28. おい、とんだ合格祝いだな
FSSから女性下着請負人のライセンスが送付されてきた8月31日の夜、廻堂家ではささやかながら合格祝賀会が行われていた。
とはいっても普段の夕食の品数が二品ほど増えただけだ。
しかしそれでも薫の合格を心から喜ぶ可乃子と樹里の笑顔が食卓に大いなる華を添えている。
「おめでとーお兄ちゃん!! 可乃子は絶対に受かると思ってたよ! かんぱーい!!」
「おう、サンキュ」
薫は満足げな表情で自分の湯飲みを手にすると、それを可乃子が突き出してきたライムジュース入りのグラスに軽く当ててやる。グラス同士の乾杯ではなかったのでガチリ、と少しいびつな音がした。
「私も絶対に受かると思っていたよ。薫のブラを作る腕は確かだし、勉強もあれだけ必死にやっていたからね。薫、本当におめでとう」
樹里も薫の健闘を褒め称える。
しかし樹里に対しては妙な気恥ずかしさが出てきてしまう薫は、気付かれない程度の赤さを顔の表面にわずかだけ浮かばせて、「あ、あぁ」とだけ答えた。
「でもせっかくのお祝いなのにお酒で乾杯できないのはちょっとさみしいね」
薫と乾杯を終えた可乃子は兄の持つ湯飲みに少し不満げな視線を送る。
「お兄ちゃんなんか湯飲みでお茶だもん。あっ、そういえば樹里ちゃんは20歳だからもうお酒飲めるんじゃないの?」
可乃子と同じライムジュース入りのグラスを手にしていた樹里は、「そ、そうだが、私はお酒はちょっと」と言葉を濁す。
「ね、お兄ちゃん、確かうちにちっちゃいお酒のビンがあったよね?」
「日本酒の小瓶か? あぁ、あったな」
「樹里ちゃん、ちょっとくらいならいいでしょ?」
「い、いや私は…」
「せっかくのお兄ちゃんのお祝いなんだもん! 待ってて!」
可乃子は椅子から立ち上がると台所へと入っていく。薫は困った顔をしている樹里に、「お前、酒呑めねぇのか?」と尋ねた。
「い、いや、飲めないというわけじゃなくて、その……」
「なんだよ?」
「じ、実は二十歳の誕生日にお父様やお母様に勧められてワインを飲んだんだが、その後の記憶がなくなってしまって……。後で聞いたらケラケラとやたらと笑ってばかりいてまるで別人のようだったと両親に言われたよ。すごく恥ずかしかった……。だからそれ以来お酒は飲んでいないんだ」
「ふーん……、お前酒を飲むと笑い上戸になる口なのか」
薫は意外そうに樹里の顔を見る。
当時の自分の失態を思い出した樹里は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「探したら二本もあったよ! はい樹里ちゃん! グラス!」
まず日本酒の小瓶を二本食卓に置き、可乃子が樹里にグラスを差し出す。
「い、いや可乃子。せっかく持ってきてもらったが私は遠慮させてもらうよ。日本酒は飲んだ事がないし、このジュースで充分だ」
「いや、飲め」
食卓にふんぞり返り、腕を組んだ薫は樹里にそう命令する。
悪ガキが大好きな女の子をわざと苛める時のような、非常に生き生きとした顔だ。
「俺の祝いの席だぞ? この中で酒を飲んでいいのはお前だけだ。いいから飲め」
「で、でも私は…」
「お前、俺の合格を祝えねぇってのかよ!?」
食卓に身を乗り出し、拗ねたように口を尖らせた薫に樹里は急いで首を振る。
「そ、そんなことはないよ。嬉しいに決まってるじゃないか」
「じゃあ飲め。おい可乃子、氷とマドラーを持ってこい」
「うん!」
薫は可乃子に氷を持ってこさせるとそれをグラスの中に入れ、小瓶の口を開封して中身を注ぐ。そして四分の三ほどまで注ぐと、樹里が飲んでいたライムジュースを継ぎ足してマドラーでかき混ぜた。
「おら、こうすれば飲みやすくなるだろ。よし、乾杯するぞ」
断る隙を与えないよう、薫はニヤリと笑うと自分の湯のみを樹里の前にズイと差し出した。すかさず可乃子ももう一度それに参加する。
「かんぱーい!」
樹里は仕方なくグラスを手にし、おずおずとそれを掲げた。
「か、乾杯……。薫、合格おめでとう」
「おう」
二つのグラスと湯飲みがカチリと合わさった。
グラスを手元に引き戻した樹里は少し考えていたが、思い切ってグラスに口をつける。
「…………」
「どうだ、旨いか?」
「あ、あぁ。美味しいよ」
一口分を飲んだ樹里は素直に頷いた。
ライムジュースで割っている分、飲みやすくなっているようだ。
「ならグッと飲めよ。まだたっぷりあるぜ」
笑い上戸になった樹里を見てみたい薫は何度もグラスを早く空けるように勧める。
樹里は一度グラスに視線を落とした後、再びコクリと喉を鳴らして先ほどよりも多くそれを飲んだ。
やがてグラスが空になる。
「よーし、飲んだな。ほらよ」
「か、薫、そんなに注がなくても……」
「気にすんな。遠慮しないでいいから飲めって」
いつもクールな樹里がケラケラと笑うところを早く見たくてしょうがない薫は、その後も二本の小瓶が完全に空になるまで樹里に酒を勧め続けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……どうすんの お兄ちゃん」
可乃子の咎めるような声と視線に、現在は椅子から立ち上がり、食卓の前に突っ立っている薫は怒鳴り返す。
「お、俺に聞くな!!」
「だってお兄ちゃんが悪いんじゃない。無理やり樹里ちゃんに何杯も飲ますから」
「だ、だってよ、こいつ、酒を飲んだら人が変わったみてぇに笑い上戸になるっつーから見てみたくなったんだよ!」
樹里に抱きつかれている薫が焦って自己弁護する。
完全に酔っ払った樹里は突っ立っている薫の首に抱きついて、「かおるぅ~~! ごーかくおめでとう~~!」と大声で叫んでいる最中だ。
耳元で叫ばれた薫は顔をしかめる。
「うっせーな!! さっきから何度同じことを言ってんだ!! 離れろっつーの!! この酔っ払いが!!」
「だからそうさせたのお兄ちゃんじゃない」
「どうすりゃいいんだこいつ!?」
「知ぃーらないっ。可乃子お風呂に入ってこよーっと! じゃーねお兄ちゃん!」
付き合ってられません、と言いたげな顔で席を立ち、可乃子は三つ編みを解きながら風呂場へと行ってしまった。
「あ!? ちょっと待て可乃子!!」
「かおるぅぅ~~!!」
樹里がろれつの回らない口調でますます強く薫にしがみつく。
「し、しがみつくなっつーの!」
身体をグイと押し返された樹里は、薫の手のひらに描かれている一つの模様に気がついた。
「あれぇぇ~? かおるぅぅ~、ど~してこんなところにワラシのアヒルが描いてあるのぉぉ~?」
「あ!?」
ヤベッ、と思いながら薫は慌てて左の手のひらを隠す。
試験前に冷や汗などで絵が消えてしまわないよう、超強力タイプの消えない油性ペンでくっきりと描いてしまったので、緊張防止用の樹里のアヒルはいまだにうっすらと手のひらに住み続けていたのだ。
「見せなさぁぁ~い!!」
完全に酔っ払っている樹里は隠された薫の手首をグイと引き寄せると、ヒック、としゃっくりをした後で自分の顔に近づける。
「あ~~、やっぱこれぇ、ワラシのアヒルじゃな~い! ね~、どぉーして~? どーしてかおるの手にワラシのアヒルが描いてあるのぉ~?」
「う、うっせーな!! んなこと別にどうだっていいだろ!!」
「イヤでぇ~す! じゅり名探偵はぁ~~、ここに描かれたアヒルにぃ~、じけんの匂いを感じまぁ~す! さ~かおるぅぅ~! ど~してここにワラシのアヒルが描いてあるのかを言いなさぁ~い!」
「だっ誰が名探偵だっつーの!! お前何が笑い上戸になるだよ!! 大嘘つきやがって!! おら! 水でも飲めや!」
早く酔いを醒まさせようと薫は樹里を首元にぶら下げたままで冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、空いたグラスに注ぐ。薫から水を渡された樹里はそれを一口だけ飲むと、「飲んだ!」と楽しそうに答えた。
「全部飲め! 全部!」
怒鳴りつけ、無理やりグラス一杯分の水を飲ませる。
もう一杯飲ませようとまたミネラルウォーターを注いでいると樹里が声のテンションを急に落とした。
「かおるぅ……」
「な、なんだよ」
「だいすきっ」
「ぐ…」
そのストレートな愛情表現に声を詰まらせ、硬直する薫を見た樹里がうふふふふふ、と楽しそうに笑い出す。
「い、今頃笑い出すのかよ!? お前もう寝ろや!」
薫は赤面した顔で樹里を横抱きに抱え上げる。するとすかさず樹里がまだうふふふと笑いながら首筋に腕を絡みつけ、薫にしっかりと抱きついた。
必要以上に密着してくる樹里を抱え、ドスドスと荒い足取りで可乃子の部屋まで運ぶ。しかしまだ布団は敷かれていなかったので薫は一旦樹里を床に下ろし、部屋の電気を点けた。
「今布団敷いてやるから待ってろ」
カーペットの上に置かれた樹里はその場に座り込んでまだクスクスと笑っている。
「チッ、この酒乱が」
忌々しげに呟くと薫は樹里の布団を敷いてやる。
「おらいいぞ。少し寝りゃあ酔いも醒めんだろ」
しかし樹里はそこから動こうとしない。軽い気持ちで樹里に日本酒を飲ませたことを大後悔しながら薫は再び樹里を抱え上げた。
「なんで俺がここまでしてやらなきゃならねぇんだよ……」
樹里を布団に横たわらせてやり、身を離そうとした時、また首に細い手が絡みつく。
「うわっ!?」
酔っ払っているせいか予想以上の強い力で引っ張られたので危うく樹里の上に全体重を落とすところだった。すんでのところで両手をついて自分の体を支える。
「おまっ何すん…」
言葉が途切れる。
樹里が自分にキスをしてきていることに薫が気付くまで数秒の時間を要した。
どれぐらいの時間唇を押し当てられていたのかははっきりしていないが、長めの時間だったことは確かだ。
ようやく唇が外れると、樹里は艶めいた表情で薫をじっと見ている。
すぐ目の前にある切れ長の瞳は火照った熱を帯びたように潤んでいて、両の頬は、ほんのりとロゼの色に染まっていた。
鳶色の長い髪がシーツの上に舞うように大きく広がり、隆起した柔らかそうな胸は少し早いリズムで上下に動いている。
その扇情的な光景に、薫の頭の中にこの後の自分が取るべき様々な選択肢が両手の指を合わせても足りないほどの数で一気に浮かび上がった。
その中で一番の勢力を誇るキング・オブ・選択肢はむろん「据え膳食わぬは何とやら」だ。
むしろ七月初旬から樹里をここに居候させるようになってもうすぐ二ヶ月、よくぞここまで手を出さないで耐えてきたと己の鉄の意志を褒めたいぐらいである。
試験も終わり、合格もした。
まだマスター・ファンデとして生きていく道筋をしっかりと描けてはいないが、もう我慢しなくてもいいんじゃねぇかという気持ちがよぎり、ついに薫は樹里の胸元に手を伸ばす。
「……お兄ちゃん、パジャマ取ってもいい?」
背後から声。
ギクリとして後ろを振り返ると戸口には申し訳なさそうな顔で可乃子が立っていた。
「か、可乃子!? お前風呂に入ったんじゃなかったのかよ!?」
まだまだ風呂から出てこないと思っていた薫は焦りきった表情で樹里の身体に伸ばしていた手を引っ込める。
「うん。パジャマと下着を持って行くの忘れたから戻ってきた」
可乃子はそういうと自分のクローゼットからそれらを取り出して、部屋を出て行こうとする。そして出て行き間際に、
「お兄ちゃん。樹里ちゃんにエッチなことしちゃダメだよ? 寝てるんだから」
と諌めるように言う。
「なに!?」
布団を振り返ると本当に樹里は眠っていた。とても幸せそうに。
「何寝てんだこいつ!?」
「やっぱりお兄ちゃん、酔って何も分からない樹里ちゃんにエッチなことしようとしてここに連れて来たんだ? 最低だよ……」
「ち、違うっつーの! 先にこいつが…」
「とにかく寝かせてあげなよ。お兄ちゃんが全部悪いんだからさ。ほら、行くよお兄ちゃん」
「う……」
妹に本気で蔑んだ目で見られ、哀れな薫は樹里を残して部屋の電子を消すと、居間に一人で戻る羽目になったのだった。