17. いつ俺に子が出来たんだ
「おい、俺らも入るぞ」
ポニーテールの樹里を連れてシートから立ち上がろうとしたその時、少し離れた場所から四人で海に遊びに来ている女性たちの嬌声が聞こえてきた。
「やだっ、あんたこんな所で着替えるつもり!? あそこで着替えてきなよ! 確か更衣室あったはずだから!」
「えぇ~、行くのメンドーだからここでいいよぉ~! みんな、タオルで壁作っててくれな~い? パパッと着替えちゃうから~っ」
「もうしょうがないなぁ~。あたしらみたいに家で着てくればよかったのにさ」
「ほらっ、じゃあ私たちで隠してあげるから早く着替えなよ!」
思わず視線をそちらに向けると、側の建物にまで水着を着替えに行くのが面倒な一名を周囲の目線から遮るため、残りの三名がバスタオルで壁を作ってやっている。
面倒臭がらずに着替えに行けよ、と思いながら顔を元の向きに戻そうとする前に樹里の手で頭をぐりんと前方に強制回転させられる。強引に捻られたので首のあたりがゴキリと鳴った。
「痛てっ! な、何しやがんだ!?」
「君が見るべき方角はあちらではないだろう?」
「なんでお前に見る方角を指示されなきゃなんねーんだ!」
しかし樹里はその返答には答えずにペットボトルの天然水に手を伸ばすと、キャップを捻って飲み口を開けている。
「いきなり首を捻りやがって! 首んとこで変な音が鳴ったぞ!?」
「向こうを見なければそういう目にも遭わなかったと思うが?」
「口答えすんじゃねぇ!」
そう怒鳴りつけても樹里は涼しい顔だ。ペットボトルにストローを差し、天然水を飲み始めている。すると背後でまたしても一際大きな嬌声が聞こえてきた。
「うわっ、このブラ超可愛いじゃーん!! どこで作ったの!?」
それはもはや条件反射だった。
ブラ、という単語に薫が素早く振り返ると、バスタオルの上壁に一枚のブラがかけられている。
カップの前面が下側に少し波打っているように見えるのは、オイルのようなアクアブルーの液体がその部分に入っているためのようだ。
バスタオルの壁の中で着替え中の女がそのブラの製作者名を言ったようで、「あぁあの人の作品かぁ~!」と向こうは盛り上がっている。
必死に目を凝らしてみたが、やはり距離が遠すぎてブラに刺繍されている職人名は見えない。
あのブラへの好奇心を押さえ切れなくなった薫は、その場に樹里を残して素早く立ち上がると、大股で四人組の元へと近づいた。
「おいあんたら!」
いきなり大声をかけられた四人組は「なに?」と言った表情で薫を見上げる。
ちょうどバスタオルの壁が取り払われたので、水着に着替え終わった女の手に液体入りの青い水玉模様のブラがあった。
「悪ぃけどそのブラジャー見せてくれ!」
「え? やだアンタ何!? 海辺のヘンタイ?」
「へ、変態じゃねぇよ! その脇のステッチと前のカップの部分に何が入っているのか見せてくれるだけでいい!」
目つきこそ鋭いものの、大真面目な表情で詰め寄る薫に、四人組の一人が何かを思いついたような顔で残りのメンバーにコソコソと小声で伝えた。
「ねぇ…、もしかしてこれって新手のナンパじゃない?」
途端にドッと場が沸いた。
「あ~そっかぁ~! 君、なかなかやるわね~! あたしこんなやり方でナンパされたことないかも~!」
「あ!? ナ、ナンパじゃねーよ!」
慌てて否定をするも、四人組の中で薫の品定めが始まる。
「顔は大したことないけどさ、背も高いし、雰囲気がチョー野生児っぽくっていいんじゃない? あんた、こういうオラオラ系の不良少年って結構タイプじゃないの?」
「うん、あたしはぜんぜん許容範囲~!! だって肉食男子派だも~んっ! こういう筋肉質な男って大好き!!」
許容範囲、と言った女が薫の腕に自分を腕をグイと絡める。
「な、なにしやがる!?」
「やっだ~! この子照れてるぅ~! コワモテなのに純情系~?」
「はっ、離せよ! そのブラジャーを見せてくれるだけでいいんだっつーの!」
「あはは、まだ言ってる~! ホントはブラじゃなくてあたし達が狙いのクセに~!」
「ち、違う! 俺はマジでそのブラジャーが……」
「よく見たら顔もそんなに悪いってほどでもないじゃん! ほら不良少年! 見せてほしかったらまずはここに座んなよ! おねーさん達とお話しよっ!」
「さ、触んじゃねーよ! 離せって言ってんだろ!?」
女四人組に囲まれ、完全に身動きが取れなくなった薫の下に海から上がってきた可乃子が近づいてきた。
「可乃子!?」
周囲に四人の女を侍らかした状態で薫は妹の名を呼んだ。
肩フリルのついた可愛らしいワンピース水着を着た可乃子は、頬を膨らませ、上目遣いでじーっと薫を見つめている。
四人組の一人が「誰この子?」と薫に尋ねた。
「妹だ」と言う前に、可乃子は薫を大声でなじった。
「もうっ、パパってばそんなところで何してるの!? 可乃子ノド渇いちゃった! ジュース買って!」
いきなり父親呼ばわりされた薫はあんぐりと口を開ける。
「な、なに言ってんだ可乃子!?」
「えっパパって!?」
「なに、あんた子持ちなの!?」
「ちょっと奥さんいるのにナンパしてるわけ!? サイテーじゃんあんた!」
「なんとか言いなさいよ!!」
四人からいっせいに責められ、薫は焦る。
嘘をついている可乃子はまたじーっとそんな薫を見つめているだけだ。
「ち、違う! こいつは妹だ!」
「妹~!? あんた、テキトーな嘘言ってるんじゃないの?」
「違う! 俺はこいつの兄だ!」
「ん~……、でも言われてみればこの女の子もう結構大きいよね……。ねぇ、こいつの娘にしては年齢的におかしくない?」
「あ~、言われてみればそうかも……」
四人組が薫と可乃子を何度も見返す。
身に降りかかったアクシデントを何とかかわすことに成功しそうになったと思ったのも束の間、またしても可乃子が嘘をつく。
「ね~早くぅパパ~! ママだってあっちで待ちくたびれてるよ? ママ~~!! 今パパを連れて戻るからね~~!!」
可乃子が少し離れたパラソルに向かって大声で手を振る。
するとそこには済ました顔でこちらを見ていた樹里が、薫に向かって笑顔で小さく手を振った。
「あんたやっぱり奥さんいるんじゃん!!」
「じゃあこの女の子って……」
「あの女の連れ子だよ! こいつ子持ち女と結婚したんだって!」
四人組が薫の側から一気に離れる。
「あっち行きなよサイテー男!!」
「イテッ!!」
一人に向こう脛を蹴られ、薫は顔をしかめた。
「さーパパ! ママの所に戻ろっ!」
可乃子にぐいを腕を取られ、「二度と来んな! バーカ!!」などの罵声を浴びせられながら薫はその場から撤退する。
パラソルの下に戻ると樹里が涼しい顔で出迎えた。
「お帰りパパ」
「何が “ お帰りパパ ” だ! なに考えてんだお前らは!?」
「それはこっちのセリフでしょ!? なによお兄ちゃんってば! 可乃子たちをほったらかして他の女の人のところにナンパに行くなんてヒドいじゃない!」
「ナンパじゃねーよ! 珍しい織りのブラジャーが見えたから少し見せてもらおうと思っただけだ!」
「もう! なによいっつもブラジャー、ブラジャーって! お兄ちゃんはブラのことになるとすぐに目の色変わるんだから! このブラジャー・バカ!!」
「ブ、ブラジャー・バカだと!?」
可乃子がつけたその二つ名に樹里がクスリと笑う。
「なるほど、ブラジャー・バカか。言い得て妙だな」
「お前も納得してんじゃねー!!」
「だが可乃子。薫はブラ職人を目指しているんだ。ブラジャー・バカなんておおいに結構じゃないか」
「なら邪魔すんなよ! おかげであいつらのブラジャーを見そびれちまったじゃねーか!」
「あの女性たちのブラを見るだけなら私も特に何も思わなかったのだが、あの者たちが薫の身体にベタベタ触り出したのが少々不愉快でね。つい可乃子の悪乗りに付き合ってしまった。済まない」
「謝る必要なんてないよ樹里ちゃん! あれはお兄ちゃんの自業自得だよ!」
「そうだな可乃子」
「てめーら……!」
女二人からいいようにあしらわれ、苛立った薫がギリギリと奥歯を噛み締める。
「もしあのままあの女の人たちといちゃいちゃし始めたら、お兄ちゃんはお昼抜きにするところだったよ! ねー、樹里ちゃん!」
「あぁ、妻や娘をほったらかして他の女にうつつを抜かすような夫に昼食は要らないかもしれん」
「だからテメェもいつまで家族ゴッコをやってるんだ!」
「ははっ、済まない、もう止めるよ薫」
笑顔で薫をからかうのを止めた樹里に、可乃子が「えっ」と異を唱える。
「可乃子は樹里ちゃんはもう家族だと思ってるよ?」
可乃子はそう言うとキャラクター柄のバスタオルを肩にかけて強い日差しから身を守り、シートにペタンと腰を下ろした。
「お兄ちゃんと、樹里ちゃんと、可乃子で三人家族! だよねっ、お兄ちゃん?」
なぜそこで俺に振りやがる、と内心で思ったが、樹里が自分を見ていたのでその質問をわざと無視する。
「め、飯にするぞ! 腹減った!」
「えっ、まだ十一時だよお兄ちゃん?」
「少し早すぎないか薫?」
「運転してきてっから腹減ってんだよ!」
「運転と空腹は関係ないと思うが……」
「う、うるせぇな! 口答えすんなっつってんだろ!」
聞こえていない振りを今回も見事に極めた薫は乱暴にシートに下ろし、わざとそっぽを向いた。