23. 世間知らずにもほどがあるだろうが
待合室で待機をはじめて三十分が経過した頃、先ほどのナースがまったく同じ笑顔で薫を呼びに来る。
「廻堂さん、診察ですのでご一緒にどうぞ」
動揺は一切表には出さず無表情でソファから立ち上がると、ナースの後をついていく。
【 診察室 】 と書かれた部屋に入ると、不安そうな樹里が丸椅子に腰をかけ、その向かいには四十代くらいの少し疲れた表情の男性医師がいた。
「あぁ、君が彼氏さんね」
診察室に入ってきた薫に一瞬だけ視線を送った後、医師はカルテに目を落とす。
「結論から言いますが、彼女は妊娠していませんよ」
「マ、マジかっ!?」
思わず叫んでしまった。
身体中に張り詰めていた力が一気に抜け、同時にみるみるうちに安堵の感情が湧いてくるのを感じる。
「えぇ、尿検査でも採血検査でも反応がありませんでした。ただしつい最近性交をした、というのならまだ分かりませんよ? ちなみに彼と最後にしたのはいつですか?」
医師は最後の部分はカルテから顔を上げて樹里に尋ねる。
樹里は丸椅子の上で恥ずかしそうに身をよじりながらも、おずおずとそのXデーの月日を答えた。
「し、7月17日、です……」
この樹里の答えに診察室内に一瞬で「ハ!?」という驚愕の空気が流れた。
医師も、薫も、そして今までずっと笑顔を保っていたあの垂れ目気味のナースでさえ、現在は奇妙な顔をしている。
「7月17日!? なら絶対妊娠していませんよ。今日は8月24日だし、あなた先週生理もきているじゃないですか」
受付より送信されてきた問診票に目を落とし、医師が呆れたように言う。
先ほど自分が飛ばして樹里に直接書かせたあの欄にはつい最近の日付が書いてあったようだ。
「本当に7月17日が最後なんですか?」
「はい、間違いありません」
「なら大丈夫です。吐き気がするなら風邪でも引いたんじゃないですか? 内科に行ってみてください。あ、君。次の人呼んで」
これ以上は説明しても時間の無駄と判断した医師が診察を切り上げ、ナースに次の患者を入れるように指示をした。
「お、お大事になさってください。さぁこちらからどうぞ」
いくぶん引きつった表情で、でもそれを表情に出すまいと必死なナースが診察室のドアをぎこちない動作で開けてくれる。
「あ、ありがとうございました」
丸椅子から立ち上がり医師にお辞儀をする樹里の手をひっつかむと、とんでもない赤っ恥をかいた薫は診察室を大股で出た。
待合室にまで戻ると背後で樹里が安堵の吐息をついている。
「良かった……。今子どもができてしまったら薫に迷惑をかけてしまうところだったよ」
「……お前、先に車戻ってろ。俺は精算を済ませてから行く」
薫は樹里を先に病院から出し、自費診療の料金を払うと急いで産婦人科を後にする。
もうこの病院には来られねぇな、と思いながら車に戻ると少し顔色の良くなった樹里が車内で待っていた。
「薫」
「待て、何も言うな。まず頭ん中を整理する。それからお前に話を聞くからそれまで黙ってろ」
「う、うん」
樹里を黙らせた後、車をスタートさせて薫は診察室内での樹里の受け答えをもう一度頭の中で再現してみた。
しかし整理すればするほど理解できない超ミステリーな部分がある。
そういえばこの近くにデカい森林公園があったな、と思い出した薫はそこへ車を走らせた。
「降りろ」
森林公園に車を停め、樹里に降りるように命令する。
「公園に何か用でもあるの?」
「いいから黙ってついてこい」
樹里を連れ、周囲に人がいなく、なおかつベンチがあるところを探す。
「座れや」
池の近くに並べられているベンチの前で足を止め、その場所を顎でしゃくると樹里が素直に指示に従う。その隣にドカリと腰を下ろし、ベンチの背に寄りかかると腕を組んだ。
「薫……、さっきから妙に不機嫌だが、私が妊娠していなくて嬉しいのではないか?」
「そのことだが、お前に確認しておきたいことがある」
自分に嘘をついていないかを確認するために、薫はすぐ横にいる樹里を強烈な眼力でギロリと睨みつけた。
「お前、さっきの医者に最後にヤッたのは7月17日だと言ったよな? お前その日は俺と糸を買いに出かけた日じゃねぇか。しかもあの日はお前はずっと家にいたはずだ。別の日と勘違いしてねぇか!?」
「勘違いなどしていないよ。だってあの日は薫と初めてデートした記念すべき日だ。間違えるなんてあるはずないだろう」
「デートなんてしてねぇよ。ならお前が妊娠したと思った相手の父親は誰なんだよ」
その質問に樹里は驚きで一瞬唖然とした表情をした。
「君に決まってるじゃないか」
今度は薫が同じ動作をする番だ。
「はぁ!? 俺はお前に手を出してねぇぞ!?」
「出したじゃないか、あの日」
「ど、どこでだよ!?」
「昼過ぎに居間の食卓で。薫、まさかあの時のことを忘れてしまったわけではないだろうな!?」
7月17日水曜日午後──。
あの日居間の食卓で起こったことを思い返した薫はまさか、と思いながらも尋ねた。
「……おい」
「なにかな?」
「……まさかとは思うが念のために聞いておく。お前、子供はどうすれば出来るのかは知っているな?」
「も、もちろんだよ」
「言ってみろ」
「は、恥ずかしいな…」
「いいから言え」
「え、えっと、昔お母様から教えてもらったのだが、まず好きな人に抱きしめてもらったら、まず、キ、キスをしてもらって、そしてその後はこちらからは極力何もしないで相手のリードにただ自然に身を任せておけば大丈夫と言われたよ。そしてその最中はできるだけ声は抑えるようにと教えられた。それが女のたしなみだと」
「お前ん家は戦国時代かっ!!」
突っ込みを我慢するのももはや限界だった。
沸騰する怒りで薫はベンチから立ち上がる。そしてこの突っ込みの後は一気にマシンガントークを炸裂させた。
「あん時のことは忘れてねぇよ! ハンド採寸をしたマスター・ブラの男に俺が嫉妬してるんじゃねぇかとか、いやそれしか考えられないとか、なら他にどんな理由があるんだとかお前がすげぇくだらねぇことをいつまでもグダグダグダグダ言いやがるから、面倒になって口を塞いだだけじゃねーか!」
「で、でも薫はあの時私の腕をいきなりつかんでキスをしてくれたし、さ、最後は口の中に、しっ舌まで入れられたし、だから、あれで妊娠したのかと…」
「アホか!! あれだけで妊娠してたら今頃この国の少子化は止まってるっつーの!!」
そう咆哮した後、薫は一気に脱力した様子で再びベンチにドサリと座り込むと鶏冠頭を抱え、
「お前どんだけ世間知らずなんだよ……」
と呻くように呟く。
「で、では普通あれだけでは妊娠しないのだろうか?」
「当たり前だっ!!」
激昂タイム、再び。
「もう二度とあの病院には行けねーぞ! 大恥かいちまったじゃねーか! どーしてくれんだゴラァ!!」
「でもあそこは産婦人科だから薫がお世話になることはないと思うのだが……」
「口答えすんじゃねぇ!!」
「す、済まない」
「済まんで済む問題か!! 俺の心臓に負担をかけさせてんじゃねーよ!! 今日一日で十年くらい寿命が縮まったぞ!!」
たまたまベンチのすぐ近くまで泳いできたカルガモが、薫のその怒声に驚いてグエッグエッと鳴きながら水面を蹴ってどこかへ飛んでいく。
そんな薫の憤激ぶりに心から申し訳ないと感じた樹里がベンチの上でしおらしく謝った。
「私の世間知らずがこんなにも人に迷惑をかけるものだとは思わなかったよ……。反省しているから許してほしい……」
「あぁもういい! よく分かった! 俺がお前を甘く見ていたのが悪ぃんだ! 今度ガキがどうやってできるのかをお前に教えてやる! ったく、とんでもねぇお嬢様を拾っちまったよウチは!」
そう叫び終わると、ついに怒りの神経がプッツリと切れてしまった薫は、ベンチの背もたれ部分に寄りかかると大きく反り返り、ハアァ、と深いため息をついて青空を見上げる。そして爽やかな上空を見たままでボソリと呟いた。
「……お前、六万坂グループの娘なんだな」
「な、なぜそれを!?」
樹里の顔色が変わる。
「さっき車ん中でお前バッグから保険証と一緒にICカード出してたろ。そこに書いてあった名字を見た。六万坂っていやぁ、次元転移装置を開発した超デケェ有名企業じゃねぇか。バカな俺でも知ってるぞ」
「あんな一瞬の間だったのに……」
「動体視力はそこそこのレベルなもんでな。もし目の前で針を揺らされても一発で針穴に糸を入れられるぜ? ま、とにかくお前の腹ん中にガキがいなくて良かったよ。帰るぞ、明日の試験前にもうちょい復習しておきたい」
「そうだ! 明日は君の試験……」
そこで樹里はウッと口に手を当てる。
「だ、大丈夫かよ? 車に酔ったか!?」
「……わ、分かったよ薫。今朝から吐き気がする理由が……」
樹里は目を閉じ、ハァと息を吐き出すと辛そうに話す。
「病院で妊娠していないと告げられてからたった今まで全然気分は悪くなかった。でもいよいよ明日がFSSの試験だということを思い出した途端、また急に吐き気が襲ってきた。きっと私は緊張しているんだ……」
「バカか!? お前が緊張してどーすんだよ!! おかしいだろ!?」
「薫は緊張していないのか?」
「してねぇよ!! するわけねぇだろうが!!」
薫は即座に嘘をついた。
しかしじわじわと体内に侵食してくるような、緊張という名の毒はすでに薫の全身を巡っている。だが 男としての見栄もあるので樹里の前でそれを口にするわけにはいかなかった。
薫の強い否定に、一切緊張はしていないと思い込んだ樹里が「さすがだな」と感心したような視線を送る。
「でも薫には絶対に合格してほしいんだ。可乃子のために」
「んなこと分かってるっつーの! さぁ戻るぞ!」
「あぁ、急いで戻ろう」
「お前車ん中で吐くんじゃねーぞ!?」
そう叱り飛ばされはしたが、車に乗り込む前に「これ飲んでろ」と自販機で購入した天然水のペットボトルが樹里に手渡される。その天然水の銘柄は、薫と海に行った時に樹里が飲んでいた物だ。
「ありがとう薫」
「吐き気が止まらねぇならシート倒して寝とけ」
「あぁ、そうさせてもらうよ」
樹里はおとなしく薫の指示に従い、助手席のシートを倒してその身を横たえる。
すぐに車は走り出した。そして樹里は気付く。
産婦人科に向かう途中もそうだったが、今も車の運転がとても穏やかなのだ。
七月末に可乃子と三人で海に行った時と今とでは、同じ人間が運転しているようには思えない。
目には見えない薫の優しさに、樹里の頬がほんのりと熱を持つ。
薫から渡された天然水をそっと左の頬に当てると、その冷たい感触がペットボトル越しに伝わってきて、わずかではあるが樹里の熱っぽい身体の温度を下げる手助けをしてくれていた。




