3. 我、生涯ブラジャー宣言
「お兄ちゃん 行ってきまーす!」
「おう、気をつけてな」
たとえ両親がこの世から消えても、朝は毎日同じように訪れる。
小柄な身体には少々不釣合いな大き目のランドセルを背負い、可乃子が元気良く学校へと向かうのを薫は玄関先から見送った。
「お兄ちゃん、頑張っていっぱいブラジャー作ってね~!」
「バ、バカッ!! 声がでけーよ!!」
兄に叱られた妹は機嫌を損ねた河豚のように小さな頬を膨らませ、薫の前に戻ってきた。
「どうして怒るの!? だってこれから試験を受けてブラジャーを作るお仕事をするんでしょ!? 自分の仕事を恥ずかしがってるなんておかしいよ!」
あまりの正論に返す言葉も無い。
「きっとお兄ちゃんは自分のお仕事にまだ誇りを持ってないんだよ! だから恥ずかしいって気持ちがでてくるんじゃない? ね、そんな心構えでこれから先、ちゃんとしたお仕事ができるの? 可乃子、心配だよ……」
「う、うるせぇ! 誇りならちゃんと持ってるっての! 俺は一生をこれで食っていくって決めてんだ!」
それを聞いた可乃子は嬉しそうにニッコリと笑う。
朝に薫が編み込んでやったお下げの黒髪が、その笑顔に合わせるように左右でぴょこぴょこと揺れた。
「そうでしょ? なら恥ずかしがってちゃダメだよ! じゃあ大きな声で言ってみて! “ 俺は一生ブラジャーを作るーっ! ” って!」
「でっできるわけねーだろ!! なんでこんな朝っぱらから家の前でそんな訳分かんねぇことを叫ばなきゃなんねーんだ!?」
「自分に気合を入れるためだよ! それに大きな声で叫べば恥ずかしさもどっかに飛んでっちゃうんじゃない?」
「叫ばなくても気合は入ってるっつーの! 昨日だってお前が寝た後にまた一枚作ってみたんだ! 改心の出来だったぞ!?」
「さっすがお兄ちゃん! じゃあ後は照れだけの問題だね! ほら早く言ってみて!」
「いいからバカなこと言ってねぇでさっさと学校に行け!! 遅刻すんだろ!?」
「ヤダ! 言わないと行かない! 言わないと今日学校休む!」
「可乃子、てめぇ……!」
いくら怒鳴っても動じない妹に対しては、粗暴が売りものの薫も苦渋の表情を浮かべるしかない。大抵の人間が恐れる薫の凄みも、長年一緒に暮らしてきた可乃子にはまったく効きはしないのだ。
兄妹の間で膠着状態が続く。
怒鳴りはしなくなったがブラ宣言も口にしない兄に、可乃子の声のトーンが急激に落ちた。
「……お兄ちゃん、可乃子とずっと一緒にいてくれるんでしょ? 離れ離れには絶対にならないんでしょ?」
「だから何度も言ってんじゃねぇか。お前がデカくなるまで俺が食わせてく。心配すんな」
「なら言ってよ! お兄ちゃんが一生の仕事って決めたことなのにどうして言えないの!?」
小柄な身体を震わせ、可乃子が必死に自分の思いを叫ぶ。
「可乃子はお兄ちゃんとずっと一緒にいたい! だからお兄ちゃんの選んだお仕事が絶対にうまくいってほしいの! お兄ちゃんのお仕事がうまくいかなくてお兄ちゃんまでいなくなったら、可乃子、一人ぼっちになっちゃう!! そんなのヤダ!! 可乃子、絶対にヤダよ!!」
目に涙をためて自分を見上げる妹に薫は言葉を無くす。
母が亡くなった後も泣いていたのはわずかの期間。
その後は常に明るく気丈にふるまい、炊事洗濯などの家事もこなす可乃子は小学生の割にはしっかりした妹だ。
だが、しっかり者に見えて実はその内面に、今にも崩れそうな歪んだ不安を抱えていることは薫が誰よりも知っている。
「チッ、分かったよ! やってやろうじゃねぇか! いいか可乃子、俺の心意気しっかり見とけや!!」
薫は鼻の穴を目一杯にまで膨らませ、朝の清涼な空気を全力で吸い込んだ。
── 俺はこれで生きていく。
頭も悪く、喧嘩の強さと手先が器用な以外に才気溢れる技能も持ち合わせていない自分が、この世でたった一人の血を分けた妹を守っていくにはこれしかない。
その固い決意を吸い込んだ朝の空気と共に吐き出した。
「おっおっ俺はぁっ! 俺は一生ブラジャーを作るうううううううう!!」
薫の<生涯ブラジャー宣言>が朝の通りを真一文字に貫いてゆく。
「ありがとうお兄ちゃん! 行ってきまーす!」
兄の固い誓いを確認した可乃子は目尻の涙を指で拭うと、嬉しそうに手を振り、小走りで登校していった。
「ったく、何てこと言わせんだ可乃子のヤロウ……」
脱力感満載で家の中に入ろうとすると、たまたま通りがかっていた女子高生の二人連れが完全にドン引きした表情でチラチラと自分を見ていることに気付いた。
「あいつキモッ」という声もかすかに聞こえてくる。
そのヒソヒソ声に精神的に大ダメージを受けつつも、傍ではまったく気にしていないような演技で薫は自宅へと入った。そしてそのまま自室へと向かい、以前はろくに座ったことのない勉強机に向かう。
まずは何からなすべきか。
それはすでに決まっている。
今一番重要なのは女性下着縫製協会の試験に合格し、マスター・ファンデとしての資格を取らなければ何も始まらない。
高校時代は勉強机に座るなどありえなかった薫だが、ようやく家の中が落ち着いたここ一ヶ月ほどは家の雑用以外はほぼここに腰を落ち着けていた。
ブラ製作の実技はパスする自信がある。
だが頭も悪く、記憶力もまるで駄目な薫にとって筆記試験は最大の関門だ。
本屋で手当たり次第に買ってきたFSS発行の参考書や対策問題集を今はひたすら頭に詰め込むしかない。
問題集を開き、前日まで勉強していたページを開く。
「あぁ? 【 Q : ブラジャーが誕生した正しい西暦を次の中から選びなさい 】 だと!? んなこと知るかよ!」
質問内容のバカバカしさと、先ほど見知らぬ女子高生たちに「キモい」と蔑まれた苛立ちで、つい独り言が出る。
三択の中でこれかと思われる適当な日付をグルリと丸で囲み、次の問題へと進んだ。
次の問いは 【Q : ブラジャーを長持ちさせる洗い方を手洗いの場合と洗濯機の場合に分けて述べよ 】 と書かれてある。
「全然分かんねぇ……」
またしても愚痴が思わずこぼれる。
しかしもし今が実際の試験会場ならば答えの欄を空白で提出するなど許されることでは無い。
足りない脳味噌を絞ってとにかく欄を埋める。
2Bの鉛筆を手に、とりあえず自分が正解と思う答え、【 手洗いの場合は手で洗い、洗濯機の場合は洗濯機に入れて洗う 】 と書き連ねた。
「……つーかこれ当たり前すぎんだろ、バカじゃねーの?」
次の質問は 【 Q : ブラジャーの正しい干し方について思うところを述べよ 】 と書かれている。
つきあってられん、と思いながらミミズが毒の餌を食べて痙攣を起こしているような非常に乱雑な字で空欄を埋めてゆく。
「晴れた日には外、雨の日には家の中に干す……、と。よしこれで完璧だな」
ここで薫は大きな欠伸をした。
出される問題があまりに下らないと思っているせいだけではない。普段から机に向かうという習慣がなかったので条件反射でどうしても眠くなってきてしまうのだ。
その度に激辛味のブラックガムを噛んだり、両手で顔をバシンと挟み、一時的ではあるが眠気を吹き飛ばしてせっせと問題を解き進めた。
時刻はそろそろ昼になろうとしている。
疲れもたまってきたのでこのページにある残り二問を解いた後、一旦問題集を切り上げることにした。
次の問いは図から選ぶ三択問題だ。
【 Q : ワイヤーが無いブラジャーの正しい畳み方を次から選べ 】
問いの下には谷間から半分に折った水玉のブラジャーの絵が横向きに描かれている。
そこから肩紐の部分を順に中に織り込んでいく過程が三択に分けられていた。
図のブラジャーの生地が白いせいで、薫の目には半分に折られたそのブラが、まるで疲れきった兎が四肢を投げ出して地面にへたり込んでいるように見える。
お前もお疲れさん、と内心で思いながら二番に丸をつけた。
午前最後の一問だ。
休憩に入る前の最後の問題の下にはくっきりとした太い赤字で、【 この問題は毎年必ず出ています 】と書かれている。
必ず出るのならここは絶対に落とせない。
握った鉛筆に余計な力が入ったので芯がボキリと折れた。
父の形見のナイフで綺麗に削り直し、鋭い目つきで問題文を読む。
【 Q : あなたにとって、マスター・ファンデとはどういう存在ですか? 】
「んなこと決まってんだろうが!!」
強い憤りでそう吐き捨てた薫は、その感情をぶつけるようにその空欄を十四の文字で黒々と埋め尽くす。
そして書き終えると鉛筆を放り投げ、実技の対策を兼ねて次のブラジャーの試作品を作るために乱暴な足取りで部屋を出て行った。
昼食も取らずに出て行った机の上に開きっぱなしの問題集が残される。
最後のページの問題の解答欄には、とても読みづらく、だが非常に確固たる決意が滲んだ文字で、
『 妹と生きていくための最終手段 』
と強い筆圧で書き殴られていた。