36. 頼む これが夢なら覚めてくれ 【 前編 】
── マスター・ファンデの資格を持ち、女性下着を作る職人は全国に数多くいるが、各職人ごとにその経営スタイルは異なる。
広い人脈を持っている職人なら芸能人や富裕層を対象顧客とし、人脈がない職人は自分の住む地域に店舗を構え、近隣の住人から下着製作を請け負うのが主流だ。
その他に店舗を持たず、ネットで製作を請け負うスタイルの職人も最近は多くなってきている。
しかしこの非対面スタイルは、職人が顧客の身体を直に測ることが出来ないという大きなデメリットがあるのが問題だ。
美しい胸を維持するため、女性下着縫製協会、通称:FSS は三ヵ月毎に自分のバストサイズを測る事が理想であると女性ユーザーに提唱している。
その事からも、特定の場所に根を張る地域職人にブラを製作を頼むのが、顧客と職人、双方にとって望ましい。
ただし資格を取ったばかりの地域職人に、ブラの製作依頼が殺到することなど通常はまずありえない。
そこで駆け出しの職人はまずはどこか大手の店舗に雇われ職人として就職し、そこでさらなる技術の向上や人脈を広げた上でいずれは地域職人として自分の城を構える、というのがオーソドックスなマスター・ファンデの独立過程だ。
だが薫の場合、有利な点が一つある。
亡き父がマスター・ファンデで店を構えていたため、地域職人になるために必要不可欠な店舗スペースはすでに持っている点だ。
しかし世の中に美味い話はそうそう簡単に転がってはいない。
父の遺した店で一から始めていくことを決めていたため、しばらくは冷や飯食いの生活になることは覚悟済みだ。
試験に合格後、ブラデザイナーだった母親の伝手を頼り、開店前にブラの製作依頼をすでに数件回してもらってはいるが、この依頼だけで終わらせないこと、それが薫の当面の目標だ。
……しかし時に現実は、まったく予想もつかない現象を目の前に見せてくれることもある。
父から継いだ店、『ボアンジュ』に再び息吹が宿った9月8日。
店内は薫にブラを作ってもらおうと訪れた、たくさんの女性で溢れていたのだ。
これは本来ならば嬉しい誤算。
もろ手を挙げて喜ぶべき場面だ。
しかし女性の嬌声でやたらと活気付いている店内の中で薫は石化一歩手前になっていた。
なぜなら、店に押し寄せた客層にある大きな問題があったのである。
「しかし薫ちゃんがぶらじゃーの職人さんになるなんてねぇ……。きっと幸之進さんも今頃は極楽でうれし泣きしてるよ。気張りんさいよ薫ちゃん」
「あんたは小さい頃から気性が荒い子だったからねぇ。あんたの悪ガキぶりにはほとほと参ってたが、彩子さんも亡くなって、あんたが働いて可乃子を育てていくって話を聞いたとき、あたしゃ思わずもらい泣きしちまったよ。困ったことがあったらなんでもあたしらに言いな」
「あ、そうそう。小芋の煮っ転がしを持ってきてやったよ薫。可乃子と一緒にお食べ」
「ちょいと薫ちゃん、オバちゃん足が疲れたんだけどさ、椅子はもうないのかい?」
……店内をわらわらとうろつく女性陣は全員70代以上の近所に住む老婦人たちだったのである。
落ち着いた上品なイメージを目指して薫がディスプレイした店内は、この年の割にやたらと元気な老婦人たちのおかげで、今は特別養老ホームのようだ。
「薫、タッパはここに置いていいのかい?」
老婦人の中の一人が手製の煮っ転がしが入ったタッパーを作業台の上に無造作に置こうとする。
「おい須藤のババァ! そこに置くんじゃねーよ! 生地が汚れたらどうすんだ!」
「あーあー、こりゃすまんかったね。じゃあ冷蔵庫にしまってきて上げるよ」
「薫、家の中はちゃんと綺麗にしとるんだろうね? どれあたしも見てくるか」
「お、おいババァども! 勝手に家ん中に入るんじゃねぇ!」
そう怒鳴りつけるも、長年廻堂家と付き合いのあるご近所の老婆たちは勝手知ったる様子で何名かが店舗の奥から家の中に入っていってしまう。
まさに老婆台風襲来だ。
「さぁさぁ薫ちゃん、今日はオバちゃんたちがあんたの門出を祝ってご祝儀代わりにぶらじゃーを作りにきてやったからね。誰から脱げばいいんだい?」
「あたしはもう何年もぶらじゃーなんて着けてきてなかったけど、せっかくだからじーさんもぶったまげるようなハイカラな奴でも作ってもらおうかねぇ」
「やだねマツさんってば! あんたに見惚れた旦那さんがそのままポックリあの世に逝っても知らないよ?」
ガハハハと老婆たちの少々品の無い笑い声が店内にこだまする。
今まさに悪夢の真っ只中にいる薫はクラクラと眩暈がしてきていた。
学生時代は喧嘩ばかりに明け暮れていたせいで近所の評判はガタ落ちではあるが、父に続いて母を亡くした今、薫や可乃子のことは皆が心配をしている。
そして自分が働いてその稼ぎで妹と二人で生きていこうとしている薫の姿は、周辺住人の心を大きく揺らしていた。
なんとかこの幸薄い兄妹の力になってやりたい、そう考えた老婆たちの愛に溢れた思いやり、それがこの、「開店記念・ご祝儀ブラジャー」なのである。




