入った袋を作業台の上に置くと、薫が抱いていた祥太を受け取り、双子用のベビーカーに乗せる。そして次に慶太を抱いている樹里の側へと行った。
「さぁ、おいで慶太。ママの所に行くよ」
すると樹里は固い表情でわずかに後ずさり、慶太をぎゅっと強く抱きしめる。
「も、もう連れて行ってしまうんですか!? 迎えに来るのはお昼過ぎって……」
「これ以上あんたらに迷惑はかけられんからあたしだけ一足早く帰ってきたんだよ。それに娘も一日早く退院できることになったみたいでね。もうすぐ婿さんがここに来るから私らで娘を病院に迎えに行くんだよ」
「そうですか……」
樹里の声が沈んでいることに薫は気がついたが、わざと「須藤の婆さんに早くそいつを渡してやれ」と抱いている慶太を老婆に渡すよう急かす。
樹里はためらいながらも慶太を手渡した。
ご機嫌だった慶太は一瞬泣きかけたが、老婆に抱かれるとまたすぐにおとなしくなる。
老婆は手際よく慶太もベビーカーに乗せると「ありがとさんね」と再度お礼を言って店を出て行きかけた。その曲がり気味の小さな背に向かって樹里が叫ぶ。
「須藤さん! またその子たちに会わせてもらえませんか!?」
その願いを耳にした老婆は足を止めて樹里に顔を向けると、申し訳なさそうな顔で目を細めた。
「この子らの親はここの住人じゃないんだよ。かなり遠い区画で暮らしているからねぇ……。もしうちの娘がこの子らを連れて里帰りする時があればここに顔を出すようにさせるよ。でもあんたがそこまでうちの孫たちを可愛がってくれてあたしも嬉しいよ。お礼に今度美味しい煮っ転がしを持ってきてやるからね。楽しみにしておいで」
老婆のその返答に、この双子と再び会う機会はおそらく無いということを察した樹里は、落胆した表情で紙袋を差し出す。
「……これ、使い切れなくて余った粉ミルクや哺乳瓶です。こちらもお返しします」
「あぁそうだそうだ。これを忘れていくところだった。ありがとさん」
「いえ……」
樹里の様子をずっと見ていた薫は作業台の椅子から立ち上がった。
そして樹里の二の腕をぐいと掴み、「来い」と言うとベビーカーの前に連れて行く。そして先に自分がそこにしゃがむと別れの挨拶代わりに慶太と祥太の頭に順に手を置いた。
「須藤の婆さん。確かにあんたの言うとおり、そんなに手のかからないガキたちだったぜ」
「そうだろ? 普通は双子だと大変らしいんだけどねぇ。夜泣きはしなかったかい?」
「あぁ。夜中に泣いても腹が減っただけだからミルク飲ませりゃどっちもすぐ寝たよ」
薫は立ち上がると慶太と祥太の前のスペースを開け、「おら」と言うとその場所を樹里に譲る。
樹里は静かにその場所にしゃがむと、双子のすべすべした柔らかい頬を代わる代わる愛おしそうに撫でた。
「そろそろ婿さんが来る頃だから行くよ」
「おう。気をつけて帰れよ婆さん」
「ハイハイ、ホントにありがとさんね」
薫と樹里は店の外に出て、双子の孫を連れて自分の家へと帰ってゆく老婆を見送った。
ベビーカーの車輪がカラカラと軽快に鳴り続ける音が、段々と小さくなる。
やがて歩道を曲がったベビーカーが見えなくなってしまうと、樹里は顔を伏せ、踵を返して家の中へと駆け込むように入っていった。
しかし薫はその様子を横目で追っただけで樹里を引きとめようとはしなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日の夜。
薫は布団の中でまた店の今後の経営について考えを巡らせていた。
すると背後で誰かがそっと布団から出た気配がする。寝たふりをしていると、その人物は足音を殺してそっと部屋を出て行った。
布団から起き上がり、今部屋を出て行ったのが可乃子なのか樹里なのかを確認する。
空になっていた布団は一番左端の位置にある布団だった。
再び横になりしばらくそのままの体勢でいたが、いつまで経っても樹里が戻ってくる気配がない。
昼間のこともあったため、樹里のことが気になった薫は自分も布団から出るとその後を追う。
廊下から薄暗い居間の中を覗くと、窓のカーテンを開けてぼんやりと外を眺めている樹里の後ろ姿がそこにあった。
「……何やってんだお前」
いきなり声をかけられた樹里は「きゃっ!?」と小さく叫ぶとビクリと身体を震わせる。そして現れたのが薫だったのを知り、ホッとした表情を見せた。
「……なんだか眠れなくて」
「あいつらのせいで毎晩夜中に起こされてたからな。ったくいい迷惑だったぜ」
“ いい迷惑 ” という薫の言葉に、樹里が言いにくそうに切り出した。
「あの子たちがいなくなって薫は寂しくないの……?」
「寂しい? アホか」
睡眠不足で若干充血気味の目を瞬かせ、薫は居間の中に入るとソファにドカッと座る。
「一昨日も言ったじゃねぇか、俺らはあいつらの親じゃねぇんだぞ?」
「それは分かってるよ。でも私はさみしい。すごく。あの子たちと離れるのがこんなに辛いなんて思わなかった」
薫は苛立ちをこめた鋭い目つきで樹里を見る。
「感傷的になってんじゃねーよ。んなモンは一時の感情だっつーの」
「そうなのかな……」
「そうだっつーの。それにたった数日面倒見ただけでガキのことを分かったようなこと言ってんじゃねーよ。ガキを育てていくっつーのはすげー大変なことなんだ。飽きたから止めた、とか金が無いから育てられん、なんて言えないんだぞ?」
── 至極当然な一般論を言ったつもりだった。
だが、“ 金が無いから育てられない ” というその最後の部分が、自分自身へとそのまま跳ね返ってきた言葉のような気がし、店の経営のことで頭を悩ませている薫の顔を歪ませる。
しかし薫がしかめっ面になった本当の理由が分からない樹里は、育児に対する自分の覚悟を強く述べた。
「飽きたりなんかしない。それにお金が無いなら私だって働くよ」
「…………」
「薫、ちょうどいい。可乃子のいない時に聞こうと思っていたんだけど、最近のお店の状態はどうなの? ここのところ薫は会計ソフトを触らせてくれないからお店の収支が分からなくて心配なんだ」
一番聞かれたくない事に触れられた薫は樹里から視線を逸らす。
「お前が心配することじゃねーよ」
「でも私だってこの家に住まわせてもらっているんだし、それに、わっ私だって、薫や可乃子の家族のつもり、でいるから……」
薫は再び黙る。
樹里が今の言葉を肯定してほしがっているのは空気で分かる。
だが薫はそれを分かっていながら敢えて認めてはやらなかった。
今ここで樹里を家族だとを認めてしまえば、樹里の肩にも自分の背負っているこの責任の一部を負わせてしまうことになる。それはしたくなかったからだ。
「だ、だからもしお店の状態が苦しいなら私もすぐに働きに出るよ」
薫が自分を家族だと肯定してくれなかったので樹里は悲しそうな表情でわずかに目を伏せ、か細い声で再度働く意志を告げる。
この話題を早く終わらせたい薫は嘲笑を浮かべ、
「ヘッ、また例の女優になるってか? あれは駄目だって言ってんだろうが」
と馬鹿にしたような口調で言った。
AV女優になるのを決して許さない頑なな薫の態度に、樹里は納得がいかない様子で尋ね返す。
「どうして薫は私が女優になるのをそんなに反対するのだろう……?」
「うっせーな。俺が駄目だっつったら駄目なんだよ。居候なら家主の言う事に黙って従ってろや」
「薫がそんなに女優を毛嫌いするのなら女優でなくてもいいよ。この近所で何かアルバイトがないか探すから」
「余計なことすんな。お前は黙って家の中にいりゃあいいんだよ」
そう言い捨ててソファから立ち上がった薫の足先に何かが当たった。
身をかがめてそれを拾うと、それを見た樹里が、「あの子たちに渡すのを忘れてしまったね。明日私が須藤さんに渡してくるよ」と手を差し出す。
しかし薫は「必要ねぇよ」と言うと自分が買ってきた犬の指人形を乱暴に投げ捨てた。
大きく垂れた茶色い耳と目が特徴的な愛嬌のある指人形は、居間の隅に置かれたクズカゴという名の闇の中に笑いながらその身を投じていく。
「あいつらだってもうとっくにこの区画にはいねえんだ。こんなもんを須藤のババァのとこにわざわざ渡しに行ってどうするってんだよ」
「……だからって何も捨てなくても……」
樹里が悲しそうに薫の取った行動を非難する。しかし薫はまったく反省する素振りをみせず、
「お前もいつまでも下らねぇ感傷に浸ってねぇで早く寝ろや」
とだけ告げると傷心の樹里をその場に残し、先に可乃子の部屋へと戻っていった。