41. 今度は男が増えるのか 【 後編 】
その日の夜。
夕食後の廻堂家の空気は今までにないぐらいの華やかさとなっている。
いきなり預かる事になった二人の赤ん坊たちが可愛くてしかたのない可乃子のテンションがとどまる事をしらないせいだ。
「慶太く~ん! こっち見て~! あ~見た見たぁ! カワイイ~!!」
樹里が抱いている赤ん坊を覗き込んで可乃子は大喜びだ。
「ね、樹里ちゃん、可乃子にも抱かせて!」
「うん。落とさないように気をつけて」
「大丈夫! 可乃子、赤ちゃんのお世話したことあるから! ……よいしょっと」
可乃子は樹里よりも手馴れた手つきで抱いたが、なぜか赤ん坊は身体を震わせてすぐに泣き出し始める。
「あれ、さっきミルクあげたばかりだし、オムツも今代えたばかりだよね。どうしたのかな?」
「可乃子、私にもう一度抱かせてくれるかな?」
「うん」
樹里が抱き直すと泣き声は瞬く間に止まった。
「あ、泣き止んだ! 慶太くんはもしかして樹里ちゃんがお母さんだと思ってるのかもしれないね」
「今日はずっとこの子を抱いていたからかも。祥太くんは午後もいい子で眠っていることが多かったんだけど、この子は下に寝かすとすぐに泣き出してしまうから私がずっと抱っこしていたんだよ」
「あははっ、慶太くんは甘えんぼくんタイプだね、きっと!」
と可乃子が笑う。そして急に声をひそめて樹里にそっと耳打ちをした。
「樹里ちゃん、ホラあっち見てみてっ。面白いよっ」
可乃子が居間のソファの方角をこっそり指さしている。
そこにはもう一人の赤ん坊を抱いた薫が座っている姿が見えた。
薫は犬の形をしたビニール素材の指人形を人差し指にはめ、赤ん坊の前でゆっくりと左右に動かしている。
犬の指人形が横に移動を始める度に赤ん坊はそれを一生懸命その小さな目で追っていた。
出来立てのビー玉のようにキラキラと奥まで透き通った幼い瞳が、右に左にと忙しく動いているその様子を薫は面白そうに眺めている。
「ふふっ、お兄ちゃん、オモチャで祥太くんをあやしてるね!」
「あの指人形、お菓子の付録でついている物みたいなんだ。さっき薫がすぐ側のお店で買ってきてたよ」
「えっ、あれお兄ちゃんが買ってきたの!? へぇ~、うちのお兄ちゃんってああ見えて意外と子ども好きなのかもしれないねっ」
「うん。薫はきっといいお父さんになりそうな気がする」
樹里はそう言うと、自分が抱いている赤ん坊に優しい眼差しを注いだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
いつもは可乃子を真ん中に、三人で川の字になって眠るのが今までのスタイルだったが、今日の配置には若干の変更がある。
赤ん坊を預かっている間だけは樹里を真ん中にして薫と樹里の間に双子を寝かせる形となった。夜中に授乳などを行うことを想定しての暫定的な配置である。
「薫」
「あ?」
橙色のほの暗い室内の中、樹里が自分の隣で眠っている慶太の薄い髪をそっと撫で、「この子たち、本当に可愛いよね」と小声で話しかけた。
それを聞いた薫はわずかだが眉間に皺を寄せ、枕の上に片肘をついて顔の位置を上げる。
「ったく呑気だなお前は。俺らはこいつらの親じゃねぇんだぞ? 預かっちまった以上は責任ってもんがあるんだからな。忘れんなよ?」
うん、と樹里が頷く。
「薫、赤ちゃんていい匂いがするね。すごく優しい気持ちになれるよ」
「あ? どこがだよ? 単に乳臭ぇだけじゃんか」
そんな悪態をつき、薫は自分と樹里の間で並んで眠っている双子を見下ろすと、仏頂面でため息をついた。
「あーあ、今日は寝れる気がしねぇよ。爆睡したらうっかりこいつら押し潰しちまいそうだ」
樹里はくすくすと笑うと大きく手を伸ばして今度は祥太の頭をそっと撫でた。そして伏し目がちに薫を呼ぶ。
「……あのね薫」
「あ?」
「赤ちゃん、ほしい」
その仰天発言に薫は思わずブハッと吹きだした。
「なっ何言い出してんだお前は!?」
「だってこの子たちを見ていたら私も自分の赤ちゃんが欲しくなってしまったんだもの。あ、もちろん薫との赤ちゃんだよ?」
「ババッ、バカヤロウ! お前、分かってんのか!? ガキがほしいってことはお前がホラーだと認識しているあのグロテスクなことをしなくちゃ出来ないんだぞ!?」
「うん、赤ちゃんがほしいから出来るよ。頑張る」
「が、頑張るってお前な……」
「あれを一回すれば赤ちゃんが出来るんでしょ?」
「アホか!! どこまで世間知らずなんだお前は!!」
時刻は深夜だというのにまた樹里の世間知らずモードがここで再発動しそうな雰囲気に、薫は思わず声を荒げた。
「じゃあ何回我慢すればいいのかな?」
「ドアホ! だからガキが出来んのは回数で決まるもんじゃねーんだよ! すぐに出来る時もあれば出来ねぇ時だってあるんだっつーの!」
「ではグロテスクの回数を増やせば赤ちゃんが出来る確率が上がるということでいいのかな?」
「そっ、そりゃあ単純に考えればそうだろうけどよ……。つーかなんでこんな訳分かんねぇ話になってんだよ!?」
「じゃあ薫と結婚したらあの行為もたくさん頑張るよ。だからその時は薫もいっぱい協力してほしい」
「協力、だと……!?」
思ってもみない方向からの夜の誘いについに赤面し出した薫は、それを気付かれないよう慌てて樹里から視線を逸らした。
「バッ、バカだろお前!?」
「だから私は世間知らずだがバカではないと前にも言ったと思うが?」
「うっせーな! 口答えすんなって言ってんだろ!? もう寝るぞ! どうせ夜中にこいつらに起こされると思うからよ!」
頭を乗せていた肘を外し、薫は布団に入り直す。
樹里は双子や薫のいる右側に身体を向け、
「こうしてすぐ目の前に薫がいる状態で眠るなんて初めてだね」
と嬉しそうに言う。
「すごく幸せだよ、薫」
「ぐっ……」
薫の赤面もまさに今が最高潮だ。
いつものように樹里に背中を向けて寝たいところではあるが、双子がいるのでそちらの方を向いていなければならない。
「おやすみ薫」
慶太の身体に手を添え、樹里が目を閉じる。
室内がようやく静かになった。
赤面した顔の色も落ち着いた頃、薫は慶太と祥太の額に一度手を置いて発熱などしていないかを確認する。それから目を閉じた樹里や、その向こう側でぐっすりと眠っている可乃子に順に視線を移した。
── 今のこの光景だけなら、平凡ではあるが穏やかで心休まる一時だろう。
だが今は他人を助けている場合ではなかった。そんな余裕などは今の薫にはないのだ。
余計な心配をさせたくないので樹里や可乃子には一切話していなかったが、店をオープンして一ヶ月が経っても来客状況が明るくなる兆しは一向に見えてこない。
近所の老婆たちによるご祝儀ブラジャーのおかげで開店月の収支はなんとか見られるレベルのものではあったが、このまま新規の客を取り込むことが出来なければ、やがては手詰まりになってしまうのは頭の悪い薫にも予測ができていた。
舌打ちをしたいのを堪え、薫は老朽化が目立つようになってきた部屋の天井を見上げる。
この窮状を打開するために早急に何か策を弄しなければならない。
足りない脳味噌で薫は必死に考える。
自分が可乃子を育てていくと決めた以上、どんなことでもする覚悟はあった。
だが何をすればいいのか。
どうすれば客をこの店に呼び込むことができるのか。
考えすぎて眠れなかった。
可乃子の机の上に置かれている電子時計のかすかな振動音だけが薄暗い室内を走る。
奇策を思いつけない今の薫にとって、決してブレることのないその無機的な音が、父が遺してくれたこの店が潰れるまでの死のカウントダウンのように聞こえてならなかった。