31. 何ビクついてんだお前は
── ツンデレ不良男と世間知らずなクール美女の間で深夜の攻防戦があった次の日。
「樹里ちゃん、もしかしてお兄ちゃんに怒られた……?」
樹里の異変を最初に問いただしたのは可乃子だった。
手にしていた箸を置いて自分の顔を穴の開きそうなぐらいの勢いで見ている可乃子に、樹里も箸の動きを止める。
「何も怒られてなどいないよ?」
「だって樹里ちゃん、朝からお兄ちゃんにビクビクしているんだもんっ」
「そっ、そんなことはないよ」
真剣な表情で聞き返す可乃子にそう否定はしたが、樹里の口調は明らかに動揺が始まっている。
「ううん、なんかおかしいよ樹里ちゃん! だってお兄ちゃんが側に来るとビクッとして慌てて避けたり、今朝もお兄ちゃんに湯のみを渡した時に手がくっついたらビックリして引っ込めたりしてたでしょ?」
横で聞いていた薫も、「あの時お前が急に手を離すから足に熱い茶がかかったじゃねぇか!」とついでに文句をつける。
「本当に怒られてない? うちのお兄ちゃんは短気なところがあるから、何かされたらすぐに可乃子に言ってね。可乃子がお兄ちゃんを叱るから」
「だ、大丈夫だよ。本当に怒られていないから。可乃子の気のせいだよ」
「ならいいけど……」
変だなぁ、という顔をしていたが、可乃子は再び箸を手に取る。
「おい、それ取ってくれ」
焼き魚にかけた醤油の量が足りなかったので、薫は醤油差しから一番近い位置にいる樹里にそれを取るように命じた。
樹里は一旦椅子から立ち上がり目の前の醤油差しを手にすると「はい」と薫に差し出す。だが醤油差しが小型タイプの物だったため、受け渡しの瞬間にまたお互いの指が触れた。
すると樹里は顔を強張らせ、湯飲みを渡した時と同じようにまた急に手を離してしまう。
ガタンと大きな音が鳴った。
受け渡しに失敗した醤油差しは二十センチ上空から落下し、食卓の上に横倒しになると瞬く間に茶色い池を作り出し始める。
「おわ!? なにしてんだよお前!?」
「ご、ごめんなさい。今拭くから……」
素早く倒れた醤油差しを起こし、布巾を取りに樹里が台所へと向かう。
朝の湯のみ受け渡しに続いてのこの二度目の光景に、薫に非があると判断した可乃子が兄に向かって怒りだした。
「お兄ちゃん、樹里ちゃんに何したのっ!?」
「な、何もしてねぇよ」
「ウソ言わないの! 樹里ちゃん、絶対ヘンだもん!」
「……」
責められた薫はそれ以上身の潔白を口にせず、黙る方針を採った。
樹里の様子がおかしいことは朝の時点で薫もすでに気付いている。
そしてその原因も大体予想がついている。
ただ、それを可乃子に言うつもりはないというだけだ。
「謝ったほうがいいよお兄ちゃん……」
薫が黙ったのでやはり原因は兄にあると思った可乃子が、悲しそうな顔で今度は小声で伝えた。非難がましいその視線に、薫はいつもの癖でまた舌打ちをする。
「チッ、分かったよ。お前食い終わったら部屋に行ってろ。今日は後片付けは俺たちでやるから」
「うん、ちゃんと樹里ちゃんに謝ってね。可乃子急いで食べちゃうから」
「いい。ゆっくり噛め。消化に悪いだろ」
しかし可乃子はいつもよりもハイペースで夕食を食べ終えると急いで食器を下げ、自分の部屋へと引っ込んでしまう。その様子を見送った樹里が不思議そうに薫に尋ねた。
「可乃子は宿題があるのかな? ずいぶん慌てていたようだが……」
それには答えず、薫は自分の空の食器を手に立ち上がる。
「今日は俺たちで後片付けをする。お前洗う方と拭く方どっちがいいんだ?」
「洗う方がいいな」
「よし、とっとと済ませるぞ」
可乃子の事には触れずに話を進め、空の食器をまとめてシンクに運ぶ。
並んで後片付けを始めたが、いつもなら洗いながらも口は動く樹里が今日は無言だ。
洗い終えた食器を受け取る度に不可抗力で何度かまた手が触れ、その度に樹里が小さく反応する。だが薫は何も言わないで皿を拭き続けた。
そしてもうすぐ全ての食器が洗い終わってしまうという頃、ようやく薫が口を開く。
「お前に頼みがあるんだけどよ」
自分を頼ってきたその発言に意表をつかれた樹里は二度睫を瞬かせた。
「薫が私に頼み事をするなんて、最初にここに来た時に家庭教師をしろと言った時以来だ。でも君に頼られるなんて嬉しいよ。何でも言ってほしい。どんな頼みかな?」
薫は一瞬間を置いた後、手元の濡れた皿から視線を外さないままで頼みを伝えた。
「今日風呂に入るときに背中を流してくれ」
「エッ!?」
薫は顔色を変えた樹里にジロリと横目で視線を送る。
「……なんでそんなに驚くんだよ。最初にうちに泊まった時にお前やってんじゃねぇか。勝手に風呂の中に入ってきてよ」
「あ、あれは、一宿一飯の恩義を返そうと……」
「へぇ、じゃあ今は恩義を感じてないからできないってことか?」
「そ、そんなことはないけど……」
「ならやれよ。家主がやれって言ってるんだ。居候なら命令に従って当然だろうが」
「で、でも可乃子もいるし……」
「可乃子が寝てから風呂に入る。ならいいんだろ?」
「…………」
おとなしく自分の背中を流すよう上段から立て続けに追い込むも、樹里は返事をしない。
最後の皿を拭き終えた薫は「いいな、やれよ?」とだけ強く念を押して樹里を台所に残し、自室へと戻った。
── 午後十時半。
可乃子が先に寝たのを確認し、薫は居間に顔を出した。
「おい、風呂に入るから15分後に来い」
そう命令すると、
「どうしても背中を流さなければ駄目だろうか……?」
目を逸らせ、ソファで顔を俯かせた樹里が答える。
「……ならいい。お前ももう寝ろ。明日中にキリのいいところまで片付け終わらせるぞ」
あっさりと先ほどの命令を取り消し、薫は一人浴室に向かった。
先に身体を流し、湯船に浸かると自然と長い吐息が出る。
すると浸かり出して五分ほど経過した頃、脱衣所に誰かが入ってきた気配がした。
誰だ、とはもちろん言わない。
来るな、とも、入れ、とも言わないでそのまま放っておくと、浴室の少し古ぼけた擦りガラス扉の向こうに、曲線のラインが浮かび上がった。
「は、入るよ薫」
「おう」
湯船から上がり、腰に手ぬぐいを巻くと椅子に座って背中を向けておく。
しかし「入るよ」と言ったのに、なかなか樹里は入ってこない。
身体に付着していた水滴が乾く事に専念し出した頃、ようやくおずおずと樹里が浴室内に入ってきた。バスタオル一枚のその顔はすでに真っ赤だ。
そんな樹里の赤面顔を肩越しに見た薫は、自分を待たせたことを特に咎めるでもなく、あらかじめボディソープを垂らしていたスポンジを「ほらよ」と渡す。
受け取った樹里はスポンジを何度か握って泡立たせるとおとなしく薫の背中を流し出した。
どちらも何も言わない。
ただスポンジが上下左右に静かに動く中、背中を流させていた薫が、突然吐き捨てる。
「お前警戒しすぎだっての!」
エコーがかかった声が浴室内を跳ね回る。
「昨日のあれで急に警戒しだしてんだろ!? 朝からビクビクしやがってうっとおしーんだよ!! お前なんか誰が襲うかっつーの!! それに世間知らずなお前はどうせ知らねぇんだろうがな、ああいうグロテスクなことは普通はちゃんと籍を入れてからやるもんなんだよ!!」
「ほ、本当に!?」
「あぁ、そういうもんだ!! それが世間の常識だっつーの!!」
背中のスポンジの動きが止まったので「おい、まだ流せ」と催促する。
「じゃ、じゃあ昨日薫に観せられたあの作品の二人も夫婦ということなんだね?」
「お、おう!! その通りだ!!」
一瞬返答が遅れたものの、薫は適当極まりない肯定をする。
しかしあの作品を前半までしか樹里が観ていない事が幸いした。後半、男優の数が三倍に増えてくんずほぐれつの大乱戦のシーンまで観てしまっていたら今回のこの嘘は使えなかったところだ。
「背中流せって言ったのもそれを証明するためだ!! ったく昨日ちょっと脅しただけで勝手にビクビクしやがって!! お前と籍は入れてねぇんだから何もしねぇ!! だから手触ったぐらいであんなに過剰反応すんな!! 分かったな!?」
安心したように「うんっ」と答えた樹里の声が、浴室内のエコー効果ではっきりと聞き取れる。
背中を流してもらっているのになぜかドッと疲れを覚えた体で薫はハァ、と深い吐息をついた。
「……しかしお前、よくそんなんであの時バスタオル一枚でここに入ってきたもんだな。あん時はまだガキが出来る過程を何も知らなかったから平気で出来たってことかよ?」
声は聞こえなかったが、空気の流れで樹里が頷いたのを感じた薫は、
「……もういいぞ。行けよ」
とこの場を出て行くように促し、樹里を浴室から追い出す。
そして一人になった浴室で放心したように視線を空中に移し、「あーあアホくせ」と独り言を呟いた。