39. お前 過剰反応し過ぎだろ
9月21日金曜日の朝。
この日、薫にはやらねばならないことがあった。
しかしこの極秘任務を遂行するには実行可能な時間帯というものがある。
店を開けていない時間帯で、且つ、可乃子が家にいない時間帯を狙わなければならない。
── ということはチャンスはまさに今。
可乃子は間もなく学校へ行く時間であり、10時の開店まで二時間弱ある。この好機を逃す手はない。
薫は台所で朝食の後片付けを始めた樹里の側にいる可乃子に声をかけ、早く学校へと追いやろうとする。
「おら可乃子、そいつといつまでも喋くってないで早く学校に行け。遅刻すんぞ」
「ウソっ!? もうそんな時間!?」
楽しそうにお喋りをしていた可乃子が慌てて振り返る。そして壁の時計で現在の時刻を確認した途端に兄に向かって怒り出した。
「ビックリさせないでよお兄ちゃん! まだ七時を過ぎたばかりじゃない!」
「あ? お前いつもこのぐらいの時間に行ってなかったか?」
と薫はしらばっくれた。
しかし樹里とのお喋りを邪魔された可乃子の膨らんだ頬はまだ元に戻っていない。
「毎日お見送りしてくれてるんだから知ってるでしょ!? こんなに早く行ってないじゃない!」
「うっせーな、口答えすんじゃねぇよ。いいからたまには早く行けって」
「バカじゃないの!? こんなに早く学校に行ったらお友達だって誰も来ていないし、先生にだって早く来過ぎたらダメだよって怒られちゃうよ!」
「可乃子! 兄貴に向かってバカとはなんだバカとは!」
「あっお兄ちゃんはバカはバカでもブラジャー・バカだったよね! アハッ、ごめんねお兄ちゃん!」
「可乃子てめぇ……!」
右の拳を握りしめ、ギリギリと歯噛みする薫を見た樹里が呆れたような顔で仲介に入る。
「本当に薫はせっかちだな。短気は損気というじゃないか。君はもう少し落ち着いて物事を考えた方がいいと思うよ」
『 いえ樹里様、残念ですが Myマスターのこの異常に気短な気質は変わらないと思います。三つ子の魂百までもと申しますし 』
すぐ側でふよふよと浮いていたサクラまでもが薫バッシングに参戦だ。
廻堂家の女性全員から一斉にダメ出しをされ、立つ瀬の無い薫は「うっせーな! お前らも横から口を挟むんじゃねぇ!!」と怒鳴ることしか出来ない。
「お兄ちゃん、なんで可乃子をこんなに早く学校に行かせたがるの?」
「べ、別にお前を厄介払いしてるわけじゃねーよ」
口を尖らせ、薫はそうごまかした。
だが思いっきり理由を言ってしまっている事に気付いていないのはこの少々頭の足りない張本人だけだ。
「ええっ、可乃子を邪魔にしてるから早く学校に行かせようとしてるの!? ひどいお兄ちゃん!」
「だから邪魔になんかしてねぇって」
「今言ったじゃないっ!」
怒りまくる可乃子の背中を後ろからそっと抱き、
「薫、どこかに出かけたくて可乃子を早く学校へ行かせようとしているのなら私が留守番をしているから出かけてきていいよ。でもお店を開ける時間までには戻ってきてね」
と樹里が微笑む。
そこへすかさずサクラが自分の要求を口にし出した。
『 Myマスター。お出かけになるのでしたらサクラはマスターのお供をいたします。エスカルゴとマスターは表裏一体。いつもマスターのお側にいることがサクラの使命です 』
自分の思惑とは別の解釈をされ、それを訂正するのも面倒な薫は舌打ちをした。
すると兄のその悪癖を見た可乃子はすぐに反省の色を見せる。
「お兄ちゃん、すぐにお出かけしたいから可乃子を早く学校に行かせようとしていたの? ならそう言ってくれればいいのに……。ごめんねお兄ちゃん、口答えしちゃって。樹里ちゃんとのお話を邪魔されて可乃子ちょっとカーッとしちゃったの」
素直に謝る可乃子に、樹里は優しい視線を向ける。
「可乃子、学校帰ってきたらまたいっぱいお喋りしよう? 今日の国語の小テスト、良い点が取れるといいね」
すると可乃子は本当に嬉しそうな声で、「うん! 昨日樹里ちゃんに宿題見てもらったからきっといい点取れると思う!」と顔をほころばせた。
「薫、急いでいるならもう出かけていいよ。家のことは私に任せてほしい。あ、サクラはちゃんと連れて行ってあげてね」
『 置いていかないでください Myマスター 』
「う……」
予想もしない状況に追い込まれた薫はガリガリと頭を掻いた。
しかし出かける予定は無かったが、とてもこれ以上ここにはいられそうもない雰囲気だ。
しばらく外で時間を潰し、妹が学校へ行った後に家に戻る事を決めた薫は仕方なくサクラを連れて可乃子よりも先に家を出る。
『 これからどこへ行かれるご予定なのですか Myマスター? 』
Tシャツの上に無造作に羽織ったデニムシャツの左胸ポケットから質問が飛んでくる。
しかしどこへ行くのかと聞かれても元々出かける予定が無かったのだから答えようが無い。
サクラの質問を無視して歩いていると、胸ポケットからパールピンクの一部がひょこっと顔を覗かせた。
『 Myマスター、サクラの話をお聞きくださってますか? 』
「バッ、バカやろう! 顔出すんじゃねーよ!」
左胸に顔を向けて怒鳴ると、命令に反してサクラがさらに自分の本体を大きく出そうとしてきたので銀色の巻尺口を手で乱暴に押さえつける。
しかし再び強引にポケットに押し込まれたサクラはそれでもめげない。
『 ですがマスターが何も仰ってくださらないので 』
「なんでんな事をいちいちお前に言わなきゃいけねーんだよ! 俺がどこへ行こうと俺の勝手だ!!」
『 Myマスター、あなたはまたサクラのレーゾンデートルをお忘れになってしまったのですね……。いいですか、それはサクラがあなたのエスカルゴだからですよ。マスターのご予定は補佐役であるサクラが常に把握しているべきなのです。お分かりになりますか? 』
「だからなんでお前はそういつも偉そうなんだ! ムカつく野郎だなてめぇは!」
『 Myマスター、お言葉を返すようですが、サクラは女ですので “ 野郎 ” と言い方はおかしいですよ。言葉は正しく使いましょう 』
ポケットの中から聞こえてくる相変わらずの上から目線発言に、脳内でブチリと何かが切れたような気がした。そしてこのような精神状態になってしまった頭の悪い短腹男が取る行動は一つしかない。
「さっさと寝ろやああっ!!」
とバカの一つ覚えのようにこの緊急停止単語を叫ぶしかないのである。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
完落ちしているサクラをポケットに入れ、30分ほど外で時間を潰した薫は家へと戻った。
ちょうど朝食の後片付けが終わった樹里が「お帰り、早かったね」と笑顔で出迎えてくれる。
足取り荒く玄関から中に上がった薫は、
「おい、すぐに支度しろ。始めるぞ」
とぶっきらぼうに告げる。
「支度って何を?」
「サンプル用のブラジャーが一通り出来た。早速着けてくれ。店を開ける前に全部撮っちまう」
「あ……」
その言葉で自分が薫の専属モデルになったことを思い出した樹里は顔を赤らめる。
「こ、これからすぐ?」
「あぁ。写真を電子ファイルに変換する作業もあるからな。店を開ける前に済ましちまいたい。先に店に行ってるぞ。準備できたらすぐに来い」
店内に入ると薫は作業台の上にサンプル用の下着を並べる。
それを並べ終わった頃、樹里も店内に姿を現した。そして作業台の上の作品を見て気付いた事を口にする。
「上下で作ったんだね」
「当たり前だろ。ブラジャーだけだったらおかしいだろうが」
「見せてくれるかな?」
「おう」
樹里はこれから自分が身につける作品の一つを手に取った。
「……君の作品は本当に細かいところまで綺麗な刺繍がしてあるよね。それにこんな目につかない裏の部分にまで手を加えているブラなんて見たことがないよ」
感心している樹里に向かって薫は眉間に皺を寄せる。
「分かってねぇなお前は。そういう見えない部分にも手をかけるからこそ粋なんじゃねーか」
「ふぅん、それが薫のブラを作るポリシーなんだね。ふふっ、素敵だよ薫。惚れ直しそうだ」
久々に投げられたそのストレートな愛情表現に薫はぐぅっと言葉を詰まらせる。
「い、いいからさっさと着けろや! 店を開ける時間になっちまうだろうが!」
二週間前に強引に専属契約をさせられてしまった樹里が素直に頷く。
「うん、分かったよ。今日はお客様が来るといいね薫」
薫はそれには答えず、「早くしろや」とだけ言うとドカリと椅子に腰を下ろして更衣室へと向かった樹里を仏頂面で見送る。
ボアンジュをオープンさせて半月が経つが、新規の客はまだ誰も来ていない。
近所の老婆たちの話を聞いた住人の一部が薫の力になってやろうと更に数名来てくれただけだ。
樹里をモデルにして電子ファイルを作成しても店に客が来ないと見せる機会がない。
── 何とかして店に客を呼び込む方法を考えねぇとな
樹里の着替えを待つ間、薫はそんなことをぼんやりと考えていた。
そして良案を思いつく前に更衣室の扉が開けられる。
薫のサンプルブラジャーの一つ目、バイオレットの下着を身に着けた樹里が前回と同じように恥じらいながら姿を見せた。
「やっぱり二度目でも薫に見られるのは恥ずかしいな……」
恥ずかしいのは薫も一緒だ。
だが間違ってもそれを樹里に気取られるわけにはいかない。
「モッ、モデルが恥ずかしがってんじゃねーよ! お前、専属型式としての自覚が足りねぇぞ!?」
「ごめんなさい……」
「うるせぇ! 謝るぐらいならもっと堂々としてろや!」
自覚が足りないと怒鳴りつけられ、ようやく樹里も考えを完全に切り替えられたようだ。
「分かった。努力するよ」
「おう。さっさとこっちに来いや」
「うん」
下着姿で作業台の前にまで来た樹里は、薫の周囲を見回す。
「サクラはどこ?」
「うるせぇから落としてる」
「また!? いつも無理やり寝かせられて可哀想に……。早く起こしてあげて」
「まだ起こさなくてもいいんだよ。ブラジャーの適合具合を見るだけだからな」
薫はそう言うと作業台の椅子から立ち上がった。
急に上から見下ろされる位置になった樹里が急いで薫を見上げる。
少し不安げな表情の樹里に対し、薫は自身の正当性を主張するためにわざと偉ぶった尊大な態度で宣告した。
「い、いいか!? これから俺の作ったブラジャーがお前の胸に適合しているかを見るが、俺はやましい気持ちでやるんじゃないからな!? そこんところよく頭に叩き込んでおけよ!?」
「うん。もちろん分かってるよ。出来上がったブラのチェック作業は他の職人さんから受けたこともあるし、君のブラに対する真剣な情熱は私なりに理解しているつもりだからね」
「な、ならいい。よし始めるぞ。急がねぇと写真を撮る時間が無くなっちまう。おい、後ろ向け」
「こうかな?」
「おう。動くなよ?」
薫は樹里に背中を向けさせると、後ろから覆いかぶさるように手を回した。
そしてブラが肌に吸い付くようにホールドされているかの確認のため、紫の両カップ部分に大きな手を当てて軽く持ち上げるように押さえる。
胸を触られた樹里の身体がビクンと震えた。予めキツく釘を刺しておいたのにそんな過剰な反応をされ、イラついた薫が再び怒鳴る。
「だから動くんじゃねぇって言ってんだろうが! 適合してるか分かりづらくなるじゃねぇか!」
「ご、ごめん」
「ったく……」
舌打ちしたいのを堪え、薫は作業を続行する。
適度な余裕があるかを確認しようと脇のサイドボーンの部分に指を差し込むと、樹里が「きゃっ」と小声を上げた。
「だから叫ぶな! お前このチェック受けたことあんだろ!?」
「あ、あるけど、薫がチェックしていると思うとどうしても平静でいられなくって……」
「余計なことを考えるな! 頭ん中真っ白にしてろや!」
「わ、分かった。あまり考えないようにするよ」
しかしいつもは薫に従順な樹里も、今回はその命令をなかなか聞けないようだ。頭では分かっていても身体が言う事を聞かないらしい。
ストラップを軽く持ち上げ、カップの中の柔らかい肌がこぼれずに収められたままの状態でいるのかの確認に移ると、艶めいた唇からまたかすかに声が漏れる。
「だっ、だからおかしな声出すんじゃねぇっつってんだろ!?」
ブラの各部所のチェックを行う度に薫は何度も大声でそう命令する。
しかしその一方で、薫は薫で己と必死に戦っていた。
時折樹里が漏らしてしまう声が押し殺したあえぎ声にそっくりなせいでまたしても己の体温と心拍数がガンガンに上昇している真っ最中なのだ。
前回に引き続き、今回もなかなかに過酷な状況だ。
そんな相変わらず変化の兆しの見えてこない状況の中で今の唯一の救いといえば、サクラを強引に寝かせているせいで空気の読めない野暮なツッコミが入らないことぐらいなのであった。




