32. また女が増えるのか
今日も早朝から店舗の整理が始まっている。
作業を終える目処を早くつけたいため、薫と樹里は今朝からほとんど口を聞いていない。お互い黙々と手を動かし、材料やファイルの置き場についてたまに一言二言会話をかわすだけだ。
そんな静謐な空気を一時的に乱したのは来客を告げるメロディ音。またあの初老の児童保護局員が来たのかと考えた薫の表情が気色ばむ。
「あ、薫、私が出るからっ」
同じ来客を予想した樹里が、色めき立った薫が暴走しないように折衝役を買ってでた。
「いやいい。俺が出る」
「でも…」
「いいっつってんだろ。可乃子の保護者は俺だ。お前は片付けてろ」
樹里の気遣いを振り切り、薫は頭に覆っていた手拭いを乱暴に取り払うと険しい顔で玄関へと向かう。スニーカーに足を突っ込みすかさず蹴り飛ばすように扉を開けたせいで、外で待機していた人物が驚いて後ろに跳び退った。
「ビ、ビックリしたぁ……」
そこにいたのは保護局の人間ではなかった。
名前は知らないが顔は見知っている中年の郵便配達員が、動悸を抑えるために胸に手を当てている。比較的短時間で息が落ち着いた配達員は、すぐに自分の業務を遂行し始めた。
「廻堂 薫さんですね?」
「お、おう」
「FSSから重要配達品扱いでお荷物が届いています。ここにサインを」
配達員がこちら側に向けて差し出した筆跡認証機の画面に汚い字でサインをすると、認証機のappが作動し、【 agree 】という表示がその上に浮かび上がる。
その表示を目視確認してから、厳重に梱包された箱を配達員が恭しく薫に手渡した。
「ではこちらがそのお品物になります」
厳重に梱包されている割にはやけに軽い。
郵便局員が去った後で箱に印字されている送付票を見てみると、送付物名の欄に【 電脳巻尺在中 】と記載されていた。
「良かった。荷物の配達だったんだね」
いつの間にか廊下に樹里が来ている。
「お前なんでこっちに来てんだよ。片付けてろって言ったろ」
薫は樹里をジロリと睨みつけ、文句をつけた。
「だって薫のことが心配だったんだ。保護局のあの女性に可乃子の事でまた何か言われたら、君は今度こそ手を出してしまいそうだから」
「けっ見くびんな。キレてもババァは殴らねぇよ」
口を尖らせ文句を言う薫に、樹里は「ならいいのだけど」とやんちゃな子どもを見守るような穏やかな笑みを見せる。
「それで何が届いたのかな?」
「電脳巻尺だ」
「エスカルゴ?」
「あぁ。お前見たことねぇか? マスター・ファンデが肌身離さず持っている巻尺のことだよ」
薫は樹里にもよく見えるよう、片手で箱を掴むとそれを誇らしげに掲げる。するとエスカルゴが巻尺のことを指すのだと分かった樹里がすぐに頷いた。
「うん、私もいくつか見たことがあるよ」
「へっ、意外と早く送ってきやがったな。何せこいつが無いと仕事ができねぇ…、おわっ!?」
待ち望んでいたエスカルゴと対面しようとその場で梱包を解きはじめた薫だったが、いざ箱を開けて中を見たその顔が驚きで固まっている。
「どうした薫?」
薫のすぐ側に来て一緒に箱の中を覗き込んだ樹里が、「とても可愛らしいね」と微笑んだ。しかし薫にとってはそんな感想が持てるはずもない。
「なんだよこりゃあ!? こいつ女じゃねぇか!!」
薫はそう叫ぶと箱の中から乱暴に電脳巻尺をつかみ出した。
大きな手の中にすっぽりと納まったその巻尺は、本体の色はパールが入ったライトピンクで隅にはハートのマークがついている。
「確かに女性っぽいデザインだね。支給されるエスカルゴには男性マスター用と女性マスター用があるということなのかな?」
「そうじゃねぇよ」
待ち望んでいた相棒と対面した薫は苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「俺らじゃなくてこいつ自身の性別だ。こいつ、どうみても女だぞ。俺は男のエスカルゴを希望したのによ、一体どうなってんだ?」
「FSSの手配ミスかな?」
「それしかありえねぇよ」
「その希望はいつ申請したの?」
「実技試験の時だ。試験の後に書かされた書類の中でこいつの希望性別欄があったが、俺はちゃんと “ female ” って書かれてた方にチェックをつけたぜ?」
それを聞いた樹里は少しの間言葉を無くしていたが、やがてとても言いにくそうに真実を告げる。
「……薫。それは女性という意味だよ」
「なにっ!? マジかよ!?」
「もう一つの単語のスペルは male と書いていなかったかな?」
「あぁ、確か次にそう書いてあったな」
「そちらが男性だよ。なんだ、薫が間違えて申請したんじゃないか」
「なんで最初に女なんだ!? 性別欄は普通はまず男が先で書いてあるじゃねぇか! だから先に書いてあるそっちにチェックをつけたのによ!」
「英語がよく分からなかったのならFSSの職員にでも聞けば良かったのに……」
「そっ、その時は苛立っててそれどころじゃなかったんだっつーの!」
樹里の指摘に薫は口を尖らせた。
実技試験会場で長次郎と口論をしたせいで頭に上った血が元に戻っていなかった薫は、電脳巻尺に関する提出書類を勢いで一気に書いて見直しもせずに提出してしまっていたのだ。
しかしその顛末を知らない樹里は、「そうか、試験で集中力を使って気が立っていたんだね」と違う解釈をしている。
「でもどうして性別の希望欄にfemaleが先に書かれていたのだろう? ふむ……」
樹里はその申請用紙を頭の中にイメージしているようだ。そしてしばらく思考を続けた後に自分の予想を口にした。
「薫、これは推測だけど、マスター・ファンデは女性が多い職業だから、エスカルゴの性別も選ばれがちな性別を先に書いていたんじゃないかな?」
その推測を聞いた薫は苛立たしげに舌打ちをする。
「チッ、こんなどピンクの巻尺をもらってどうすりゃいいんだよ。俺がこんなのを持ってたら似合わなすぎもいいとこだ」
「うぅんそんなことないよ。なかなか似合ってると思うよ薫」
「からかうんじゃねーよ!」
「そんなに嫌なのなら取り替えることはできないのかな?」
薫は頭をがしがしと掻きながら「たぶん無理だな」と顔を歪めた。
「自分で内部の機能を勝手に拡張することはできるが、本体自体の交換となると、こいつが完全にぶっ壊れた時ぐらいしか応じてもらえねぇはずだ」
「なら諦めて使うしかないようだね。可愛がってあげるといい」
「バカ、こいつは可愛がるモンじゃねーんだよ。この仕事をしていく上で必要不可欠な相棒みたいなもんだ」
「では名前をつけてあげたらどうだろう? マスターは皆その子に名前をつけているみたいだよ」
薫は肩を落とすと大きな溜息をつく。
「……名前はもう決めてたんだがなぁ」
「なんて名前?」
「武蔵だ」
「ムサシ? 随分と古めかしい名前だね」
「あぁ。宮本武蔵から取ったらしいからな」
「取ったらしい、って……。薫が考えた名前じゃないの?」
「親父の持っていたエスカルゴの名前だ。でもコイツが女ならさすがに武蔵は可哀想だろ」
状況が飲み込めた樹里が頷く。
「そうか。お父さんの巻尺の名前を継ごうとしていたんだね。でもそのムサシというエスカルゴは今どこにあるのだろう?」
「いや、もうここにはいねぇよ。おふくろが形見分けの時に親父の親友に上げちまったらしい」
薫は手の中の桃色の巻尺をじっと見た。そしてしばらく眺めた後、それがよく見えるよう、今度は樹里の顔の前にかざす。
「なぁ、コイツの名前、お前が決めてくれよ」
「私が?」
「あぁ。俺は武蔵以外では考えていなかったからな。しかも女の名前なんて全然思いつかねぇよ」
すると樹里はほんの少し呆れたような表情で細い腰に手を当てる。
「これからの君と一生を共にしてゆく相棒なのに随分と冷たいものだな」
「しかたねぇだろ。思いつかねぇんだから」
「しょうがないな……。では私も考えてみるよ。考える間少しその子を貸してくれるかな?」
「おう。ほらよ」
「ありがとう」
樹里は薫から桃色の電脳巻尺を受け取ると、大切そうにエプロンのポケットにそっと入れた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
昼食後の一休み中、「おい、さっきのエスカルゴを貸せ」と薫が樹里に命令する。そして返されたエスカルゴのあちこちをまさぐり始めた。
「何をしているの?」
「主電源ぐらい入れてやろうと思ってよ。でもスイッチが見つかんねぇんだ。昔の奴とは仕様が変わってんのかもな」
「説明書を読んだほうがいいのでは? あの箱に入っていたはずだよ」
「面倒くせぇ」
「まったく君って人は……」
樹里はふぅと吐息をつくと電脳巻尺が入っていた箱を探し、薫の代わりに中に封入されていた仕様書を読み始める。
「薫、まず液晶側左下のスライドスイッチで声紋登録しろと書いてあるよ」
「そういやそんな機能があったな」
「声紋登録をするとどうなるのだろう?」
「確かこいつを完落ちさせる時の緊急キーみたいな役割をするはずだ。昔、親父がやってたのを見たことがある」
「この子の機能を緊急停止する必要などあるの?」
「さぁな。俺もよく分かんねぇよ」
「ここに書いていないかな……」
樹里はさらに仕様書を熟読する。そして該当ページを見つけて「あったよ薫」と声を上げた。
「何かのアクシデントでこの子の中の顧客情報を守るときに使用するらしい」
「客のデータを盗まれないためか?」
「そうみたいだね。それにこのマスター・ファンデの職業に関わらず、顧客情報が漏洩すればそれだけで罪に問われることも多々あるから薫も気をつけてほしい」
「それぐらいお前に言われなくても分かってるっつーの。ここをスライドさせればいいんだな?」
「うん」
「お、反応したぜ」
左側にある液晶部分に 【 あなたの請負人名とファンデNo,を入力してください 】 と表示がでる。
「薫、今度は自分の名前を間違って入力しないようにね」
「だから分かってるっつーの! いちいち横からうるせーなお前は!」
樹里を怒鳴りつけ、自分の名前とファンデNo,を入力すると、【 これからマスターの声紋登録をします。起動用の単語と緊急停止用の単語をそれぞれ登録してください 】 と指示が出た。
「おい、登録するから喋るなよ?」
そう樹里に命令し、【 登録開始 】 を押して起動用の単語を声紋登録する。
「 起床 」
薫の声紋を巻尺内のシステムが取りこむ。
【 登録OK⇒次へ 】 が出たのでそれを押し、次に緊急停止用の単語、「 さっさと寝ろや 」を告げた。【 登録完了 】 の表示が浮かび上がる。
「もう喋っていいぞ」と許可を出すと、「とてもシンプルな単語だね」と樹里が感想を漏らした。
「これも親父が決めていた単語だ」
「これでこの子もいよいよ目覚めるということなのかな?」
「あぁ。おい、もっとこっちに来て見てみろよ。エスカルゴを初めて動かす時、こいつらは “ 初めましてMy操作者 ” って言うんだぜ」
「本当?」
「あぁ、親父が昔言っていた」
手元のエスカルゴをかざしてやると樹里は興味津々の様子で薫のすぐ側にまで近づいてきた。
今はその動きにも薫を意識してビクビクしているところはない。
昨日の作戦がうまくいったな、と薫は内心で安堵する。昨夜、樹里に風呂場で背中を流させている時に、性交は普通は籍を入れなければしない行為だ、と大嘘をついた甲斐があったというものだ。
しかしどうやらエスカルゴの起動の方にはまだ障害があるようで、なかなか初めての挨拶をしてこない。
「ヘンだな動かねぇ。おい、まだなにか登録しないといけねぇのか?」
「ちょっと待って。続きを読んでみるから」
樹里が再び仕様書を読んでいる間、右サイドにある液晶画面を見てみると、【 私の名前を登録してください 】 と出ている。
「あぁ分かった。こいつの名前も入れてやらないといけねぇみたいだ。お前まだ考えてないだろ?」
「いやもう考えたよ」
仕様書から一旦視線を外し、少しはにかみながら樹里は考えた名前を伝える。
「片仮名でサクラ、というのはどうかな?」
「サクラ? なんか意味でもあんのか?」
「うん。最初にこの子を見た時、本体の色が桜の花びらの色に似ているなって思ったんだ。ほら、その隅に描かれているハートマークも見ようによっては桜の花びらにも見えるし、私が一番好きな花も桜だし」
「ふーん……。ま、いいぜそれで」
「そんなにあっさりOKしていいの? 薫は全く何も候補は無いのだろうか?」
「お前ちゃんと考えてくれてんじゃん。俺が適当に考えるよりもよっぽどマシだ」
薫は樹里の考えた名前を即座に採用し、巻尺名に 【 サクラ 】 と入力した。
すると 【 登録がすべて完了しました 】 と表示が出てエスカルゴから高い起動音が鳴る。
「お、来るぞ。ちゃんと見てろよ」
「うん」
液晶画面の周りに配置されている電飾ランプが交互に点滅を始め、電脳巻尺の第一声を薫と樹里は固唾を飲んで見守った。