19. ふざけんな あいつだけは何があっても渡さねぇ
八月中旬。
樹里を居候としてここに置くようになって一ヶ月と十日が経った。
小学校が夏休み中のため、日中の廻堂家の人数は今は常に三人だ。
高校を卒業してからの薫は普段一人で家にいることが多かったが、今はいつも家の中に誰かがいる。
わずらわしいと思うこともないわけではないが、自分以外は女性なので家の中が華やいだ空気になるのは悪くなかった。
それでも可乃子は時々友達と遊びに行ったり、わざわざ図書館にまで出かけて夏休みの宿題をしてくることがある。薫が試験勉強に集中できるよう、可乃子なりに気を使っているらしい。
「おい!」
薫は居間の窓を開け、猫の額ほどの庭にいる樹里を呼んだ。
朝食を食べた後しばらくは居間でTVを観ていたはずなのに、気付けば可乃子がいなくなっている。
「どうした薫?」
洗濯物を外に干していた樹里は薫のTシャツを片腕にかけたままで振り返る。
午前の陽光が樹里の赤みがかったダークブラウンの髪の上でキラキラと反射しているその様を、薫は仏頂面で眺めた。
「可乃子がいねぇんだ。お前何か知らないか?」
「あぁ、一時間くらい前に友達と遊びに行くって出かけたが」
「あいつ、俺に何も言わないで行ったのか……!」
薫は舌打ちをする。
すると樹里が洗濯物を干す手を止めて薫の側に来た。
「薫が勉強していたから邪魔したくなかったんだよ。だから私に言伝を頼んで行ったんだ」
「ならお前もさっさと言えよ! 心配するだろうが!」
「本当に薫は心配性だな……。可乃子はしっかりしているから大丈夫だよ」
「あいつはまだ十歳なんだぞ? 保護者として俺はあいつの行動を知っておかなきゃならねぇ」
「そうあまり肩肘張らないほうがいいと思うよ薫」
「うるせぇ! お前に何が分かるってんだ!」
薫はそう怒鳴りつけたが樹里は特に気にする風もなく、薫のTシャツを自分の身体に当てる。
「それにしても薫のシャツは大きいな。ほら、これを私が着たらワンピースになるぐらいだよ」
確かに下着の上に着てウエストの辺りをリボンや紐などで絞ったら、かなりミニ丈のワンピースになりそうだった。
「……くだらねぇことしてないでさっさと干せよ。採点溜まってきてんぞ」
「あぁ分かったよ。すぐに済ませる」
「食卓の上に置いとくからな」
「そういえば薫、どうして今日は部屋で勉強をしているんだ? 食卓で一緒にした方がやり取りも楽だと最初に言い出したのは薫なのに」
「べ、別にいいだろ。一人の方が集中できんだよっ」
そう答えた直後に窓ガラスをピシャリと締め、薫はさっさと自室に戻った。
今、樹里には「一人の方が集中できる」と言ったが、本音は少しニュアンスが違う。
「一人の方が集中できる」
ではなく、
「お前がいると集中できない」
なのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
所定の位置に座り問題集の続きに取りかかる。
だが海に行った日の夜に「自分を家族と思ってくれると嬉しい」と樹里に言われた言葉が今でも頭に残っていてどうにも集中しきれない。
集中力を取り戻すため、ナイフで鉛筆を削ることにした。
鋭利な刃先を鉛筆と交差するように寝かせ、親指で押し出すようにゆっくり削る。
黙々と鉛筆の六角形の山を順に削っていると、この二つ折りの和式ナイフを手にし、同じように鉛筆を削っていた父の姿を思い出した。
綺麗に削り終えた鉛筆を机の上に置き、薫は使い込まれた和式ナイフを眺める。
これは父の形見の一つだ。
── いいか息子一号 人に指図されるな 自分のやりたい道へ進め
この形見を見ていると過去の父がそう語りかけてくるかのようだ。
生前、幼い薫に父がよく言っていた “ 男が守るべき鉄の掟 ” の一つであるこの言葉。
しかし今では大きなプレッシャーだ。
もし8月25日の試験に落ちるようなことがあれば、次のチャンスは一年後まで巡ってこない。
丸々一年もブラ浪人として生きていくわけにはいかなかった。
もしそうなった場合、幼き頃からの夢を諦めて何か別の職に就くか、食いつなげる程度のアルバイト先を見つけて一年後のFSS試験の再リベンジを誓うかしか道は残されていないだろう。
だがもしそれすらも出来なかった場合、薫は窮地に立たされてしまう。
だから今はひたすら努力するのみだ。
マスター・ファンデの合格に向けて。
和式ナイフの刃を綺麗に拭い、引き出しに中にしまおうとしたその時、家の中に軽快なメロディが鳴った。来客を告げるメロディだ。
母が亡くなって二ヶ月ほどは自宅に様々な人間が訪れていたが、最近では滅多に客など来なくなっていたので久々に聴いたメロディだ。
だがアップテンポなそのメロディとは裏腹に、薫の中で悪い予感が走る。
素早く玄関先へと向かうと、やはり悪い予感は的中していた。
「こんにちは」
「……なんの用だよ?」
玄関を開けた先に立っていた人物を薫は思い切り睨みつける。
年齢は五十代半ば程度の女性だ。
睨まれた女性は薫に愛想笑いを浮かべる。
「今は小学校も夏休みでしょう? 可乃子ちゃんの様子を見に来たの。可乃子ちゃんはいらっしゃるかしら?」
「いねぇよ。友達と遊びに行ってる」
「どこに行ってるのかしら?」
「近所の公園かどっかだろ」
「あなた、保護者なのに可乃子ちゃんの行動を把握していないのね」
やんわりとだが、明らかに責めているようなその物言いに、薫はキレた。
「だから遊びに行ってるって言ってんだろうが! 子どもなんて遊ぶ場所をコロコロ変えるもんだろ!? 今どこにいるかなんて分かんねぇよ!」
「そんなに大声を出さなくてもちゃんと聞こえてますよ。私はまだ耳は充分に達者ですから」
そう言うと女性はもう一度儀礼的な笑顔を浮かべた。目立ち始めた顔の皺がさらに深くなる。
「それであらためて考えてくれたかしら? 可乃子ちゃんの今後のこと」
「しつこいぞ! 何度来たって俺の答えは変わらねぇ! 可乃子を施設になんて絶対にやらねぇからな!」
憎しみで相手を燃やし尽くすような鋭い眼差しで、薫は児童保護局の職員に吼える。
だが目の前の敵は長年生きてきた年の功なのか、どこまでも淡々とした自分のペースを崩さない。
「ご両親を失って可乃子ちゃんを一人にしたくないのは分かるわ。でもあなたはまだ未成年なのよ? しかも定職にも就いていない。こんな家庭環境が可乃子ちゃんにいいとは思えないわ」
「勝手に決め付けんな!! 俺はもうすぐFSSの試験を受けてマスター・ファンデになる! それで可乃子を食わせていく! それなら文句はねぇだろうが!」
「ではもしその試験を落ちたら?」
「落ちねぇ! 絶対に俺は受かる!!」
「そんな未確定な希望論だけで振り回される可乃子ちゃんがかわいそうよ。本当に可乃子ちゃんのことを思うなら、少しでも早く施設に…」
「帰れクソババァ!! 可乃子は絶対にやらねぇ! あいつだって俺と一緒にいたいと言ってくれている!」
「もちろん可乃子ちゃんの気持ちも分かるわ。例え暴力沙汰ばかり起こしてきて何度も警察のご厄介になっていたようなあなたでも、それでも可乃子ちゃんにとってはたった一人のお兄さんだものね」
「くっ……」
搦め手のようなその陰湿な口撃に、薫は言葉を失う。すると一気に事態を収拾しようとした女性の口がますます滑らかに動き出した。
「それに何かしら、マスター・ファンデを目指すですって? それって女性の下着を作るお仕事のことよね。あなた男性でしょ? 男性がそんな職業を目指すなんておかしくないかしら? 私にはあなたがとても邪な気持ちでその職業を目指しているように思えるわ」
「何だと!? ふざけんな!!」
怒りで体中の血流が一気に逆流し始めたような感覚が走る。
「俺はそんなくだらねぇ気持ちでマスター・ファンデを目指しているわけじゃねぇ!!」
「どうかしら? あなたの今までの素行を鑑みれば信じる人なんて誰もいないんじゃなくて? それにあなた今その右手に何を持っているの? それってナイフじゃない?」
「あっ!?」
机の引き出しにしまおうと思ってしまい忘れた和式ナイフを無意識に持ってきてしまっていた。
慌ててジーンズの尻ポケットに突っ込む。
「家の中でもそうして常に刃物を携帯しているなんて……。なんて恐ろしいことでしょう。このままあなたが可乃子ちゃんの面倒を見ていけば、きっと可乃子ちゃんはいつか道を踏み外してしまうわよ。あなたのようにね」
「このクソババアッ……!!」
薫の怒りがついに頂点に達する。
相手が初老の女性でなければとっくにつかみ掛かっているところだ。
「そのようなご心配をなさらなくてもこの人は受かります」
一触即発のただならぬ空気に、静かに別の声が割り入る。
洗濯物を干し終え、玄関先の騒ぎに気付いた樹里が廊下の先から姿を現した。
「大丈夫です。薫は類まれなる才能を持っていますから」
「あら、この方は? 私は初めて見る方だけど」
女性は樹里本人にではなく薫に尋ねる。
しかし家出人を住まわせているなどと本当のことを言えばますます心象が悪くなってしまうことは必須だ。
黙ってしまった薫に、すかさず女性が責め始める。
「あなた、定職にもついていないのにこんな若い女性を連れ込んで同棲をしているの? なんて不埒な……。やはりこんな乱れた家庭環境に可乃子ちゃんを置いておくのはよくないわ」
「ど、同棲なんてしてねぇよ!!」
「じゃあこの方はあなたのなんなのかしら?」
「う……」
再び返答に詰まる薫を見て、初老の女性の口元に勝ち誇った笑みが浮かんだ時、樹里が冷静な表情でまたおもむろに口を開いた。
「私はこの人の妻になる予定です」
と。




