38. 勘違いすんな 今日は疲れているだけだ
「お、お疲れさま薫……」
作業台の上に突っ伏してピクリとも動かない薫の背に、樹里がこわごわと声をかける。
しかし老婆たちの突然の襲来で真っ白に燃え尽き、いまだその魂魄が店内を浮遊中の薫は返事をしない。
「薫、少し早いけど今日はお店を閉めよう? 開店初日にこれだけブラの受注ができれば充分じゃないかな。これ以上無理をしたら薫の身体が心配だよ」
労わるように盛り上がった肩に樹里がそっと手をおくと、突っ伏した薫の口元から死者の嘆きが漏れる。
「……オレは 今日一日で 真の地獄を見た……」
「うん、分かるよ。大変だったね。本当にお疲れさま」
店内に押しかけたあの心優しき隣人たちの年季の入った胸を、全員きっちりと採寸したのだ。
樹里も採寸を手伝ったので、薫の奮闘ぶりは痛いほど分かっていた。
身体の凝りをほぐしてやるため、肩に置いた手をゆっくりと上下に動かし何度も背中をさすってやる。すると突っ伏したままで薫が再び口を開いた。
「……手伝ってくれてあんがとな」
老婆たちの中にはクーパー靭帯が切れまくっている方もやはり何名かおられたため、そのような女性にはFSSから支給されている特別アイテム、“ 収納器 ” に下垂した乳房を収め、何カップなのかを判断しなければならない。その器への完全収納を樹里にも手伝ってもらったのだ。
「ううん、君の役に立てて嬉しいよ。でも少々意外だったな。私があのお婆さんたちに強引に連れてこられた時も薫はとても怒っていたし、シニアブラの依頼は断ると思ってたよ」
「俺は可乃子を食わせていかなきゃならねぇんだ。客を選んだり仕事をより好みできるような状況じゃねぇことぐらい分かってるさ。……少なくとも今はな」
ようやく浮遊中の魂魄が体内に戻ってきた薫は、作業台に手をついてグイと上半身を起こす。
「それにあのババァたちも普段ブラジャーなんかとっくにつけなくなっているくせに、俺と可乃子を心配してああして開店祝いに来てくれたわけだしな。マジでありがたいと思うよ」
「本当だね。あのお婆さんたちが薫や可乃子を心配してくれているのが私にもよく分かったよ。明日も店を開けるのは10時でいいのかな?」
「あぁ。でも明日からはたぶん新規の客はすぐに来ねぇよ。FSSのサイトでこの店と俺の情報は載ってたが、俺は男だし、あれを見てすぐにここに来る女なんていねぇさ。だからまずはババァたちのブラジャーを作ってその後は地道にやっていかねぇと」
「ネットでの注文は請けないの?」
「いや、やるつもりだ。出来て送った後で、適合してねぇとか思っていたデザインと違うとか苦情が出やがりそうだから本音はやりたくないんだけどよ、しばらくはそっちの注文もあれば請けてみようと思ってる」
「ではそちらの宣伝も必要だね。確かに実際のバストを測らずにお客様のサイズ申告だけで請け負えば後でクレームに繋がりそうだけど、私に手伝えることはどんなことでもするよ。なんでも言いつけてほしい」
「お前にできることなんてもう特にねぇよ」
そう素っ気無く決め付けられ、樹里は不服そうにわずかに眉根を寄せた。
「今回シニアブラの素材を発注し、FSSのソフトに入力したのは私だけど? 薫も扱えるように一応あの会計ソフトのマニュアルは書いたけど、薫はこういうことは苦手そうだから経理関係はこのまま私に任せてほしい」
そして樹里は引き続き何か薫の役に立てないかと、次々に自身のアイディアを述べ始める。
「それにネット注文も請けるのであれば、サイトにもその旨を大々的にアピールした方がいいと思う。職人さんには契約しているモデルがそれぞれいるんでしょ? 薫のブラを何作かそのモデルに着せて、その画像もUPしたらいいのではないかな?」
一見とても良さそうなそのアイディアに、薫は口を尖らせ、「アホか」と反駁した。
「お前なぁ、職人になりたての俺に専属の型式なんかまだいるわけねぇだろ」
「ではフリーのモデルに頼んではどうだろう?」
「ったく相変わらず常識のない奴だな。フリーの奴と契約したらいくら金がかかると思ってんだよ。そんな金出せるわけねぇだろうが」
「そうなの? いい案だと思ったのに。だって文字よりも視覚の方が人の心に直接的に働きかけることができるからね」
「…………」
樹里の何気ないその最後の呟きに薫は腕組みをしてしばらく考えこんでいたが、急に顔を上げ、「おい」と樹里を呼び、その整った美しい顔に向かって人差し指を突き出す。
「お前やれ」
「エ? 何をやればいいのだろうか?」
「鈍い奴だな。お前が俺の専属型式をやるんだよ。その画像を電子ファイルにして店に来た客にサンプルとして見せる」
「私がブラのモデルにっ!? そ、それは無理だよ薫!」
しかし薫はギロリと樹里を睨みつけると、驚いているその顔の中心に向かって更に指を突きつける。
「うるせぇ! 案を言い出したのはお前だ! 一度言ったからには責任取ってやってもらおうじゃねぇか! いいから黙って俺のブラジャーをつけやがれ! いいな!?」
有無を言わさずそこで会話を切り上げると、薫はサクラを手に掴んで「おいサクラ、こいつと専属契約するぞ。すぐに型式登録しろ」と命令を下した。操作者に従順なプログラムを組み込まれているサクラは即座に従う。
『 かしこまりましたMyマスター。樹里様をどのレジストNo,に登録いたしましょうか? 』
樹里が何かを言いたげな目で見ている。
だが薫はわざと素知らぬ顔で「1だ」とだけ告げた。
サクラは『 了解です。No,1に樹里様のお名前を入力いたします 』と言いつけられたNo,に樹里の登録を行い始めた。
「……なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」
薫に横目でジロリと睨まれた樹里は小さく首を振り、「ううん、何もないよ」と静かに答えた。
「でもすごいね薫」
「何がだよ」
「だって薫は英語が苦手なのに、マスター・ファンデに関する言葉はきちんと使っているから」
「当たり前だろ。あれだけ勉強したんだ、てめぇの仕事に関する単語なら全部頭に入ったっつーの」
「でも薫が英語が苦手で良かった。おかげでサクラがうちに来てくれたんだからね」
『 樹里様、お話中 失礼いたします。それはどういう意味なのでしょうか? 』
エスカルゴに関する書類の記入時に、薫が誤った性別を選択したせいで自分が廻堂家に来る事になったことを知らないサクラが話に割り込んでくる。
「余計な口を突っ込むんじゃねーよサクラ! こいつの登録は終わったのか!?」
『 はい、No,1に樹里様のお名前の入力は完了いたしました。Myマスター、続いてサイズの入力に移りますが、樹里様のスリーサイズはあなたが手動で入力しますか? それともサクラを使って実寸しますか? 』
相棒からそう尋ねられた薫は樹里に顔を向け、確認する。
「実寸するっきゃねぇだろ。なぁ?」
「えっ!? 薫が私のスリーサイズを測るのっ!?」
「だってよ、俺はお前の胸のサイズしか知らねぇぞ? 腰と尻のサイズも登録に必要なんだよ」
「わ、私は自分のサイズを知っているけど?」
「いつ測ったヤツだよ?」
「半年ぐらい前かな……」
「半年前だぁ!? アホか、話しになんねぇよ! いいか、職人とサインアップをしたモデルはな、三ヶ月毎に職人にサイズを測らせる決まりになってるんだ」
すると専属契約のルールを聞いた樹里が顔を強張らせたままで「わ、分かったよ」と素直に頷く。
「薫がそう望むのなら私もサクラのように君の命令に従うよ。で、でも君の目の前で脱ぐのは恥ずかしいから、フィッティングルームで着替えてもいいかな……?」
「おう。さっさと脱げや」
「りょ、了解だ。少しだけ待っていてほしい」
わずかに動揺した足取りで樹里が更衣室へと消えていく。
そしてかすかな衣擦れの音が少しの間だけ聞こえた後、ためらいがちに更衣室の扉が開けられた。
「……こ、これでいいだろうか?」
顔を赤らめながら更衣室から出てきた樹里に薫は顔を強張らせて息を飲む。
樹里はこの間自分が家庭教師の礼代わりに渡した薄紅色のブラ、『 桃源郷 』を身に着けてくれていた。
下も似た色を穿いているが、別のマスターの作品のため若干色味が違っている。
だが樹里のスタイルが飛び抜けて良いせいで、そんな事はまったく気にならなかった。
勝手に喉元がゴクリと鳴る。
以前にコウというマスターブラが作成したブラジャーを身に着けた樹里の姿を見たことはあった。
だが、あの時はその紺藍色のブラの出来の凄さに自分の奢りを叩き潰されてしまったため、流れるような樹里のこの美しい身体の曲線に本当に意味でまだ気付けていなかったことを薫は知る。
自分が精魂こめて作ったブラ。
それを着けて目の前に恥ずかしげに立つ樹里。
まるで魅入られたように樹里から目が離せない。
『 どうなされましたかMyマスター。心拍数が急上昇を始めているようですが? 』
サクラの野暮な指摘にハッと我を取り戻した薫は、赤らんだ顔で全力で怒鳴る。
「サ、サクラ! てめぇは余計なことを言うんじゃねぇ!!」
『 かしこまりましたMyマスター。おそらくは心因性に依る頻脈と思われるので、原因を取り除けば短時間の内に元の脈拍数に落ち着くでしょう。なおこの原因は樹里様の下着姿をご覧になったためという可能性が高いので、樹里様に衣服を着ていただけばすぐに解消する問題と思われます。どうぞご安心を 』
とまったくもって余計な解説がついてくる。
「だっ、黙れって言ってんだろうがっ!! さっさと寝ろや!!」
起動停止用の単語を叫び、空気の読めない電脳巻尺を一旦完落ちさせたが、今のサクラの報告は樹里にも聞こえてしまったようだ。更衣室の前に佇み、恥ずかしそうに顔を俯かせている。
「薫は私のこの姿を見て興奮しているの……?」
「ア、アホか!! いっいいか、勘違いすんなよ!? 別にお前だから興奮してんじゃねぇ! 今日はババァの胸ばっか見てきたから、ひ、比較だ! ただの比較でそうなっただけだからな!?」
若干意味不明の言葉で必死に自分のプライドを守る。
「それよりいつまでもそんなとこにいねぇでさっさとこっちに来いや! すぐに終わるからよ!」
「わ、分かった」
樹里が作業台にまで歩いてくる。
細くくびれた腰から動くその美しいウォーキングにまた見惚れそうになったがグッと堪える。
目の前にまで樹里が来た。
自分の作った『 桃源郷 』が樹里のDカップの胸を優しく包んでいる。
サクラを「起床」という単語で再び起こし、すぐに消音モードにする。もちろんサクラにまた余計なことを言わせないためだ。
「そういえば君にブラをプレゼントされた時も疑問だったのだが、どうして薫は私のブラのサイズを知っていたんだろう? 私は君に胸を測ってもらったことなどないのに」
再び目覚めたサクラを手にした薫に、樹里がそんな純粋な疑問を投げかける。
すると薫は面白く無さそうな顔で、液晶画面を操作してサクラを採寸モードにした。
「前にコウって奴のブラジャーを見せてくれたろ。あれがお前に完璧に適合してんのを実際に見たからな。あのブラジャーはそのサイズで作った」
あぁなるほどと樹里が呟く。
「でも一応胸も測っとくぞ。お前は俺の専属型式になったし、正しいデータがほしい。いいな?」
「で、ではやはりブラは外すということだろうか……?」
樹里の顔に緊張の色が走ったのを見た薫は額に青筋を立てた。
「当たり前のことを聞くんじゃねーよ!! いっ、いいか、俺をそのコウって奴と同じに考えろ!! 駆け出しだが俺だってもうそいつと同じマスター・ファンデなんだぞ!?」
「わ、分かった。それに薫になら胸を見られても全然嫌じゃない、逆に嬉しいぐらいだよ。ただ、とても恥ずかしいけれど……」
「いっ、いいからさっさと取れや!」
小さく頷き、薫の目の前で樹里が背中に手を回す。
そして樹里の手で桃源郷のホックが外され、音もなく薄紅色のブラジャーが白い胸から滑り落ちた。
薫は再び息を飲む。
目の前に現れたそれは、薫が今まで見てきた中で一番美しいバストだった。
以前に浴室で谷間は見たことがあるが、乳房、乳頭と、すべての面を目の前に無防備にさらけ出され、動揺が一気に押し寄せてくる。
裸の女体を見たのも久々だということもあり、緊張までしてくる始末だ。
だがその感情を強引に体内に押し込め、代わりに冷静さを前面に押し出して採寸を始める。
「おいサクラ、巻尺を出せ」
消音にしているため、サクラが無言で巻尺を体内から勢いよく発射する。
それを右手でキャッチし、床に片膝をついてサクラと協力しながら、アンダー、トップ、バージスラインと次々に採寸を進めていく。だがその採寸風景を少し上の位置から見ていた樹里が不思議そうに言った。
「大丈夫、薫? 手が震えてるようだけど……」
「う、うるせぇ!! 今日はババァたちの採寸をしまくって手が疲れてんだよ! いいからじっとしてろや!」
冷静を保とうとはしているのだが、緊張と動揺と興奮で、どうやら身体の一部に制御が効いていないようだ。
指はなんとか動くのだが、どうしてもわずかな震えを止められない。
頭の中で本日の老婆たちの萎びた胸を立て続けに思い浮かべ、せめてこの興奮だけでも抑えようと努力はしてみたが、記憶の中から無理やり引っ張り出した垂れバストの映像が、今目の前に存在しているこの張りのある瑞々しい生バストに敵う訳がない。
「薫、さっきよりも震えがひどくなってるけど本当に大丈夫……?」
「うるせぇな!! 大丈夫だって言ってんだろっ!? いいからお前はもう喋んな!!」
樹里を直視できないので正面から顔を背け、怒鳴る。
しかし結局樹里のスリーサイズの採寸が終わるまで、薫の十の指はたえず小刻みに震えていたのだった。