22. そいつの父親は誰なんだ
8月24日。
可乃子の夏休みも終わり、ついにFSS試験の前日となった。
いまさらジタバタしてもどうしようもないことは分かっている。
だがそれでも自分自身を納得させるため、何冊も買い込んで解きまくった問題集を一冊目から開き直し、薫は最後の足掻きに入っていた。
ページをめくるごとにびっしりと書き込まれている樹里のアドバイスは、綺麗な文字でとても読みやすい。しかも問題集の冊数を追うごとに、最初は赤一色だったアドバイスも、カラーマーカで様々な模様がつけられ、重要度に応じて色で変化をつけるスタイルになっていた。
ただし、『ワンポイントだぞ!』の後に必ず書かれている例のゆるキャラは少しも上達していない。
時折思い出したように登場するヘンテコなアヒルのマークは、またしても大勢によってたかってボコボコにされた後のような悲惨な顔をしていた。
そのどこまでも情けないボコられ顔に、思わず薫の口からかすかな嘲りの笑いが漏れる。
そして笑ったその瞬間だけ、気負いや緊張が解けていることに気付いた。
決してしくじることのできない明日の勝負。
神経が尖ったナイフのように張り詰めているのが自分でもよく分かる。
明日は持てる全ての力を出し切って、万全の体調で試験に臨むだけだ。
時計に目をやるともまもなく午後十二時になろうとしている。
もうすぐ昼か、と思い昼食の支度をするために薫は復習を一時止めて部屋を出た。
── そういえばあいつ朝から調子が悪そうだったな、夏風邪でも引いちまったか
今朝、朝食にほとんど手をつけていなかった樹里の様子をふと思い出し、今日の昼は何か消化のいい物を作ってやるかと考え、樹里の姿を探す。
しかし居間にも台所にも庭にもトイレにもいない。
買い物にでも出かけたかと思いながら念のために洗面所をのぞくと、洗面台のふちに両手をつけた樹里が寄りかかるように立っていた。
「おい、どうした? 具合でも悪いのか?」
立っているのも辛そうに見えたその後ろ姿に声をかけると、樹里がビクリと脅えたように振り返る。その顔色はとても悪かった。
「薫……。明日は君の試験だというのに申し訳ない……」
「ど、どうしたんだよ!? お前顔色真っ青だぞ?」
「わ、私はどうやら妊娠してしまったようだ……」
「な、に……!?」
「今朝からすごく気分が悪くて、吐き気がずっとしているんだ。身体も熱っぽいし……。こ、これは妊娠しているサインではないだろうか? この間可乃子と一緒にTVで観た症状とすごく一致している」
薫は絶句するしかなかった。
妊娠していると告げられたからではない。
樹里を妊娠させた相手は自分ではないからだ。
樹里を家に置くようになってまもなく一ヶ月半が経つが、まだ薫は自分を好きだという樹里に手を出していなかった。
夜は毎日可乃子を挟んで三人で寝ているせいもある。
だが二人きりになる日中に襲わなかったのも、迂闊に手を出して余計な厄介事を抱え込みたくなかったからだ。
今はまずマスター・ファンデになり、この職業で食っていける道筋を描くこと。
それが自分にとっての最重要課題。
可乃子だけではなく、樹里も一緒に背負うのか、すべてはその時に考える。
そう決めて、あえて手を出さないできた。
なのに妊娠したかもしれないということは、この家に来る直前に誰か他の男と関係を持っていたからということに他ならない。
そしてその男の子どもを身ごもってしまったということだ。
言葉を無くし、黙り込む薫に、「こ、こんな時に本当に済まない…」と樹里が謝る。
一呼吸置いた後で、ようやく薫は言葉を発した。
「……ちゃんと確かめたのか? 妊娠したかどうか調べるモンがあるだろ」
「まだ何も確かめていない。気分が悪くなったのは今朝からだから」
「お前、もし赤ん坊が出来てんならどうするつもりだよ」
「ど、どうするとは?」
「決まってんじゃねぇか」
薫は一切の感情を排した声で宣告する。
「産むのか、堕ろすのかってことだよ」
「う、産むに決まってるじゃないか! せっかく授かった命だぞ!?」
樹里のその即答に、動揺を悟られないよう薫は顔を横に背けた。そして洗面所から去る間際に命令する。
「……支度しろ。出かけるぞ」
「ど、どこへ?」
「病院に決まってるじゃねぇか。産むって決めたなら市販のモンで調べるよりそっちに行ったほうが早い」
「薫も一緒にきてくれるのか?」
あぁ、と一言だけ答えると、薫は険しい表情で洗面所を出て行った。
車に樹里を乗せ、産婦人科に向かう。
近場に産婦人科はあったが、近所の目を考え、あえて少し離れた病院を選ぶようナビに指示をする。
「お前、保険証持ってんのか?」
車内でそう尋ねると樹里はコクリと頷き、バッグの中の保険証を出しかけたが、またすぐにしまい込んでしまう。
「やはり保険証は出さないとまずいだろうか?」
「普通病院にかかる時は出すもんだろ」
「それは分かっているのだが……」
樹里はそう答えると黙り込んだ。
しばらく車内は静かになったが、やがて薫が口を開く。
「出したくない理由はなんだ? 俺に名字を知られたくないからか?」
「いや、違うよ。名字はもう捨ててきたと言ったじゃないか。私が心配しているのは、保険証を出すことによって、私の足取りをいずれ親族に知られてしまうのではないかと思って……」
「親戚の連中はお前のことを探してんのか」
「……恐らく探しているとは思う。私はやらなければいけないことすべてを投げ捨てて逃げ出してきてしまったからな」
「分かった。じゃあ保険証は出さなくていい」
「なくても診察はしてもらえるのだろうか?」
「たぶん問題ねぇよ」
もし樹里が保険証を持っていない可能性を考え、ある程度の金は持って来ていたが正解だったようだ。
「薫、その、も、もし子どもが出来ていた場合なのだが……、その時私はやはり家を出て行かねばならないだろうか……?」
「んなことしねーよ。腹にガキがいる女をほっぽりだせるか」
「では家にいてもいいのだろうか?」
「あぁ。……ここだな、着いたぞ」
ナビの指示に従い、車を停めて産婦人科の建物の中に入る。
病院には今まで何度も足を運んだ経験はあるが、産婦人科は初めてだ。
院内のクロスは薄いピンク調で、柔らかい雰囲気に彩られている。訪れる患者はほぼ女なことを考えると頷ける配色だ。
「今日はどうなされましたか?」
受付嬢が樹里に来院の目的を問う。
「あ、あの、は、吐き気がして、身体が熱くて……」
上がってしまってうまく伝え切れてない樹里に代わり、横から薫が「妊娠したかもしれないから検査してくれ」と簡潔に伝えた。
受付嬢は表情を変えずに、「では当院が初めての方はこれにご記入ください」と問診パネルを差し出してくる。
保険証がないため無保険で診察を受ける旨も伝えると、次回来院時に持参すれば保険で診察した分があれば差額を返金するという説明を受けた。
その説明を適当に受け流し、パネルを受け取った薫は待合室のソファに座り、付属のペンタブで質問欄を埋め始めた。そして書きながら時々横にいる樹里に質問をする。
「お前、誕生日はいつだ?」
「12月15日だ」
「熱は測ったのか?」
首を横に振る樹里に、“現在の熱は何度ですか”の欄にX印をつけ、「今までにデカい病気はしたか?」と続ける。
「いや、特にしていない」
「妊娠は初めてか?」
「あ、当たり前だろう!」
「…………」
薫はサラサラと汚い字で空欄を埋めていく。
次の「妊娠していた場合、出産しますか?」の質問には樹里に確認しないで「はい」に〇をつけた。
そして飛ばしていた途中の一問を指し、「ここはお前が書いとけ」とペンタブを渡す。
飛ばされたその質問を読んだ樹里は少し顔を赤らめ、その欄に正しい年月日を書きこんだ。
「書いたか?」
樹里からパネルを取り返すと【SEND】のキーをタッチし、記入を終えた問診パネルを受付に送信する。送信が正常に終わった問診パネルは初期状態に戻った。
「あ、私が戻してくるよ」
「いい。座ってろ」
ソファから立ち上がり空白に戻った問診パネルを受付に返す。
穏やかなBGMが流れる待合室の中で診察の順番を待っていると、ナースが音もなく近づいてきて樹里の側で片膝を着いた。
「廻堂さん」
樹里は一瞬、え、と不思議そうな顔をしたが、自分に話しかけているのだと気付き、慌てて「はい」と返事をした。垂れ目気味のナースがニコリと笑い、問いかける。
「診察室で先生のお話を聞く時、一人で説明を受けますか? それとも彼と一緒に聞きますか?」
「エ? あ、えっと、薫……」
樹里が助けをもとめるような視線を薫に向けた。
「一緒に聞く。一人じゃお前も心細いだろ」
「あ、あぁ。そうしてもらえると嬉しい」
樹里がホッとしたように答えた。するとナースが今度は薫に向かって笑いかけた。
「では診察の時にはあなたもお呼びしますからここでお待ちになっていてください。では廻堂さん、検査をしますからこちらにどうぞ」
「は、はい」
樹里が緊張した面持ちで立ち上がる。そしてすがるような視線で薫を見た後、ナースの後をついて検査室の方へと消えていった。
樹里がいなくなると、薫は傍からは分からないほどの小ささで、長く、そして重い溜息をついた。
他人の子を宿した女をこのまま家に置いて一生面倒を見ていく覚悟をまだ持ち切れていないせいで、この先のことを考えると気が滅入って仕方がない。
可乃子が中学生になった時には保護者である自分から避妊などについて妹に性に関しての話をしなければならないとは思っていたが、まさかこんな形で自分自身に降りかかってくるとは予想もしていなかった。
周囲のソファに視線を走らせると、自分以外はすべて女性でしかも全員妊婦のようだ。どの妊婦も愛おしそうに自分の腹に優しい眼差しを注いでいる。
どうみても今の自分は場違いの人間だ。
FSSの試験を前日に控えた今日、突如見舞われたこのトラブルに、薫は出来ることなら恥も外聞もなくこの場で頭を抱えたかった。