29. お前どんだけ箱入りなんだよ 【 前編 】
9月1日。
無事にFSSの試験に合格した薫は昨日手に入れた資格認可証で日々の糧を稼ぐべく、その準備を始めていた。
父が万能工匠の下着職人として生計を立てていた頃は家の一角を店舗としていたこともあったのだが、今はそのスペースは倉庫のような扱いとなっている。
デザイナーだった母は主に外注で仕事を請け負っていたため、父が亡き後は店舗が必要なくなった、という理由もあった。しかし廻堂家に再びマスター・ファンデが誕生した今、その空きスペースに再び手を入れ、生き返らせてやる必要がある。
改装費に大枚をはたく訳にはいかないため、己の手でできることはすべて自分でやろうと薫は決意していた。
「職人、この箱はここに置けばいいのかな?」
女性下着の生地が入った箱の一つを手にした樹里が薫に指示を仰ぐ。すると白いタオル地の手拭いを帽子のようにすっぽりと頭に巻いた薫が苛立ちを露にした。
「さっきからマスター、マスター、うるせぇな!! お前、からかってるだろ!?」
「からかってなどいないよ。だって君は晴れてブラの職人になったんだ。だから私が君の事をマスターと呼んでも何も不都合などありはしないだろう?」
樹里はそう言うと運んできた箱を開封し、中を確認し出した。
昨夜酔っ払って薫に迫ったことはまったく覚えていないらしく、いつも通りのクールさだ。
「それに店内にいる時に君を薫と呼ぶのはお客様に失礼だよ。だからこのスペースにいる時は君をマスターと呼ばさせてもらう」
「チッ、勝手にしろ」
「薫、舌打ちする癖は止めろと可乃子に言われてなかったか?」
「いちいちうっせーな! お前はオカンか!」
そんな言い合いを続けながらもお互いに手は常に動いて整理を着々と進めている。どちらも器用なタイプらしい。
「それよりマジでお前も店に出るつもりかよ!?」
大箱を三箱縦に積んで一気に運び終えた薫は、ずれた軍手を直しながら再確認する。
長い鳶色の髪をヘアゴムでまとめた樹里は、当然、といった様子で青いエプロンをつけている細い腰に手を当てた。
「もちろんだよ。生涯の伴侶として旦那さまの手助けをするのは当然だと思ってるからね」
「だ、だから勝手に伴侶面するんじゃねぇ!」
「だが試験の日の夜、君はこの仕事が軌道に乗れば、私との結婚を考えてくれると言ってくれたじゃないか」
「あれはノリで言っただけだっつーの! お前はおとなしく家の中にいりゃあいいんだよ!」
「……薫」
樹里の周囲の空気が変わった。
「前に君は “ 結婚を軽く考えるな ” と私を叱ったが、薫の方がよほど軽く考えているのではないか?」
眦をキッと上げ、言質を取った樹里が鋭く矛盾を衝いてくる。
またしても崖っぷちに追い込まれかけている薫は声を荒げ、作業台の上面をぶっ叩いた。
「あのなぁ! お前はもう成人してるかもしれんが、俺はまだ18だぞ!? なんでこの年齢でそんなことを考えなくちゃいけねーんだよ!?」
「二人の愛に年齢は関係ないと思うが」
「だ、だから愛なんてないっつってんだろうが!」
「7月17日に私にあんなことをしたのに?」
「またその話しかよ!? しつこいぞお前!!」
しつこいと罵られた樹里は長い睫を二度瞬かせ、その透き通った茶色の瞳に非難の色をありありと浮かべる。
「薫、君は結婚だけではなく、そのノリとやらで愛が無くても女性とキスができてしまう軽い男ということなのか?」
「ぐ……」
「あの時居間で君にいきなりキスをされ、どんなに胸が高鳴ったことか……。それなのに君は散々私の口中を舌でたっぷりと弄んだ後、何事も無かったかのように私から離れてまたさっさと勉強を始めるし……。きっと君にはあの時の私の心の昂りは一生分からないのだろうな。学校から帰ってきた可乃子に “ なんだかとても嬉しそうだね ” とまで言われたのだぞ?」
「んなこと知らねーよ!!」
樹里のクールな求婚攻撃に、薫は防戦一方だ。
マスター・ファンデの仕事は軌道に乗ってほしい、いや、絶対に乗せなければならないが、そうなった途端に即行で婚姻届を提出されそうな勢いだ。
薫の態度に機嫌が斜め気味になり始めている樹里は、腕を組むと形のいい唇を軽く尖らせる。
「そもそも薫が私にあんなことをしなければ、あの時の吐き気で妊娠したかもなんて思わなかったんだぞ?」
「それはお前がただの世間知らずなのが悪いんじゃねーか!!」
「そういえばどうすれば子どもが出来るのか今度教えてやると言ってくれたが、まだ教えてくれていないな。いつ教えてくれるのだろうか?」
「…………」
薫は険しい表情で片付けの手を止めると、顔の横を流れてきた汗を着ていたTシャツの半袖の部分で乱暴に拭う。
完全に黙り込んだ薫に、樹里はさらに続けた。
「無知なことは罪だと思う。だから少しでも私の世間知らずを直すために教えてほしい」
「……あぁそうだな」
薫の目にギラリと強い光が宿った。
「いいぜ。望み通り教えてやんよ。確かにこのままじゃお前にとっても良くないからな」
「ありがとう。助かるよ。では今夜はどうだろうか?」
「今夜なんてまだるっこしいことは言わねぇ。今教えてやる」
手にはめていた軍手を乱暴に脱ぎ、「来い」と樹里の手首をつかんで自室に連れ込む。
そして床に座るように指示すると、TVをつけた。
「いいか、どうやってガキができるのか、その工程を目かっぽじって見とけよ?」
チャンネルをPPVに合わせ、ジャンルはアダルトを選択。
そして How To Sex 物の作品リストの中から、「この作品は初体験の女性を対象にしたプレイ内容となっております」とピンクで注釈がついているタイトルにカーソルを合わせる。
だがその作品の購入ボタンを押す直前で薫の手が止まった。
以前にエロ作品を購入後に郵送されてきた請求明細書を危うく可乃子に見られそうになったことを思い出すと、童貞などとっくの昔に捨てている自分がこんな女の初心者向けの How To 作品を購入する決心がつかない。
「薫、どうして固まってる?」
「う、うるせぇ! 今考え中だからおとなしく待ってろ!」
── 己のプライドを取るか、樹里の性教育を取るか。
薫は激しく煩悶する。
そして数分後にその結論は下された。
「止めだ止め。やっぱお前こっち観ろ」
以前可乃子に見つけられてしまったベッドの下のマル秘コーナーから取り出したディスクをTVに挿入し、「黙って観とけ」とだけ告げると部屋を出て扉を閉める。
自分の観賞用のAV作品なのでかなりエグい内容だが、ま、あれでも一応流れは分かんだろ、と能天気に考えて店舗の片付けに戻った。
そしてブラのカップに挿入するパッドをサイズ別に分けてしまい込んでいると、自分の部屋の扉が物凄い勢いで開いた音がした。
続いてダダダダと廊下を必死に走ってくる足音。
「薫っ!!」
物凄い勢いで店舗に飛び込んできた樹里に、一瞬時計に目をやって「なんだよ。もう終わったのか?」と不審げに尋ねた。
あの作品は57分あったはずだがまだ20分少々しか経っていない。
「きっ君はなんて物を見せるんだ!? あれはホラーじゃないか!! 私はホラー映画は大の苦手なんだぞ!?」
よく見ると樹里は涙ぐんでいる。
どうやら本気で怖がっているらしい。
「ひどいじゃないか! 私は今夜きっと怖くて眠れないぞ!? どうしてくれるんだ!!」
「ま、待てよ。俺、お前にホラーなんて見せたっけ? なんてタイトルだった?」
入れるディスクを間違え、ゾンビ物の作品でも観せちまったかとタイトルを尋ねてみると、樹里はその作品名を叫んだ。
「 “ 激撮!! こんな奥まで〇〇〇しちゃうぞ ” だ!!」
── 思いっきり合っていた。
観せようと思って投入した作品だ。
だが確かに少々エグい作品ではあるが、間違ってもホラー作品ではない。
「あれはホラーじゃねぇよ。ちゃんと観たのか?」
「あぁ観たさ! じょ、女性のあんな所に男性が何度もあんなグロテスクな物を……! あれがホラーじゃなくてなんだというんだ!!」
「アホか! あれをしてきてっから古来から人類が絶えずにここまできてるんじゃねぇか!」
「嘘だ! あれは特撮ホラーだ! 多分CGの技術も使っているに違いない!」
「お前なぁ……」
「と、とにかく私は気分が悪くなったから外の空気を吸うついでに買い物に行ってくる! 片付けは帰ってきてからまた手伝う!」
パニックになった樹里はバタバタと慌しく外へと出かけていった。
「あの世間知らずに分からせるには実体験しか手はねぇのかよ……」
開いた口がふさがらないとはまさにこのようなことを指すのであろう。
頭にかぶっていた手拭いを取り、逃げ出していく樹里の姿を見送った薫は脱力感満載の表情でそう呟いた。




