20. 何が万一の保険なんだ
驚きの表情を浮かべる初老の女性に樹里ははっきりと宣言する。
「近日中に婚姻届を出します」
「あらそうだったの。でも余計なお世話かもしれないけど、この廻堂 薫さんは高校を卒業したばかりで働いていないのよ? だから私たち児童保護局が可乃子ちゃんを施設に預けるようにって何度も足を運んでいるの。そんな人とあなたは結婚するおつもりなの?」
「先ほども申し上げましたが、薫は十日後に行われるマスター・ファンデの試験を受けます。薫は必ず受かりますから。それにもし万一薫が試験を落ちたとしても、また来年トライすればいいことです。その間は私がこの人に代わって働きます。それなら何も問題はないはずですが?」
「あら、あなた働いてらっしゃるの?」
「いえ、働き口はこれから見つけます」
「まぁ、職も見つけていないのにいささか楽観的すぎるのじゃなくて?」
「大丈夫です、当てはあります。先月、女優にならないかとスカウトされましたから」
樹里は静かな自信を携えてそう告げる。一方の薫は「おまっ、それ…」とまで言いかけて慌てて口を閉じた。
そして樹里は自らに向けられた懐疑的な視線を強引にねじ伏せるように、力強い眼差しで女性を正面から射抜く。
「私は廻堂 薫の妻となってこの人を支えます。ですからもうここには来ないでください。保護局の力を借りなくても可乃子は私たち二人で立派に育てます。どうぞお引取りを」
樹里の静かな気迫に気圧された女性は、少し考えるような素振りを見せる。
「……近いうちにまた様子を見に来ます。その試験が受かったかどうかも知りたいですし。とにかくお兄さんで保護者でもあるこの方がちゃんと職に就くまでは私も局員としての仕事をしなければいけないのでね。では今日はこれで失礼します。可乃子ちゃんによろしくね」
女性はゆっくりと一礼すると廻堂家を去っていった。
玄関内に重い空気だけが残る。
保護局の人間に責められ、胸中にじわじわと湧き起こりだしている苦いプレッシャーに軽い疲労を覚えた薫は黙って自室へと戻り始めた。
薫、と背後で自分を呼ぶ声がする。
だが薫は足を止めずに自分の部屋の中へと入っていった。
「薫……」
玄関先に一人取り残された樹里は、どうしていいのか分からない様子でしばらくその場所に立ち尽くす。だがやはり薫が気になるのでその後を追った。
樹里がそっと部屋の中を覗くと、勉強机の前に座った薫が和式ナイフの刃を出してそれを鋭い目つきでじっと眺めている。思い詰めているようなその表情を見た樹里の顔から瞬く間に血の気が引いた。
樹里は一気に部屋の中へと駆け込み、
「薫!! 馬鹿な真似はよせ!!」
と無我夢中でナイフを持っている手に飛びつく。
「うぉ!?」
背後からいきなり飛びつかれて驚いている薫の手から必死にナイフをもぎ取る。一瞬、手の中に熱い痛みが走ったが、なんとかナイフを取り上げることに成功した。
心臓がドキドキと震えているのが分かる。
荒い息を吐きながら壁に向かって後ずさりをすると、樹里の手を見た薫が動揺している。
「おまっ、血が出てるじゃんか!! 何やってんだよ! それ貸せ!!」
薫から和式ナイフを強引に奪った際に手のひらが切れてしまったようだ。慌てた薫がナイフを取り返そうと近づくが、樹里は取り上げられないようナイフを後ろ手に隠し、再び叫ぶ。
「バカ!! 君には可乃子がいるんだぞ!? 君が死んでしまったら誰が可乃子を守ってやるんだ!!」
「あぁ!? なんで俺が死ぬんだよ!?」
「今このナイフで自分の命を絶とうとしてたじゃないか!」
「なに!? すっ、するかアホ!! 親父の形見を眺めてただけじゃねーか!!」
「これが君のお父さんの、形見……?」
「いいからそれ寄越せ! こっちに来い!」
樹里から形見のナイフを取り上げるとそれを机の上に放り投げ、手首をつかんで引きずるように洗面所へと連れ込む。
「おら! 手を出せ!」
蛇口から水を出し、掴んだ手首をそこに突き出させた。そして切った手のひらを水でよく洗い、傷の深さを確認すると「あぁ浅いな」と安心したように呟いた。
急いで救急箱を用意すると中からガーゼを取りだし、ケガをした手のひらで強く握るように指示する。
「これを握れ。で、手はこの位置まで上げてろ」
手を心臓より高く上げさせ、ガーゼをしばらく握らせていると、やがて出血は治まってきた。
すぐに消毒薬で傷口を消毒し、新しいガーゼを当てる。薫のこの迅速な処置に、樹里はまた感心した視線を向けた。
「君は応急処置も手際がいいんだな」
「これぐらいのケガなら昔しょっちゅうしてたからな」
薫は自嘲気味に言い、包帯を巻き終える。
「痛むか?」
「いや大丈夫だ。ありがとう」
「ったく面倒かけさすんじゃねーよ。久々に結構焦ったぞ」
「さっきの児童保護局の人間にも焦っていたようだったが?」
保護局の名を出した瞬間にまた薫の形相が険しいものに変わった。
「……しつこい奴らでよ、可乃子は施設にはやらんと言ってるのに全然諦めねぇんだ」
「また来ると言っていたが……」
「何度来たって俺の返事は変わらねぇ。あいつがデカくなるまでは俺が面倒見るって決めてんだ」
「ではそのためにも試験に受からなければ。試験に受かってマスター・ファンデになりさえすれば、あの女性もきっと引き下がるだろう」
薫は「あぁ」と低い声で呟いた。
だが絶対に失敗できない、という恐怖はすでに黒い液体となって薫の足元にじわじわと溜まり始めている。その恐怖を蹴散らすように、絶対に受かると自分に暗示をかけた。
「……絶対に受かってやる。何があってもな」
たった一人の妹を失うわけにはいかない。
可乃子が自分と離れる事を極度に脅えているように、これ以上家族を失うことなど薫にも耐えられそうになかった。
「大丈夫だよ、薫なら」
樹里が薫の肩に手を置く。
「でも、万一のための保険というのはあってもいいとは思うが」
「万一の保険だと?」
樹里は頷くとその保険の内容を簡潔に説明する。
「もし仮に君が試験に失敗したら、またあの女性の気炎が上がってしまうことだろう。可乃子のためにもそれは何としても避けねばならない。だから薫、その保険として私を君の奥さんにしてくれないだろうか?」
「な、なにぃ!? さっきのはあのクソババァを追い返すために言った嘘じゃないのかよ!?」
「いや、私は本気だよ。それに妻帯者ともなれば社会的な信用も増すことだろう。可乃子を手元においておきたいのであれば、それぐらいの保険は必要だと私は思う」
「お前意味分かって言ってんのかよ!? けっ、結婚だぞ結婚!? つまり俺らが夫婦になるってことなんだぞ!?」
「いいじゃないか。そうなれば私は嬉しさで震えるが?」
「バ、バカだろお前!?」
「夫となる人に口答えをするつもりはないが、私は世間知らずだが馬鹿ではないと自負している」
樹里はそうあっさりと否定した後、薫に柔らかい笑みを見せた。
「それにもし万が一何かのアクシデントで今年君が試験に失敗したら、その時は妻である私が働くよ。君は主夫でもいいじゃないか」
「ちょい待てや! 働くってさっきあのクソババァに言ってた例のAVじゃねぇだろうな!?」
「あぁ、それで行こうかと思っているよ。せっかくスカウトされたんだ。映画に主役で出演できると言われたし、きっとあの男と契約すればそれなりの出演料が発生することだろう」
「だだっ、駄目だ駄目だっ!! いいかっ、それだけは絶対に許さねぇぞっ!?」
目を剥いてAV出演を駄目出しをする薫に、樹里は右肩にかかっている長い髪をふわりと後ろに払うと優しく微笑みかける。
「薫のプライドを傷つけてしまって済まない。今の話はあくまでも万が一君が試験に落ちたら、という場合だよ。薫が合格すれば私も女優にはならないさ。妻として旦那さまのお世話を一生懸命したいしね」
「ぐ…」
ここで何と返していいのかが頭の悪い薫には分からない。
「ところで薫、婚姻届はいつ提出する?」
直視するのに気合が必要なぐらいのとても晴れやかな表情で、樹里は二の句を告げることのできない薫にニッコリと笑いかけた。