26. 見くびんな 俺は不正なんかしていねぇ
「では次に実技試験を行います。いいですね廻堂くん?」
「あぁ」
面接の受け答えも終わり、いよいよ薫の腕を試験官たちの前で見せ付ける時が来た。
試験開始に同意した薫の前に素早く小型のスチールデスクがセットされる。
そして様々な種類の縫い針や刺繍糸が入った裁縫道具箱と、どこもかしこも真っ白な実技試験用のシンプルなブラジャーが一枚、その上に置かれた。
舞台を整えた進行役が厳かな声で指示をする。
「では刺繍を指定します。まず右カップの部分にロング アンド ショート ステッチで好きな柄を一つ縫って下さい。大きさは問いません。左のカップにはレゼーデージー・ステッチで花のマークを最低3個お願いします。なお、君に与える時間は25分です。もし時間が余るようであれば肩紐部分にお好きな刺繍をして構いません。……では始めてください。どうぞ」
実技試験が始まった。
薫は無言で道具箱の中から腕針刺を取り出すと慣れた手つきで素早く左の手首に装着した。そして用意された針山の中から一本の刺繍針を手にする。
この刺繍針は針穴が大きめなので糸通しは必要ない。元々動体視力の優れている薫はプラム色の刺繍糸を一発で針穴に通し、右カップから縫い始めていく。
「速いな」
薫が縫い出してすぐに試験官の一人が小さく呟いた。
たちまち右のカップにロング アンド ショート ステッチで一つの模様が浮き彫りになってゆく。
まったく歪んでいない、左右が完全に対象になっている美しいハートマークを縫いきった薫は、刺繍針を一旦腕針刺に刺した。そして今度は刺繍糸の色をサンディブラウンに付け替え、左カップの刺繍に取りかかる。
縫うことに完全集中しているため、今の薫の目つきはいつもよりも吊り上がっていない。
ひたすら真剣な表情でヒナ菊のような可愛らしい花模様を、指定された数の倍で6個、左側の白い丘に縫いきった。
指示された刺繍をどちらも縫い終えた薫は右手首にはめていた腕時計を見る。
薫は右利きだがいつも腕時計を右にしているのは、普段から左手首に腕針刺を付けることが多いせいだ。
右手首の腕時計に表示された実技の残り時間はあともうわずかだ。だがまだ残っている。
ここで終わりにせずまだ攻めるべきだ、と判断した薫は酷使させた刺繍針を腕針刺で休ませ、今度は別の新しい針、クロスステッチ針を手にする。
次に選んだ糸の色は二色。スレイトブルーとブルーバイオレットだ。
そしてその落ち着いた配色の糸を使って左の肩紐の部分に小さな一輪の紫陽花を縫い込んでいく。
「時間です。手を止めてください」
進行役のストップがかかり、シーグリーンの糸で紫陽花の葉っぱまで縫い終えた薫は縫い針の手を止めた。縫い上げた作品と裁縫道具箱がスチールデスクの上から即座に回収される。
「25分でここまでいけるのか」
先ほどとは別の試験官も、白いブラを手に感心したような声で薫を褒めた。そして窓の外を眺めている長次郎に「さすがは廻堂さんのご子息ですね」と声をかける。
長次郎はようやく顔を室内に向け、薫が縫った作品をチラリと一瞥すると、「ふん、そんなもん、まだまだだな」と冷めた口調で言った。
「ははっ、国宝職人に指定されたあなたと比べてはいけませんよ」
と中央の試験官が笑い、その笑顔のままで、「では提出作品を出してください」と薫に告げる。
薫は持参していた小型の収納ケースから一枚のブラを取り出した。
ブラの生地は薄紅色で、前面のカップ部分にはそれよりも淡い色の糸で細かい模様が一面にびっしりと刺繍されている。
「では拝見いたします」
進行役の太った男にブラを渡すと、その男はすぐに隣の試験官にそれを渡した。
そして残りの四人の試験官は一人ずつブラを手にし、様々な角度から眺めながら手元の用紙に何かを記入している。
「長次郎さんもどうぞ」
一番左端にいた長次郎に薫のブラが手渡された。
長次郎は顎ヒゲから手を離し、薄紅色の作品を見る。しばらく黙ってそのブラジャーを眺めていた長次郎は、「こいつは幸之進の作品だな」と呟いた。
それを聞いた試験官の一人が慌てたように声を上げる。
「え!? それは本当ですか!? おい廻堂君! 君は自分で作品を作ってこないで亡くなったお父さんの作品を持ってきたということなのか!? それは不正だぞ!?」
「あぁ!? なんだとッ!?」
いきなり不正を疑われ、赫怒のあまり我を忘れた薫は目の前の机を蹴り飛ばすとその場から立ち上がる。
「誰がそんな卑怯な真似をするかよっ!! 俺が作ったに決まってんだろうが!! おい清水のジジィ!! てめぇ何嘘八百をのたまってんだゴラァ!!」
ブラを手にした長次郎は呆れたように目を細め、荒ぶる薫を蔑むように見上げた。
「落ち着けバカ者。どうしてお前は昔からそう頭に血が昇りやすいんだ。幸之進もかなり喧嘩っ早い男だったが、お前ほど無茶苦茶ではなかったぞ? そんな性格だからしょっちゅう乱闘騒ぎを起こして彩子さんを困らせてばかりおったんじゃないか」
「うっせーよクソジジィ!! それが親父の作品だなんて嘘をついて俺を貶めようとしてるじゃねーか!!」
「ど、どうなんでしょうか長次郎さん!? この子はこう言ってますが、それは幸之進さんの作品なんですか!?」
席から立ち上がり、うろたえている試験官たちに長次郎は片手を振った。
「あぁ済まん済まん。儂の言葉が少々足りなかったな。以前に幸之進が作った作品の一つに 『 桃源郷 』 という名前の作品があってな、それによく似ていたからあいつの作品だ、と言っただけだよ。おそらくこいつも幼い頃にそいつを見たことがあるんだろう」
「あぁ、そういう意味だったんですか……。驚かさないでくださいよ長次郎さん」
目の前で不正が行われたのかと浮き足立った試験官の一人が安堵の息をついている。
すると長次郎は落ち窪んでいた両の目をカッと急激に見開き、小柄な体躯ながらも鬼のような凄まじい剣幕で試験官たちを怒鳴りつけた。
「このうつけ者共があああっ!!」
長次郎の逆鱗に触れた試験官たちが一人残らず直立不動の体勢となる。
「何を言うておる!! お前ら、仮にもFSS試験官の任を請けているのなら儂の言葉になど惑わされず己の審美眼できっちりと作品を見分けんか!! 万能工匠だった幸之進と、たかだか18のこの悪ガキの出来が同じなわけはないだろうが!!」
「は、はい。確かにこの子の作品は今回の受験者の中で一番のレベルではあると思いますが、万能工匠の作品に比べるべくもありませんね」
手にした薄紅色のブラをあらためて観察した試験官の一人が納得したように二度頷いた。
「フン、半人前のマスター・ブラのランクにすら届いてないわ」
長次郎は不愉快そうにわずかに眦を吊り上げ、面白く無さそうな顔で鼻を鳴らす。
「お、仰るとおりです。この度は大変失礼いたしました」
進行役を含めた試験官五人が一斉に長次郎に頭を下げる。
年季の入った五つの禿げ散らかった頭頂部が自分の眼下に晒され、その噴き出しそうな見事な絶景を見た長次郎はようやく機嫌を直した。
「ではこの悪ガキの面接及び実技はこれで終わりだな?」
「は、はい。これで終了です」
「おい聞いたか薫。ここから出てもいいぞ。それと受験者には電脳巻尺に関する書類の提出があるようだから、帰っていいのはそれの記入が終わってからだ」
薫はギリギリと歯軋りをしながら長次郎を睨みつけた。その強烈な炯眼を浴びせられた長次郎はさらに薫を煽る。
「ハハッ、今にも儂に飛びかかりたそうな顔をしているな? こいつらの前でせっかくお前のアピールをしてやったというのに恩知らずな奴だ」
「どこがアピールだ!! 俺を落とそうと足を引っ張ってるじゃねーか!!」
薫は歯をむき出して吼えた。
試験官がいる前で事を荒立てたくは無いとは分かっているのだが、己の短気な気質がどうしても叫ばせてしまう。
「フッ、お前にはそう見えるのか。やはりまだまだ子供だな……」
長次郎は作務衣の下に穿いている雪駄をゾリ、と鳴らして薫に小さな背を向ける。
「うるせぇクソジジィ!! 顔を合わせりゃいつも俺をガキ扱いしやがって!! バカにすんじゃねぇ!!」
「フン、ガキ扱いされたくなければそれ相応の態度と実績を培ってからのたまうんだな」
「おう見とけや!!」
薫は固く握った右の拳を顔の前にかざすと、濃紺の作務衣の背に向かって怒鳴る。
「俺はマスター・ファンデになって親父よりも早く万能工匠になってやる!! そんで老いぼれのあんたに引導を渡してやるからな!! 覚えとけ!!」
「おいおい、若人が血気盛んで結構なことだが、それは儂が死ぬまでに間に合うのかのう?」
ひゃひゃひゃ、と老いで曲がりかけている背中が揺れた。
進行役の男が薫の蹴り飛ばしたスチールデスクを起こしながら慌てて間に入ってくる。
「か、廻堂くん。君の面接はもう終わりだから速やかに退室してください」
薫は小さく舌打ちをすると踵を返して面接部屋を後にしようとする。その時、長次郎がまた薫の名を呼んだ。
「あ!? なんだよ!?」
再び戦闘状態に入りかけた薫は、素早く振り返ると長次郎に眼をつける。しかし長次郎は背を向けたままで振り返らない。
「薫、お前は先ほどの面接で今回の試験に合格した場合、幸之進の遺した店ですぐに独立すると言っておったな。もしお前がその道を選べば時を待たずして壁にぶち当たることだろう。その時は儂の所に来い。お前は儂の一番弟子の息子だ。一度だけならお前にこの清水長次郎が有意義な助言をくれてやろう」
「あんたの助言なんかいらねぇよ!!」
「そう何にでも噛み付くな。お前ももう18だ。猛牛のようにただ闇雲に前に突撃するだけでは解決しない事も大人になれば往々にあるということをお前は知らねばならない。少しはその足りない頭を使ってうまく立ち回ることを覚えねばな」
そう静かに告げると長次郎は薫が出て行こうとした扉とは別の入り口からゆっくりと部屋を出て行った。