4. 妹よ お前は何を拾ってきたんだ
再び勉強机に戻り、試験対策に必死になっていた薫は、窓から差し込む光の弱さでようやく外の暗さに気付いた。右手首に巻かれた腕時計に目を落とすと、時刻はもうすぐ午後六時になろうとしている。
「おい可乃子! 帰ってるのか?」
居間に向かって叫んだが、返事は戻ってこない。
そもそも帰宅時は必ずただいまの挨拶をする几帳面な可乃子が挨拶なしで家にいるとは思えなかった。
居間や可乃子の部屋を覗いたがやはり妹の姿は見当たらない。何も連絡がなく、こんな時間まで帰って来ない事は今まで一度も無かった。嫌な予感が薫の体内を駆け巡る。
玄関先へと走り、スニーカーに片脚を突っ込んだ時、キィィと音がして玄関の扉が恐る恐る、といった様子で細く開かれる。その細い隙間に可乃子の顔が見えたので薫の硬い表情が安堵で一気に緩んだ。
「可乃子! お前こんな時間まで何やってたんだ!? なんかあったのかと思って心配したじゃねーか!」
「ご、ごめんねお兄ちゃん……」
可乃子は妙におどおどとした様子で扉の外から謝る。
「何やってんだ? 早く入れよ」
「う、うん……」
しかし扉を細く開けたきり、可乃子はなかなか家の中に入ってこない。
家の外でもじもじとしている妹の様子で薫はその原因を瞬時に察した。
「……おい可乃子。先に言っとくが飼わねーからな?」
「エ、買わないってどういう意味? 可乃子、別に欲しいものないよ?」
「すっとぼけてんじゃねーよ! お前、犬か猫を拾ってきたんだろ? うちは女の下着を扱う店だ! 犬や猫みてーな獣は飼えねぇことぐらいお前だって分かってるはずだぞ!?」
「犬や猫じゃないよ! それに飼ってほしいんじゃないもん! 泊めてあげてほしいだけだもん!」
「そりゃ単に言葉を言い換えてるだけじゃねーか!」
「お願いお兄ちゃん! ジュリちゃんが可哀想だよ!」
「おま、もう名前までつけてんのかよ!? ダメだ!! 拾ったとこに返して来い! ったく犬や猫じゃねーなら何の動物を拾ってきたんだよ!? オラッ、見せてみろ!!」
苛立った薫は玄関の扉を大きく開け放った。そして妹が拾ってきたその動物を見てあんぐりと口を開ける。
「随分と短気な兄なのだな君は」
目の前の動物が冷めた目で自分を見ている。
人語を操るその動物は、腰近くまであるストレートの髪を揺らし、無表情でそう言った。
「お、んな……!?」
可乃子が拾ってきたのが人間、しかも若い女だと知った薫は、そう一言発するとこの拾得物をまじまじと見つめた。
艶やかな鳶色の髪に、切れ長の透き通った茶色の瞳が、自分の刺すような視線を怯むことなく正面から受け止めている。
長い睫が瞬く回数が極端に少ないのは、この女も薫を凝視しているせいだ。
女の割に背が高く、シルクのブラウスが形作る膨らみで、なかなかに豊かな胸ラインの保持者だということが分かる。しかも白のフレアースカートから伸びる足は美脚だ。
十人の男たちを集め、「この女は可愛いと思うか?」と尋ねれば、恐らく全員が、「いや」と即座に否定するだろう。だがすぐその後に、「可愛いというよりは美人だ」と付け加えるような容貌の女だった。
「お願いお兄ちゃん! 樹里ちゃんね、お家を家出してきて今晩泊まるところがないんだって! だからせめて今晩だけでも泊めてあげようよ!」
「家出だと!?」
穏やかではないその理由に薫は樹里という女を凝視する。すると樹里は済ました顔で言い返した。
「違う。家出ではない。住む場所に見切りをつけて勝手に出てきただけだ」
「バッバカかお前!? それを家出っつーんだよ!! 帰れ!! すぐに帰れ!!」
「あいにく先立つ物がなくてな」
「テメェ文無しで出てきたのかよ!?」
「お願いお兄ちゃん! 今日はもう遅いし、今日一晩泊めてあげよ!? 樹里ちゃんを一人にしたら悪い人に連れてかれちゃうよ! さっきも駅前で変なおじさんに色々言われてて、可乃子、危ないと思って無理やり樹里ちゃんを連れてきたの!」
「可乃子、あの男はおかしな男ではないぞ?」
たしなめるように樹里が語る。
「行く当てがなくて駅前のベンチに座っていたら、何か困っているのかと盛んに話しかけてきてな。一人で生きていきたいので金銭を稼ぎたいと言ったら、とても高時給なアルバイトがあると教えてくれた。親切な男だった」
「高時給のアルバイトだと?」
思わず口を挟んだ薫に樹里は顔を向ける。
「あぁ、そうだ。なんでも “ エーブイ ” というバイト名で、それに出るだけでかなりの出演料になるらしい」
「バッバカかお前!? 要はアダルト女優になれってことじゃねーか!!」
「ほう、やはりエーブイとは女優業のことなのだな……。あの男もそう言っていたぞ。しかしこの私に目をつけるとはなかなかいい目利きを持っている男だったようだ」
自分の美貌をその道のプロに認められたと思いこんだ樹里は満足げに頷いている。そんな樹里に少し気の毒そうな視線を送った後、可乃子はもう一度薫に頼み込んだ。
「ね、よく分かったでしょお兄ちゃん! 樹里ちゃんを保護してあげないと大変なことになっちゃうよ! だから今日はうちに泊めるからね!」
「待て! だからってそんなどこの誰とも分からん奴を家の中に入れるなんてだな…」
「さぁ樹里ちゃん、狭いウチだけど入って!!」
「あぁ、では失礼する」
「お、おいっ待てコラ! テメェも自然に入ってくんじゃねーよ!」
「はいお兄ちゃんどいてどいて~! もうゴハンの時間だし支度しなくっちゃ! 昨日カレーを作っておいて良かった~! 樹里ちゃんもお皿の用意とか手伝って!」
「了解だ可乃子」
樹里は玄関先でショートブーツを脱ぐと小型のスーツケースを隅にきちんと寄せる。そして玄関脇で自分を睨みつけている薫を見上げると、口角をわずかに上げた。
「……面白い顔をしているな君は」
「なんだとっ!?」
「あぁ失礼。気分を害してしまったか。では言い換えよう。なかなか迫力のある顔立ちだな君は」
「うっ、うるせぇブス!!」
ブスと言われた樹里の細い左眉がピクリと動く。
「……ブス? まさか今のその言葉は私に言ったわけではあるまいな?」
「あぁ!? テメェ以外に誰がいんだよ! いいからさっさと自分ん家に帰れ!」
今度は右眉がかすかに動いた。
「そういえばまだ君の名を聞いていなかったな。可乃子からはツンツン頭で少々目つきの悪い、大柄な兄と二人暮らしとしか聞いていない。何という名前だ?」
「人に聞く前にテメェが名乗れ!」
「……樹里だ。樹木の樹に、お里の里と書く」
「名前はもう知ってんだよ! 名字だ名字!」
「それは住んでいた場所に置いてきた。で、君の名前は?」
「ごまかすんじゃねーよ! 家出人が転がり込んでるって通報してやるからさっさと言え!!」
「お兄ちゃんの名前は “ カオル ” だよっ!」
台所からヒョコッと可乃子が顔を出す。
そしてグリーンのエプロンを身に着けながら樹里に向かって手招きをした。
「女の子みたいな名前だってお兄ちゃんは気にしてるんだけど、可乃子はお兄ちゃんの名前大好きなんだ!! お兄ちゃん、お腹空いたでしょっ? もうちょっと待っててね! 樹里ちゃんもお手伝いお願いしまーす!」
「あぁ分かった」
樹里は台所へ向かって歩き出したが、去り際に薫の顔を再び見上げる。
「では一晩ご厄介になるよ。カオル」
「てめっ気安く呼ぶんじゃねぇ!!」
額に青筋を立ててそう怒鳴りつけるも、樹里は軽く笑みをこぼしただけでそのまま可乃子の後についてゆく。
完全に肩透かしを食らった薫はお預けを食らった犬のように二人が台所の中へ消えていくのを歯軋りをしながら見ているしかなかった。