27. 試験結果、発表
FSSの試験があった同日、午後九時。
廻堂家の電話の呼び出し音が久々に鳴った。
ブラのデザイナーとして働いていた母、彩子が仕事用に使っていたものだが、彩子が亡き後はほとんど鳴らなくなっていた電話だ。
居間に一人でいた可乃子が少しどぎまぎした様子で電話を取る。
「は、はいっ。ボアンジュですっ」
「……可乃子か?」
可乃子の耳に、自分がこの世界で一番慕う人間の聞きなれた低い声が響く。
「あ、お兄ちゃん!! 今どこ?」
「ホテルにチェックインしてる。すげぇ狭い部屋だ。お前も見たらビックリするぞ」
「旅費をケチるからでしょっ。ねぇどうだった!? テスト出来た!?」
「筆記はとりあえず全部埋められた。それよりお前なんで店の名前名乗ってんだよ? 一瞬かけた先を間違えたかと思ったぞ」
「だってこの電話はお母さんのお仕事用の電話じゃない。だからお店の名前で出た方がいいのかなって思ったの」
「そうか。……あいつはどうしてる?」
「樹里ちゃん?」
「あぁ。いるならちょっと代わってくれ」
「今お風呂に入ってるよ。電話このままお風呂場に持っていく?」
「風呂に入ってんのか。ならいい。俺の携帯をあいつに教えて後で電話くれって言っといてくれ」
「うん分かった。お風呂から上がったらすぐに電話してもらうねっ」
しかし薫は可乃子のその提案に少し考えた後、「いや、十一時によこせって言っとけ」と掛け直させる時間を深夜近くに指定する。
「え、そんなに遅く? お兄ちゃんこれからどこかに出かけるの?」
「あ? べっ、別にいいじゃねーか! 俺は十一時が都合がいいんだよ! それより可乃子、お前、今何してんだ?」
「え? TVを見てたけど?」
「んなことは知ってる。TVの音がこっちにまで聞こえてきてんだよ。何の番組を観てんだって聞いてんだ」
「あ」
その声の直後、今までよく聞こえていたTVの音声が急に聞こえなくなる。
「慌てて音量下げてんじゃねぇ! お前、またあの “ モテる悪女のなんとか ” っつー、くだらねぇ番組を観てただろ!?」
「ご、ごめんなさい……」
可乃子の声もTVに合わせて今は相当小さくなっている。
薫は大きく舌打ちをしたが、さすがに今回は可乃子もその悪い癖を咎めない。
「だからお前にはそういう番組はまだ早いっつってんだろうが! それ消してさっさと寝ろ!!」
「は~い……」
「あいつに電話よこせって言っとくの忘れんなよ? じゃあな」
携帯電話を切り、薫は狭いベッドに倒れこむ。
可乃子の指摘どおり、宿泊費をケチッたせいでタコ部屋のような狭い部屋があてがわれてしまった。
ベッドも一般的なホテルのベッドより二周りも小さいので長身の薫が寝ると、今にも足先がはみ出そうだ。
腕時計に目をやり、樹里からの電話が来るまでの間、何をしていようかと考える。
電話の掛け直しを午後十一時に指定したのは、可乃子が確実に寝ている時間に樹里とある話をしたかったからだ。
すぐに出られるよう携帯を側に置き、今日の筆記試験の様子を思い返す。
先ほど可乃子には “ とりあえず埋めた ” と消極的な事を言ったが、本当は筆記試験をクリアできた予感で満ち溢れていた。
分からなくて手が止まった、などという事も一度も無かったし、どれを選ぶかで迷った選択問題も一つも無かった。
筆記試験直前に最高潮となった極度の緊張も、手のひらに急遽住まわせた例のアヒルがうまく打ち消してもくれた。
馬鹿で記憶力の悪い自分がここまでやれた事に感動すら覚える。
テストが無事に終了した嬉しさで一気に気が緩んだ薫はベッドの上でうたた寝を始めた。そして午後十一時ジャストに携帯の呼び出し音に起こされる。
「……おう」
「薫か? 眠そうな声をしているな」
樹里の声だ。
「寝ちまってた」
「試験で全神経を使ったんだろう。お疲れさま。可乃子から筆記試験の解答欄は全部埋めたらしいと聞いたよ」
「可乃子は寝たか?」
「あぁとっくに。三人で眠れなくて寂しいと言っていた。私も今夜は眠れるか心配だ」
「ったくお前らは大げさだな。明日すぐに帰るじゃねぇか」
「いつも三人で寝ていたからね。でも試験も終わったし、もう薫と勉強をすることもないのかと思うと寂しいよ。試験の結果は一週間以内に合否の通知が届くということだったね」
「あぁそうだ。マジでお前には感謝してる。筆記がここまで完璧にできたのはお前のおかげだ」
「そんなに手ごたえがあったなんて嬉しいよ。でも私の助力なんて微々たるものだよ。薫の頑張りが今日の良い結果に結びついたんだ」
「おう。そ、それで話は代わるんだけどよ、台所の食器棚の一番下の引き出し開けてみろよ」
「台所の引き出し?」
「あぁ、食器棚の一番下だ」
「ちょっと待ってほしい」
受話器を片手に樹里が食器棚を漁っている音がする。
「……これだろうか? ブルーの包装紙で包まれた物がある」
「その包み、開けてみな」
今度はガサガサという紙の擦れる音が聞こえてきた。
しかしその音が止んでも樹里の声は聞こえてこない。薫は携帯を耳に当て、反応が返ってくるのを無言で待った。
やがて、樹里のかすかな声が聞こえる。
「……これは、薫が作ったのだろうか?」
「当たり前だろ」
「すごい……、細かい刺繍がブラのカップ部分にこんなにたくさん……。それにブラの薄紅色もとても綺麗だ……」
「ま、大したもんじゃないが家庭教師をしてくれた礼代わりだ。取っとけ」
亡き父の職人魂がこめられた作品の一つ、『 桃源郷 』。
幼い頃にマスター・ファンデになると宣言した時に父が誇らしげに見せてくれた薄紅色の作品は幼い薫の記憶の中に留まり続けていた。
その記憶の糸を手繰り寄せ、本日の実技試験にも桃源郷を提出したが、自分のために今まで誠心誠意尽くしてくれた樹里にも同じ物を密かに作っていたのだ。
携帯電話の向こう側では桃源郷を手にした樹里が感動している。
「ありがとう薫……。君からブラをプレゼントしてもらえるなんて思ってもいなかった。とても嬉しいよ。着けないで一生大切に持っていたいくらいだ」
「アホか。ただ持っていてなんの意味があるんだよ。ちゃんと着けてこそ、そいつらにも意味があるんじゃねぇか」
「分かったよ。後で早速着けてみる」
「あぁ。で、でよ、もう一つお前に話があるんだ」
いよいよ重要な本題に入るため、薫はベッドの上に起き上がる。
これはあくまで自然に、何気ない風を装って言わなければならない。
しかしそう考えれば考えるほど、口の周りの筋肉が勝手に硬直してきた。
薫はゴクリと唾を飲み、口周りの緊張を解いた上でようやくそれを口にする。
「お、俺の試験が終わるまでは家にいていいと言ったけどよ、それ、延長してもいいぞ?」
「延長……?」
強く握りしめている携帯電話からオウム返しの言葉が聞こえた。
「お、おう。試験が終わるまでにバイトでも探せってお前に言ったけどよ、結局俺の試験勉強にかかりきりになってお前に自由な時間を何も与えてやれなかったからな」
「ありがたい話だが、どれぐらい延長してくれるのだろうか?」
「あ? また俺が期間を決めるのかよ!?」
「あぁ、きちんと決めてほしい。私もそれに応じて身の振り方をまた考えねばならないからね。いつまでかな?」
「い、いたいだけ家にいりゃいいじゃねぇか」
「それは私を妻にしてくれるという事だろうか?」
「あぁ!? なんで話がそこに行くんだよ!?」
「そうか……。やはりこんな世間知らずの私では君の奥さんになるには力不足ということなのだな……」
寂しそうに呟いた樹里に、薫は慌ててフォローをする。
「べ、別にお前が嫌だっつーわけじゃねぇよ! まだ食っていくメドも立ってねぇのに、んな事は考えられねぇだけだ!」
「では目処がついたら考えてくれるということだろうか?」
「し、知るか! そん時はそん時で考えてやる! たらればで話をすんのは大嫌いなんだよ!」
「フフッ、仮定の話をする暇があるくらいならその分前進したほうがいいという考えか。なるほど、君らしいな……」
樹里は小さく笑ったようだ。
「では君が試験に受かった後、マスター・ファンデの仕事が軌道に乗るようにサポートすることが、これからの私の役目になりそうだ。君のためにこれからも精一杯頑張らせてもらうよ」
「お、おう。じゃあ切るぞ」
「薫」
「あ?」
「早くまた君と一緒の部屋で寝たい」
「とっ、戸締り確認してさっさと寝ろ! 切るぞ!」
強引に通話を切りガックリと両肩を落とすと、「18で結婚なんてありえねーよ……」と呟く。
── その六日後の8月31日、FSSから薫の自宅へ郵便が届いた。
<重要書類在中>と記載された封書の中には、マスター・ファンデの資格認可証が同封されており、認可証の職人名の欄には、【 廻堂 薫 】の名前が金で縁取りされた黒文字で厳かに刻印されていた。