21. お前根回し良すぎだろ
児童保護局員の訪問があったその日の夜。
三人で夕食を取っている最中に、樹里が可乃子に優しい視線を向けた。
「可乃子、実は薫と私で近い内に結婚しようと思ってるんだ」
苦手な茄子の味噌汁を嫌々啜っていた薫が、それを聞いて汁をブハッと盛大に吐き出す。
幸い可乃子は口の中に食物を含んでいなかったので、「エエエエエエー!?」という驚きの声を上げるだけで済んだ。
「ホントお兄ちゃん!? 樹里ちゃんと結婚するの!?」
「し、しねぇよ!! おい!! 何勝手に話を進めようとしてんだお前は!?」
「午前に私がその提案をした時、嫌だとは言わなかったじゃないか」
「許可もしてねぇだろうが!! お前がそんなぶっ飛んだ事を言い出すから頭がついていけてなかっただけだ!」
「えー! でも可乃子は賛成だよっ! 樹里ちゃんがホントのお姉ちゃんになってくれたらすっごく嬉しい!」
「ありがとう可乃子」
「うん! ねぇ樹里ちゃんこれ見てっ!」
可乃子は食卓の椅子から立ち上がると、居間の飾り棚に置いてある小さな写真立てを持ってくる。
そこには今は亡き両親が、ブラファイルを覗き込んで真剣に何かを話し合っているシーンが切り取られていた。しかし母の彩子の顔はよく映っているが、父、幸之進の顔は手にしているファイルで半分以上隠れてしまっている。
「これは可乃子のご両親の写真だろう?」
「うん! これね、お母さんがデザインしたブラをお父さんとお母さんが一緒に見ているところなんだけど、可乃子、最近思ってたんだ! お兄ちゃんと樹里ちゃんが毎日顔をくっつけて試験勉強をしているのがこの写真のお父さんとお母さんになんとなく似ているなぁーって! だから可乃子は結婚には賛成だよっ! きっと樹里ちゃんなら愛想の悪いお兄ちゃんをうまくフォローしてくれると思うし!」
二人の結婚にもろ手を挙げて賛成の意思を示した可乃子は、噴きこぼしてしまった味噌汁を拭いている薫に祝福の言葉を贈る。
「おめでとーお兄ちゃんっ!! でも樹里ちゃんがウチに来てまだ一ヶ月ぐらいなのにすごいスピード結婚だね! まるで芸能人みたい!」
すると薫は手にしていた布巾をシンクに思い切り投げつけた。そしてその場で女二人を怒鳴りつける。
「バカやろう!! 俺は結婚なんてしねーぞ!? なんでこの年でもう嫁をもらわなきゃならねぇんだ!!」
「薫、愛があれば年齢は関係ないのでは?」
「おっお前にそんな感情はねーよ!! 勉強してくるぞ!!」
最初に食事終わらせた薫は自分の茶碗を乱暴に台所に置き、荒い足取りで部屋を出て行く。だが数分後にヌウッとまた台所に姿を見せ、黙って食器を洗い出した。
「あぁ薫、そのままにしていてほしい。私が今洗うから君は勉強を」
「……いい、俺がやる。お前手をケガしてんだろうが」
そう言われた樹里は自分が手を怪我していたことを思い出し、薫に巻いてもらった左手の包帯に視線を落とした。
「いや、傷も浅かったしこれぐらい何でもないさ。動かすのにも支障はないから」
「いいって言ってんだろ。食ったらこっちに下げてくれればいい」
と背を向けたままで薫が答える。
「樹里ちゃん、それ包丁で切っちゃったの?」
可乃子が心配そうに尋ねた。
本当は薫が自殺すると勘違いしてナイフに飛びついたのが原因だが、その事実を話せば児童保護局の人間が来た事も話さねばならなくなってしまうので樹里は「あ、あぁ」と言葉を濁す。
薫と離れ離れになることを極度に恐れている可乃子に、保護局がまた様子を見に来た事は隠しておかなければならないことだった。
「樹里ちゃん、包丁を使う時はヘンに力を入れたらかえって危ないよ。気をつけてね」
事実を知らない可乃子は包丁を使うコツを樹里にアドバイスする。樹里は小さく笑うと、「あぁ気をつけるよ」と答えた。
「でもさー……」
黙々と茶碗を洗う薫に聞こえないよう、可乃子はヒソヒソ声に声量を落とし、樹里に顔を近づける。
「なんだかんだ言ってさー、うちのお兄ちゃんって樹里ちゃんのことをちゃーんと気にかけてるよねっ」
「それが薫の優しいところだよ。私は薫のああいう不器用なところにも魅かれているんだと思う」
「あのね樹里ちゃん。うちのお母さんね、お父さんより年上だったんだ。だからきっと樹里ちゃんとお兄ちゃんもうまくいくと可乃子は思うよ」
「ありがとう可乃子」
「お前ら! いつまでもぺちゃくちゃ喋くってねぇで食い終わったんならさっさと下げろや!」
首をぐるりと後ろに捻じ曲げ、薫が怒鳴ったのでこの話は一旦ここで打ち切られることとなった。
今日も可乃子の部屋で三人は川の字になって眠る。
最近では可乃子も薫と樹里に「一緒に寝よう」とは言わなくなっていた。三人並んで一緒に眠るのがもはや当たり前、といった空気になってきているせいだ。
「……薫、寝てしまったか?」
樹里の囁き声に、薫は「あぁ?」と生返事をする。
「良かった、起きていたか」
「なんだよ」
「そ、その、さっきの話しなんだが、前向きに考えてはもらえないだろうか?」
「アホかお前。なんで俺らが結婚しなきゃなんねーんだよ」
樹里を睨みつけられない代わりに天井に眼をつける。
「だから保険の意味でも…」
「んな保険は要らねぇよ。俺は必ず受かる。絶対に受かってみせる。それにもし落ちたとしてもお前の助けは要らねぇよ」
「薫……」
落胆したその声色に、ついに我慢できなくなった薫がまたガバッと上半身を起こした。そして横たわる樹里の顔に向かって指をさす。
「お前よ、軽く考えすぎてねぇか!? 結婚しちまえば識別子も強制的に書き換わっちまうし、それにもし、ま、万一だぞ? 万一離婚するようなことにでもなれば、お前の経歴にも傷がついちまうじゃねぇか!」
「君はいつもそうやって私の心配をしてくれるんだな……。本当に嬉しいよ」
感慨深げな樹里に、薫は焦って否定する。
「しっ、心配なんかしてねぇっつーの!」
「薫、私は決して結婚を軽いものだとは考えていない。むしろ自分に与えられた人生の中で一番の重要事項だと思っているよ」
「分かってんじゃねぇか。ならもっと慎重にだな…」
「……考えたさ。考えた上での結論だ。私は君の妻になりたい。それが自分のありのままの気持ちだよ」
室内が薄暗いので薫には分からなかったが、そう答えた樹里の瞳には静かな決意がこめられていた。そして樹里もゆっくりと布団から身を起こす。
「あの児童保護局の人間を追い払うために咄嗟に言った思い付きではないよ。その証拠に、もう婚姻届の出し方は事前に調べていたんだ。私は世間知らずだからそういう類の手続き方法も分からなくてね」
「おま、なに勝手に下調べしてんだよ!?」
可乃子が起きないよう大声を出さないようにはしたいのだが、ムキになるせいでどうしても声がデカくなる。
「結婚をするには婚姻届けに見届人の名を添えて提出しなければならないようなのだが、薫にも私にもそれを頼むべき人間などいないだろう? その場合は私たちの指紋も合わせて提出しないといけないようだ。指紋を取られて保存されるのはあまり気持ちのいいものではないが、私たちの場合はいたしかたないだろうな」
調べた届出の出し方を話し終えた樹里は、ほの暗い室内の中で薫の顔を正面から真っ直ぐに見つめる。
「薫、私は君が好きだ。君と共に生きていけたら、きっと私の人生は充実したものになると思う」
「こ、断る! 俺には可乃子がいるんだ。俺にとって一番大事な奴は可乃子だ。これ以上余計なモンを背負う気はねぇんだよっ」
「薫、私は君に背負われる気などないよ。君が抱えている荷物を私も一緒に持ちたいんだ。君にとって可乃子が何よりも一番大切なのも知っている。それに一緒に暮らすようになってまだ日は短いが、私も可乃子が大切だよ。だから君と可乃子と私の三人でこの先も一緒に歩いていけたら私はそれで幸せなんだ」
「ぐ……」
「薫、私を君の妻にしてほしい」
「あ、頭沸いてんじゃねーのかお前!? さっさと寝ろ!!」
強引に会話を切り上げドサリと布団に潜り込む薫の耳に、「どうか前向きに検討してほしい」と樹里の静かな懇願の声が聞こえてきた。