40. 今度は男が増えるのか 【 前編 】
── 10月10日。
ボアンジュがオープンして一ヶ月が経過した。
近隣の老婆たちのシニアブラの依頼もすべて終わったこの日、またしても薫に一つのトラブルが舞い込むこととなった。
薫にブラジャーの製作を依頼した老婆の一人が皺だらけの両手を合わせて何度も薫を拝んでいる。
「本当に申し訳ないとは思ってるよ薫! でもオバちゃんもどーしても無理なんよ! ここはこのオバちゃんを可哀想だと思って引き受けておくれ!」
「ダメだダメだ!! んな頼み事を引き受けられっかよ!!」
薫は老婆の依頼を必死で断るが、相手もなかなか諦めない。濁った水底に潜むスッポン並みの食いつきと渋とさで更に薫に食い下がる。
「でも薫、オバちゃんの身体は一つしかないんよ? 今日から明後日まででいいから頼むよ。週末になればその子らの母親も退院してくるからさ。じゃ頼んだよ!」
「まっ、待てっつーの!! 帰るならこいつらを持って行きやがれ!! 俺は面倒なんか見られねーぞ!?」
老婆に押し付けられていた二人の赤ん坊を抱え、薫は叫ぶ。
生後半年になるという双子の赤子はニコニコと笑いながら薫の両腕の中でそれぞれの親指をちゅぱちゅぱとご機嫌にしゃぶっている最中だ。
「そこを何とかさ。明後日まで頼むよ薫」
「なんで他のババァ共に頼まねぇんだよ!?」
「だから言ったろ? この区画で行くお達者倶楽部の旅行なんだよ。あんたもあたしらのこの倶楽部のことは知ってるだろ? 年に一回しか無い旅行だからあたしも絶対に行きたいしさ、預ける先が見つからなくて困ったからこそこうしてあんたに頼んでるんじゃないか。赤ん坊の面倒の見方は覚えてるだろ?」
「俺には店があるんだぞ!? こんなガキの面倒なんか見られるわけねぇだろうが!!」
「あんたには嫁さんがいるじゃないか。嫁さんに頼んでおくれよ」
「よっ、嫁なんていねえっつーの!!」
その言い合いの最中に店の奥から、「薫、さっきから大声を上げてどうしたの?」と樹里が顔を覗かせる。まさにこれ以上ないくらいの最悪のタイミングで樹里が出てきてしまったので薫は顔を歪めて舌打ちをした。
「お前なんで出てくんだよ!? 店に出てくんじゃねぇっていってんだろ!?」
「あぁ薫の嫁さん、いい所に出てきてくれたよ。薫じゃ話しにならないからねぇ」
薫に見切りをつけた老婆がひょこひょこと樹里の側に行く。樹里は店の中にいたその老婆を見てニッコリと笑った。
「おはようございます、須藤さん。どうなさったんですか?」
挨拶をされた須藤と言う老婆もおはようさん、と返事をする。そしてもう一度同じ説明を樹里にし始めた。
「いや実はね、あたしの一人娘が先週盲腸になって入院しちまってさ。今日まではあたしがこの子らの面倒をみてたんだがあたしゃこれから旅行に行かなきゃならないし、明後日までこの子らの面倒を見る人間がいないんだよ。婿さんに仕事を休んで代わってもらうことになっとったんだが、急に出張先から帰って来られなくなっちまったみたいでね。うちの耄碌爺さんじゃ ろくに面倒見られないしさ、困ってるんだよ」
「そうだったんですか。それはお困りですよね」
その説明で状況が飲み込めた樹里は、薫が仏頂面で双子の赤ん坊を抱えているのを見てクスッと笑いを噛み殺す。
「とても似合ってるよ薫」
「う、うるせぇ!! おいっ、お前からも須藤のババァに出来ねぇって言えよ!! お前にこいつらの面倒を押し付けようとしてんだぞ!?」
樹里は老婆に視線を向ける。
「明後日まででいいんですよね?」
「あぁ。週末になれば娘も退院するし、あたしも明後日の昼には帰ってくるから、すぐに引き取りに来るよ」
「お、おい! お前まさか引き受けるつもりじゃねぇだろうな!?」
薫の焦った声を背に、樹里はニッコリと微笑む。
「須藤さん、この子たちのお世話、させていただきます」
「本当かい!? いやぁありがたいねぇ~! 薫にはもったいないくらいのよく出来た嫁さんだよ!」
「だ、だからこいつは俺の嫁じゃねぇ!!」
「本当に助かるよ、ありがとさんね」
「いえ、困った時はお互いさまですから」
怒鳴る薫を完全に無視して女同士の会話は進んでゆく。
「ところであんたらいつ籍を入れるんね?」
「いえ、まだ具体的には……。お店の方がもう少し落ち着いたら、と考えてます」
「あーそれはいけんね。いいかいよくお聞き。男って奴は面倒な事を先延ばしにしたがるところがあるからね。ああやって薫みたいに結婚を渋るような男には一気に勝負をかけないとのらりくらりとかわされて、その内逃げられちまうよ。気をつけんさい」
老婆の親切心から出た樹里へのそのアドバイスも、薫にしてみれば藪をつついて蛇を出しかねないような、まさにお節介の極みとも言うべき助言だ。
「おい須藤のババァ!! てめぇも何訳分かんねぇこと言ってんだよ!!」
「ちょいと薫、あんたこの娘の身体をいいだけ弄んで捨てたりしたらオバちゃんが許さんよ!?」
「だっ、誰が弄んでんだっつーの!! おい! お前もなんか言えよ!!」
「う、うん。分かった」
樹里は頷くと、両の頬をほんのりとピンク色に染めて老婆の誤解を解き始める。
「須藤さん、私は薫に弄ばれていません。だって薫は私にグロテスクな事をする時は籍を入れてからにすると固く誓ってくれましたから……」
それを聞いた老婆の頭のてっぺんに、目には見えない ?マークが浮かんだようだ。
「薫、“ ぐろてすくな事 ” って何ね?」
「なっなんでもねーよ!! おい! お前もう喋るんじゃねぇ!!」
あまりにも自分勝手な薫の命令にさすがの樹里も少々ムッとしたようだ。
「……何か言えと言ったり黙れと言ったり、一体どちらなのだろう?」
「だからもう喋んなっつってんだ!!」
「あぁいけん。そろそろ出かける支度をしないと。じゃあ薫の嫁さん、慶太と祥太のことを頼んだよ。オムツやミルクとかの必要な物はそこの紙袋に用意してきたからね。ミルクの作り方とか分からなければ薫が分かっとるはずだよ。その子らはあまり夜泣きもせんし、双子の割りにそれほど手がかかんらんと思うからね」
「分かりました。お気をつけてご旅行に行ってらしてください」
「ありがとさん。じゃあ頼んだよ。そろそろミルクの時間だから泣いたらやっとくれね」
老人旅行の出発の時間が迫っている老婆は慌しく店を出て行った。
双子の赤ん坊を抱えた薫は苦々しい表情で樹里に顔を向ける。
「……おい」
「何かな?」
「言っとくが俺は一切このガキ共の面倒は見ないからな?」
「分かっているよ。薫には仕事があるからね。私がちゃんとこの子たちの面倒を見るから大丈夫だよ」
「お前赤ん坊の面倒なんかみたことあんのかよ?」
「ないけど?」
「……予想はしていたがあっさり答えやがったな」
薫は眉間に深い縦じわを寄せ、樹里を睨む。
「お前、面倒も見たことがないのに気安く預かっちまって本当に大丈夫かよ!? こいつらは急に熱を出したり吐いたりする生き物だぞ?」
「常に目を離さないで一所懸命お世話をするよ。それに須藤さんにはボアンジュの開店時にブラのご注文もいただいたし、うちに食材のおすそ分けもよく下さるし……。だから私は須藤さんに少しでもご恩をお返ししたい」
「…………」
双子の世話を引き受けた理由を聞いた薫は言いかけていた言葉を飲み込み、抱えていた双子に視線を落とす。
「ったく世話の仕方も知らねぇくせに安請け合いしやがって……。とりあえずこいつら奥に連れて行けよ。仕事の邪魔だ」
「分かった。じゃあその子たちを貸してほしい」
薫の腕からまず一人目を抱き上げようとした樹里に鋭い叱責が飛ぶ。
「ちょ、おま待て! そんな危なっかしい抱き方をする奴があるかよ! 落っことしちまったらどうすんだ!」
「ど、どういう風に抱けばいいのかな」
薫は祥太を作業台に寝かせ、慶太を抱えて手本を見せる。
「首の後ろに手をやって支えてやれ。で、こっちの腕は足の間に入れて抱えるように持てよ」
慶太を渡すと樹里が言われた通りの抱き方で、「こ、こうだろうか?」と尋ねる。
「おう。できるだけ体に密着させろ。その方が安定する」
「うん。先にこの子を居間に置いてくるから待っててほしい」
「いい、こっちのガキは俺が運ぶ」
作業台に寝かせていた祥太を抱え、薫が先に居間へと向かう。その後に続いた樹里は素直な疑問を口にした。
「薫はどうしてそんなに赤ん坊を抱くのが手馴れているのだろう?」
「可乃子がいたしな」
樹里がきちんと赤ん坊を抱えているかを確認するため、廊下を歩きながら薫がチラリと後ろを振り返る。
「それに昔はこの辺りは結構ガキが多かったんだ。だから家の都合でお互いのガキを預けたり預かったりっつーのはしょっちゅうだった。俺や可乃子もおふくろの仕事が忙しいは近所の家によく預けられて、そこには可乃子と似たような年の赤ん坊がいてよ、そいつの面倒もよく見させられてたんだよ」
「それでそんなに手馴れているんだね。まるでその子の本当のお父さんみたいだよ」
からかうんじゃねーよ、と薫が口を尖らせる。
「とりあえず居間に布団敷いてこいつら寝せておけ。寝返りでも打って落ちたら危ねぇからソファには寝かすなよ?」
「うん、分かった」
「たぶんそのうち腹が減って泣き出すと思うからよ、泣いたら俺を呼びに来い」
「え、でも薫は仕事が……」
「しゃあねぇだろ。お前ガキの面倒見たことねぇんならこいつらが泣いても何していいのか分かんねぇだろうが。今日は俺がこいつらの面倒の見方をお前に教えてやっから、明日からお前がやれ」
相変わらずの自分の無力さに樹里の表情が曇った。
「ごめんなさい……。私はまた薫に迷惑をかけてしまっている……」
「いい。もう慣れてきたぜ」
居間の扉をダンと片足で蹴るように開け、赤ん坊を抱きかかえた薫はあっさりと答えた。
「お前、前にうちに来たばかりの頃よ、俺ん家に来て知らなかったことにたくさんめぐり合えたとか言って喜んでやがったろ」
「う、うん。それが?」
「あの時のお前の言っていた意味が今ならよく分かるぜ。可乃子がお前を拾ってきてから俺も初めて分かったことがあるからな」
双子の片方を抱え、薫が何かを含んだような言い方で樹里を上からじっと見つめる。
薫にしては珍しく真面目でかなり真剣な顔だ。まるでこれから愛の告白でもされそうな雰囲気に、樹里は一人勝手に頬を染める。
「な、なにが分かったのかな……?」
「あぁ!? 決まってんだろうが!!」
薫は急にいつものガラの悪い目つきに戻ると、
「お前みたいなとんでもねぇ常識外れの世間知らずがこの世に存在してたって事だよ!!」
と乱暴な口調で吐き捨てた。
頭の中で予想していた甘い展開とのあまりの大きな落差に、「そ、その言い方はさすがに失礼すぎないだろうか?」と樹里が弱々しく反論した。
「全然失礼じゃねーよ! お前よ、いくら良いトコのお嬢様だからって世間を知らなさすぎだろうが! 俺より年上のくせにありえねーよ!」
「だ、だからそれはこれからも薫が私に色々と教えてくれればいいことだと思う……」
「俺はお前の執事じゃねぇんだぞ!? なんでお前の非常識さをいちいち俺が直していかなきゃなんねーんだよ!?」
「だって妻が非常識だと薫だって恥をかくんだよ?」
「だっ、だから女房面すんのは止めろっつってんだろうが!」
薫の怒鳴り声のせいなのか、樹里の抱いている方の赤ん坊が泣き出した。
「あ、こっちの子が泣き出してしまったな。薫、こういう時はまずどうしたらいいのだろう?」
「……たぶん腹減ってんだろ。おい、須藤のババァが持ってきてた荷物をこっちに持って来い。哺乳瓶とか入ってるはずだ」
「分かった」
「取りに行くならそのガキこっちに寄越せ」
薫は居間のソファに座ると泣いていない方の赤ん坊を自分のすぐ脇に寝かせ、樹里から泣き叫んでいる方を赤ん坊を受け取る。
下腹部をチェックしてそちらの問題で泣いているのではないことを確認した後、「早く取って来い」と樹里を急かした。
「うん」
樹里が荷物を取りに居間を出て行くと思わずハァ、とため息が漏れる。
今は店にほとんど客が来ない件で色々と考えなければいけない事があり、こんなことをしている場合ではないのだが、預かってしまった以上は仕方がない。
薫は泣いている赤ん坊を抱き直すとなだめるようにその小さな背中をポンポンと軽く叩いてやり、「泣きたいのはこっちだっつーの」と仏頂面で愚痴をこぼしたのだった。