18. だからそういうことを言わせんな
まもなく時刻は午前零時になろうとしている。
海で半日たっぷりと遊んできたせいで疲れた可乃子はいつも以上にぐっすりと深い眠りに入っているようだ。
しかし照明を落としたほの暗い部屋の中ではまだ寝付いていない人間が二名いた。
もちろん薫と樹里だ。
二人の間には何やら緊迫した空気が流れている。
「……おい」
地の底から這うような薫の呼び声に、樹里が布団の中でビクンと体を揺らす。
「な、なにかな?」
「……俺が言いたい事はなにか分かるな?」
「も、もしかしてあのお握りのことだろうか?」
「分かってんじゃねーか。どうしてお前が弁当作りに参加した? 参加は許さんと言っていたはずだぞ」
「可乃子が作らないと上達しないと言うから……」
「可乃子のせいにすんじゃねぇ」
「そ、それに私は一つしかお握りを作らなかったよ?」
「それがちゃっかり俺の元にきたじゃねぇか」
「薫に食べてほしくて作っているんだ、それは当然だろう?」
「お前なぁ……!」
怒りを身体を突き動かしたのか、ついに薫がムクリと起き上がる。
「ならなんでまともな具を入れねぇんだ? なんだ今回のあの具は? あんなもんをぶち込んだ理由を言ってみろやオラ」
「こ、この間可乃子と買い物に行って和菓子屋さんで見かけたイチゴ大福が美味しそうだったから、あれを真似してみようと……」
「アホかお前!! だからって握り飯に苺を丸のまま入れてしかも練乳をたっぷりかける奴がどこにいるんだよ!?」
思わず大声を出してしまったが可乃子は目を覚まさない。今日はよほど疲れているようだ。おかげで怒鳴り声にも拍車がかかる。
「しかも齧った後に滲み出てきた汁で飯粒が真っ赤になるしよ、あんなホラーな握り飯見たことねぇぞ!?」
「でも薫は全部食べてくれたな。やはり君は優しいよ」
「優しくねぇ! もったいねぇから食っただけだ!」
騒ぎすぎたせいか、ここでさすがに可乃子が少し眉間に皺を寄せて寝苦しそうな様子を見せる。続きの怒号を強引に飲み込むと、その引き換えに冷静さが少しだけ戻った。
いつもの癖でチッと舌打ちをすると、樹里が申し訳無さそうに身を竦める。
その姿を見ると脱力感でフゥとため息が出た。
まぁこいつも悪気があってやっているわけではないし叱ってばかりじゃなんだなと思った薫は、無理やり褒めるポイントを探す。
「……ま、でも今回は爆弾級のデカさではなかったな。前より三角に近い形にもなってたしよ」
「可乃子に握り方を教えてもらったんだ」
薫は口中で「けっ」と言葉を吐く。
「教えてもらえば出来るんじゃねーか。それに俺がやるなって言ってもどうせお前また何か作るんだろ?」
「駄目だろうか……?」
「なら頼むからフツーのもんを作ってくれ。いいか、一切の余計なアレンジはするな。味付けに対するお前の感性はアグレッシブすぎて俺にはついていけん。分かったな?」
アレンジの技は封印されたが料理自体の禁止はされなかったので、樹里は「分かった」と嬉しそうに頷く。
「それと薫、今日は海に連れて行ってくれてありがとう。可乃子も楽しかったようだが、私もとても楽しかった」
「おう」
「でも薫が海から拾い上げたヒトデを肩にいきなり乗せられた時はビックリしたが」
「お前な、大げさなんだよ。あんなヒトデくらいで絶叫しやがって。周りの視線が集まっちまってこっちが恥をかいたじゃねぇか」
その時の自分の様子を第三者の視点から想像した樹里がくすくすと笑う。
「でも可乃子は大爆笑してたじゃないか。可乃子があんなに笑っているところを初めて見たよ。あんなに素敵な笑顔ができる子だったんだな」
薫は少しだけ黙った後、シャワーを浴びたせいで立ち上がりの悪くなっているアッシュブラウンの髪を大きく掻きあげる。
「……また可乃子をどこかへ連れて行く時はお前も連れてってやるよ」
「本当に?」
「あぁ。可乃子が喜ぶからな。もう寝るぞ」
会話を切り上げた薫が布団に横になると、今度は入れ違いで樹里が布団から身を起こす。そして自分の布団に入った薫の背中を感謝の瞳で見つめた。
「薫、私は今日まで生きてきてあんなに楽しかったのは初めてだよ。それに可乃子が私のことを家族だと言ってくれたのも本当に嬉しかった……。もう私に家族はいないと思っていたから、あの言葉がなんだかとても心に染みて……」
亡くなった父母の事を思い出したのか、樹里はそこで言葉を詰まらせた。そしてしばらくの間口元に手を当てていたが、やがてその手を外すと、言わないでおこうと思っていた言葉を薫の背に向かって告げる。
「も、もし、薫も私のことをそう思っていてくれたら嬉しい」
薫は背をむけたまま、返事をしない。
寝たふりを決め込んだ薫に、樹里は少しだけ寂しそうな顔をすると自分も静かに布団に入り直した。