25. 上っ面の慰めはいらねぇんだよ
前半の筆記試験が終わった。
頭の悪い薫にとって、後半の実技や面接よりもまさにここがクライマックス、最大のヤマ場だった。
しかしその険しい山を見事に越える事ができ、空欄無しの解答用紙を無事に試験官に提出した薫はその場で大きく伸びをする。
集められた受験者たちの解答用紙は別室へと運ばれていき、講堂に残った試験官がこれから行われる面接の順番についての発表を行い出す。
しかし次々に受験者の名前が試験官の口から高らかに呼ばれる中、薫の名前はなかなか呼ばれない。
「……えーと、次の方で最後ですね。廻堂 薫くんはいますかぁー?」
「おう」
仏頂面で手を上げると周囲のひそひそ声が少し多くなった。
今回のFSS試験で男の受験者は薫だけだったのだ。
そのため周囲の女性たちは薫のことが気になって仕方がないらしい。薫は聞こえないふりで大きく足を組み、眉間に皺を寄せて講堂の椅子にふてぶてしく踏ん反り返る。
── キモいと言いたければ言え。
男が女のブラジャーを作るなんておかしいと思うなら勝手に思えばいい。
だが俺はそれでもマスター・ファンデになる。
大事な奴らをこの手で守るために。
今の薫の心には微塵の揺れもなかった。
面接は幾つかのグループに分けられ、一人ずつ別室に呼ばれて行われる。
薫の呼び出し番号は一番最後だったため、かなり暇な時間ができてしまった。
他の受験者は女ばかりのせいもあり、話す相手もいない薫は暇つぶしのために試験会場だった講堂を出て大学のキャンパス内を歩くことにした。
キャンパスは木々の緑に溢れているが、人工的な配置のためどことなくよそよそしい感じが漂っている。自分の住む下町区画の雑然さとこの整然とした景色を比較し、やっぱ俺の町が最高だな、そう思いながら薫はキャンパスの中を歩き続ける。
自分の住む町に思いを馳せていると、守るべき大切な人間の顔も浮かんできた。
足を一旦止め、リュックの中から先ほど返却された携帯電話を取り出す。
カンニング防止のため受験者の携帯電話は試験官により一時的に回収されていたので電源も切られていた。
再び電源を入れてみる。
着信履歴はなかった。
筆記試験中に家の固定電話でかけてくるなどありえないのでこれは当然のことだ。
可乃子に携帯電話はまだ買い与えておらず、樹里も親族に足取りを掴まれないように携帯電話を置いて家出をしてきているのでメールも入ることがない。
薫の手の中の携帯電話は「あなたに伝える事は今のところ特に何もありませんよ」と言いたげな様子で現在の時刻だけを秒数まで正確に教えてくれている。
── 今度あいつに携帯を買ってやらなきゃ駄目だな
素知らぬ顔の携帯電話をリュックのサイドポケットに入れる。
朝も、昼も、そして夜も、出会ってからほぼ同じ空間で過ごしてきたので今まではその必要性をまったく感じていなかったが、やはりこういう時にメールの一つぐらい気軽に打てるような環境は必要だと感じた薫は、近いうちに樹里に携帯電話を買ってやろうと決める。
そして少しだけ考えた後、また携帯電話を取り出して自宅の電話番号を表示させた。
── 家にかければたぶんあいつが出るだろう
きっと今頃筆記試験の出来がどうだったのか心配しているはずだ
筆記試験の感触を樹里に伝えようとしたのだが、あとは通話ボタンを押すだけなのにそれをなかなか押せない。なぜか気恥ずかしい気持ちが勝手に体の表面に滲み出てきて親指が動かないのだ。
薫は苛立たしげに舌打ちをすると携帯電話を再びリュックに放りこみ、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで再びキャンパスを歩き出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一番最後の薫がようやく面接に呼ばれた時、空の色は完全に日が暮れている色模様になっていた。
「廻堂 薫くん。お待たせしました。どうぞ」
ようやく試験官から名前を呼ばれ、キャンパスから戻り別室で待機していた薫は立ち上がった。
普段ゼミで使用している教室のドアを開ける。
そこには全部で六名の試験官が横一列に座り、室内に入った薫の一挙手一投足を冷めた視線で迎えた。
薫はほんのわずかだけ、下げたか下げていないかの微妙な角度で一応試験官たちに頭を下げる。そして顔の位置を水平に戻した時、あらためて目の前の試験官たちを見て「あっ!?」と口中で声を上げた。
「どうかしましたか? 廻堂 薫くん」
一番右端に座っていた眼鏡をかけた太めの中年の試験官が不思議そうに尋ねた。薫は慌ててその人物から目線を逸らす。
「い、いや。なんでもない」
「ではそこにお座りください」
薫は無言で試験官たちの前に置かれたパイプ椅子に座る。そして横目で一番左端に座っている試験官にもう一度強い眼差しを向けた。
その試験官だけは他の五人の試験官と服装が違っている。
他は全員スーツを着用しているが、その人物だけは濃紺の作務衣を着ていた。
真っ白い少し長めの頭髪と、同じ色の長い顎ヒゲが特徴的な小柄な人物だ。年齢は70代に入っていそうなその老人はとぼけたような表情で顎ヒゲを何度も撫でている。
進行役である右端に座る中年の試験官が「では早速ですがあらためて受験番号とお名前、そして出身地をお話しください」と促した。
薫は一呼吸置いた後で答える。
「受験番号185、廻堂 薫。出身地は下町区画だ」
作務衣の老人と進行役以外の四人の試験官が一斉に手元の用紙にサラサラと何かを書き出している。
「遠いところからの受験、ご苦労様です」と進行役が再び口火を切った。この人間が質疑応答の場を取り仕切っていくらしい。
「前半の筆記はどうでしたか? 難しかったですか?」
「すげぇ簡単だった。何も迷わないで書けた」
中央に座る試験官の口から「ほぉ」という感嘆の声が漏れる。しかし作務衣の老人が、「それはどうだろうなぁ。採点してみなければ分からんて」と半畳を入れた。
思わず舌打ちをしそうになるのを必死に堪え、薫は老人に刺すような視線を放つ。
そんな薫の強烈な睨みに気付いているはずの老人は、相変わらずのとぼけ顔で顎ヒゲを撫で続けている。
二人の間に漂う不穏な空気に気付かない進行役が次の質問を投げかけた。
「では面接を始めたいと思います。廻堂くん、まずこの職業に就こうと思った志望動機を聞かせてください」
予想通りの質問が飛んできた。
試験対策で購入した 【 FSS試験の面接対策応答マニュアル 】 に書かれていた通りだ。
薫はそのマニュアルに書いていた模範解答を思い出す。
『 女性の身体をいつも美しい形に保つため、自分にできることをしたいから 』
それがマニュアルが一押ししているお勧めの回答例だった。
なんとしてもマスター・ファンデの試験に受かりたいのであればこの理想の答えを口にするのが無難だ。
薫はゴクリと唾を飲み、問われた志望動機を口にする。
「妹と生きていくためだ」
マニュアルの答えは口にしなかった。
自分が死に物狂いでこの職業を目指すのはすべては可乃子のため。自分に嘘はつきたくなかった。
薫の志望動機を聞いた作務衣の老人以外の試験官が不可解な表情を見せる。
進行役が、「もう少し詳しくお聞かせ願えますか」と重ねて尋ねてきた。薫は頷く。
「俺の両親はもうこの世にいない。だからマスター・ファンデになる。妹を育てていくためにな」
面接室内に静かな動揺の波が広がった。
唯一、その動揺の波に飲み込まれていない作務衣の老人は、窓ガラスに顔を向け、芝生を悠々と横断中の一匹の猫を見ながら横に一列に座る試験官たちにボソリと言った。
「こいつの名字を聞いて、お前さんたちは何も感じないのか?」
五人の試験官はお互いに顔を見合わせる。
でっぷりと太った進行役は顔の汗を拭きながら「廻堂、廻堂……」としばらく考えていたが、急に大声を上げ、「 あぁ! もしかして万能工匠、廻堂 幸之進さんの…」
「そうだ。儂の一番弟子、廻堂 幸之進の馬鹿息子だ。こいつが幼い頃からよく知っとるわ」
作務衣の老人は窓から視線を外さないで呟いた。
薫の父親がマスター・ファンデだったと知った五人の試験官は、先ほどまでの興味のなさそうな視線を一点させて薫を真剣に見る。
中央に座っていた試験官が横長のデスクの上でわずかに身を乗り出した。
「君のお父さんがここにおられる国宝職人のお弟子さんだったとは気付かなかった。君のお父さんが万能工匠だったのは知っているよ。とても有能な職人さんだった。お父さんがあんな事になって遺された君も大変だったろうね」
「…………」
薫は眉間の縦じわをさらに深くさせて黙り込んだ。
五人の試験官の興味本位な視線を鬱陶しいと感じたせいだ。
自分に同情してくれているのは分かる。
だが自分に向けられた視線の中にわずかに含まれている憐れみの視線が薫にはどうしても耐えられない。
「確か犯人はまだ捕まっていないんだよね? 本当に惨いことをする奴がいたものだ。一刻も早く犯人が捕まることを祈ってるよ」
「…………あぁ」
思わず唾を吐き捨てたくなるのを堪え、薫はそう一言だけ答えるとその試験官から顔を背けた。
上っ面を羽箒で軽く撫でただけのような杓子定規な労わりの言葉など真っ平だった。
だがこの場でキレるわけにはいかない。自分の肩には可乃子の将来がかかっている。
「今君はご両親がいないと言ったが、お母さんも…」
「今年の三月に病気で死んだ。一年ほど治療を続けたが駄目だった」
「そうか……。それはお気の毒に」
自分に向けられている数々の視線にさらに憐れみの度数が増したのが分かった。
下唇を噛み締め、薫は膝の上に置いていた拳をきつく握りしめる。
爪が皮膚に食い込むぐらいにまで強く握りしめたので、左の手のひらに書いていた樹里のアヒルの顔面も、今は醜く歪んで蒼白になっていた。
「で、では次に参りましょうか? えー、廻堂くんは今回の試験でもし合格をした場合…」
進行役が続きの質問を口にし出す。
しかし試験官たちの態度がここから明らかに変わった。
マスター・ファンデの試験を受けに来ていた唯の受験生の一人、という業務的な姿勢を崩し、国宝下着職人、清水 長次郎の一番弟子である廻堂 幸之進の息子、として親身な態度で接してくる。
しかし薫にとってはそれが非常にわずらわしい。
父の名を借りなくても自分の力で合格を勝ち取るつもりでここに乗り込んできたのに、これも目の前の長次郎が余計な一言を言ったせいだ。
試験官たちの質問にぶっきらぼうに答え続けながら、薫は何度も長次郎を睨みつける。
だが長次郎はとぼけた顔で相変わらず窓の外ばかりを眺めていて、薫の方を一切見ようとはしなかった。