24. 運命の時、来る
運命の時、来る。
8月25日、土曜日早朝。
女性下着縫製協会が主催する、【 女性下着請負人 】の資格を取得するための試験日がやってきた。
試験は午後から一日をかけて行われるため、首都から離れた下町区画に住む薫は、首都で一泊をしなければならない。
「お兄ちゃん! 頑張ってね!! 集中だよ集中!!」
「薫、リラックスだぞ? 平常心を忘れないように」
決意みなぎる表情で家を出ようとする薫に、可乃子と樹里がそれぞれ激励の言葉を贈る。
薫はいつもの仏頂面を封印し、自分を信じてくれている二名の女性に向かって18歳らしい少年の笑顔でニッと笑いかけた。
「あぁ、分かってるって!」
「はいお兄ちゃん、お弁当! 途中で食べてね!」
「おうサンキュ」
可乃子が手渡してくれた弁当を受け取る。そして樹里の方に顔を向け、「可乃子のこと頼むぞ」と告げた。
「あぁ、任せておいてほしい」
胸の中心に手を当て、樹里が静かに頷く。
「明日俺が帰ってくるまで家の中にいても常に鍵をかけておけよ? この辺りは物騒だからな」
「了解だ」
「じゃあ行って来る」
薫が出発しようとしたその時だ。
「待てっ、薫!!」
と叫んだ樹里の瞳が鋭く光り、突如とても凛々しい顔つきへと急変した。
「あ? どうした?」
怪訝そうな顔で足を止めた薫に、樹里は射るような視線と厳しい声で問う。
「三秒以内に答えてほしい! ブラが誕生したのはいつだ!?」
「1913年2月12日」
それはまるで打てば遠くまで鳴り響く鐘のようだった。
突然の質問に慌てることなくあっさりと即答した薫に、樹里は瞳に宿した厳しい光を一時だけ和らげると、ふむ、と満足そうに大きく頷く。
しかし「まだだっ!」と叫び、続けざまに四連続の質問を放った。
「ワイヤー入り、もしくはシームレスカップブラの正しい畳み方はっ!?」
「まず裏を向けて形を整えホックを止める。両脇を軽く折り曲げ肩紐を中にしまい、肩紐を押さえつつカップの形をつぶさないように収納」
「では 【 ブラフェス 】 とは!?」
「年に一度、FSSがテーマを決めて各職人にテーマに沿った創作ブラを作らせ、その出来を競わせる祭典」
「今年の 【 ブラフェス 】 のテーマは!?」
「温故知新」
「ブラの正しい着け方は!?」
「肩紐をかけて身体を45度に倒し、アンダーラインをバージスに合わせたら左右それぞれの脇の肉を引き寄せながら胸をカップに収めてホックをとめる。その後、バージスがずれていないか、谷間の中心が真ん中にきているかを確認。肩紐の長さを調節後、アンダーベルトを肩甲骨の下に合わせる。……どうだ?」
「完璧だ……! 素晴らしいよ薫!」
質問をオールクリアーで返された樹里が感動の面持ちで高らかに拍手をする。傍で両手を握り締めてハラハラしながら行方を見守っていた可乃子も、兄が見せたこの勇姿に素直に賛辞を贈った。
「すごーいお兄ちゃん! スラスラ言えてたね!」
「へっ当然だろ」
弁当と実技試験に提出するブラを入れたリュックを左肩にかけた薫の元に樹里が駆け寄る。
「薫!」
「おう」
「この一ヵ月半、必死に努力してきた君なら絶対に受かるよ。どうか自分を信じてほしい」
「あぁ。お前にも随分と世話になったな。お前がいなかったらきっと全部は頭に入らなかったと思う。ありがとよ」
いつもの冷淡な態度とは違い、かすかな笑みを浮かべて素直に礼を言う薫に、樹里は一瞬呆然と上を見上げた後で嬉しそうに両の頬を赤らめた。
「わ、私は君の役に立てればそれでいいんだ」
「お兄ちゃん! ほらっ、チャンスチャンス!!」
「あ? 何がチャンスだよ?」
「今までの感謝の印にさ、ギューッって思いっきりハグしてあげなよ樹里ちゃんを!」
「い゛!?」
二名の女が期待に満ちた目で自分を見ている。
片方は抱きしめてもらえると思っている期待の目で、もう片方は肉親のラブシーンを間近で見られると思っている野次馬的な好奇心の目だ。
「てっ、天下の往来でそんな真似できるかっ! 戸締り忘れんなよ!?」
「あー! お兄ちゃん逃げたー!」
「薫! 気をつけて!」
「おう! 美味い土産買ってくっから待ってろ!」
女性陣の声に後押しされ、薫は気持ちを引き締めて下町区画の駅前へと走り出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
午後一時の試験開始に間に合うよう余裕を持って家を出たため、首都の試験会場には一時間半前に着いた。
前半は筆記試験で後半は実技と面接だ。
リュックの中には己の精魂を注入して創り上げた珠玉の一枚が、小型の収納ケースに入れられて試験官たちへのお披露目をいまや遅しと待っている。
薫は試験会場の入り口で一旦立ち止まると、建物の外観を見上げた。
FSSの試験会場は大学の講堂を借りて毎年行われるため、まるで大学受験をしに来たような感覚に、緊張感が余計に増してくるのを感じる。
威風堂々とした格式のある学び舎はとても大きく、本日マスター・ファンデの試験を受けに来た者たちを大上段から睥睨しているように見えた。身にのしかかるその威圧感に、負けず嫌いの薫は奥歯を強く噛み締める。
体内に巣食うこの緊張を一刻も早く弾き飛ばさねばならない。
だがそれをかき消すための対策はすでにこの身に実装済みだ。
まずは大学の門をくぐる前にもう一度深呼吸。
そして固く握っていた左の手を開き、リラックスできる最大の秘策アイテムを薫は自分の顔の前にかざした。
あのド下手くそな絵に似せて描くのは苦労したぜ、と思いながら口元に嘲笑を浮かべ、左手の手のひらの中をじっと眺める。
そこには樹里デザインの、不良集団に一斉にボコボコに殴られたかのような例のゆるキャラなアヒルが、かなりの間抜けな顔で薫の手のひらの中に消えない油性ペンでしっかりと描かれていた。