16. 都合のいいように受け取んな
七月の最終日はまさに海日和だった。
小学校が夏休みに入ったので、薫は可乃子と樹里と連れ、車で二時間ほどの距離にある海浜へと向かう。
いざ到着してみると、閑散とまではいかなかったが思ったよりは空いていた。週末なら芋の子を洗うような混雑になるのだろうが、平日を狙ってきた甲斐があったというものだ。
しかしせっかく海に着いたのに、可乃子は少々不満のようだ。
「もうお兄ちゃんってば本当に運転が乱暴なんだから! どうしていつも急発進でスタートするの!?」
「うっせぇなぁ、クセなんだよ」
砂浜の一角にシートを敷き始めていた薫が面倒くさそうに答える。可乃子はプン、と頬を膨らましながら、
「可乃子、あそこで水着に着替えてくるからね!」
とすぐ側の建物を指さした。すると薫は「あ?」といった顔になり、ベースキャンプの設営の手を一時的に止める。
「お前、服の中に着てこなかったのかよ?」
「当たり前でしょ! こんな人のいるところで服脱ぐのイヤだもん!」
まだ小学四年生だが可乃子なりに恥じらいの気持ちはあるようだ。薫に縛ってもらった短いポニーテールを揺らし、口を尖らせている。
「一人で行けるか可乃子?」
軽食や更衣室などが完備されている建物に向かおうとしている可乃子に樹里が声をかけた。
「うん!」
「いや、お前も一緒に行ってやってくれ」と薫が樹里に頼む。樹里はすぐに頷いた。
「それとこれ持ってけや」
薫は自分のデイパックから袋を取り出して、可乃子について行こうとした樹里にそれを放り投げる。袋がとても軽いせいで、その軌道は雨上がりの虹のような綺麗な放物線を描いた。それはパサリ、という音と共に樹里の両手の中に収まる。
「なんだこれは?」
「お前の水着だよ」
「私の水着……?」
「お前持ってねぇだろ」
「わ、わざわざ買ったのか?」
「んなことどうでもいいじゃねーか。さっさと着替えて来いよ。海に来て泳がねぇなんてありえねぇだろ」
着ていたTシャツを脱ぎながら薫がぶっきらぼうに答える。
「良かったね樹里ちゃん! 早く着替えにいこっ!」
樹里はまだ何かを言いたそうだったが、はしゃぐ可乃子に手を引っ張られているせいで薫の方を何度も振り返りながら建物の方に去っていく。
薫はそんな女二人を肩越しに見送り、着ていた服を全部脱いでサーフ型の海パンのみの格好になった。そして持って来ていたパラソルを突き刺し、可乃子が作った弁当が直射日光で傷まないよう、クーラーボックスと合わせて日陰に置く。
それにしても気持ちいいぐらいの快晴だ。
シートの上に座り真っ青に広がる空を眺めると、ほのかに漂う潮風の香りと相まって、遠出をしているんだということをより実感させてくれる。
母親が亡くなってからは下を俯かないようにするのが精一杯だった薫にとって、こんなに開放的な気分で空を見上げるのは本当に久しぶりだ。
頭が悪いせいで色々と深いことを考えることが苦手な薫は、目の前の海が見せてくれている風景に心の底からリラックスしていた。
あとは試験に合格し、職人として生計を立てていけるようにすればとりあえずしばらくは何も考えなくてよくなる。
朝起きて飯を作り、可乃子を学校に送り出して、その後はブラジャーを作り、昼飯を食べ、またブラジャーを作り、夕飯を作って風呂に入り、またブラジャーを作って、そして寝る。
ルーティンワークの決まりきったスケジュールで、たぶん面白みには欠ける退屈な毎日だろう。
だが、それでも可乃子を育てていけるのなら、何の苦にもならない。
可乃子が成人して自分の力で生きていけるようになるまでは俺が守る。薫はそう固く決めていた。
シートに寝転がり、女性陣の帰還を待っていたがなかなか戻ってこない。
女の着替えはどうしてこうも長いんだと思いながら薫はついウトウトとうたた寝をしてしまった。
目を覚ますと、パラソルの下にはいつの間にか樹里がいる。
「起きたか薫」
寝転がったままでチラリと横目を走らせると、自分の作った水着を着た樹里がすぐ横で添うように座っている。
白をベースにしたツーピースの水着は上はVネックで下はショートパンツ風のデザインだが、パレオを腰に巻いているので下はあまり見えていない。
「この水着、薫が作ってくれたんだな。君の名前がここに小さく刺繍されていた」
トップの水着の左肩紐の一部分をそっと撫で、樹里が言う。
ハイビスカス柄の生地の隙間から覗く脚がわずかしか見えないせいで、返って色っぽさを醸し出している。樹里のスタイルの良さをあくまで内心でだが、薫も再び認めざるをえない。
「どうだろう? 君が作ってくれたこの水着、似合っているかな?」
「……ま、いいんじゃねーの」
本当は選んだ生地が予想以上に似合っていたので気分が高揚しているのだが、さも興味のなさそうな声で答える。
「素晴らしい出来だよ。着てみて感動してしまった」
「何言ってんだ。あのマスターブラの奴の方がすげぇよ」
「私は彼の作品より、薫の作品の方が何倍も好きだよ」
薫は無言で樹里から目を逸らした。
どういう顔をしていいのか分からないからだ。
「ありがとう、薫。この水着、一生大切にさせてもらう」
「一生大切にするようなモンでもねーよ。それより可乃子はどうした?」
「もう海で泳いでいる。友達もできたようだよ」
樹里の指し示した方角に目を向けると、遊びに来ていたちょうど同い年ぐらいのショートカットの子と海の中に入って遊んでいる。その日焼けした子どもに薫は鋭い視線を向けた。
「おい、可乃子と遊んでいる奴、男じゃないだろうな!?」
「いや、髪は短いけど女の子だよ。このすぐ近くに住んでいる子らしい」
「女か。ならいい。男だったら追い払ってたところだ」
「ずいぶんと過保護なお兄さんだな。まだ可乃子は十歳だぞ?」
樹里にクスリと笑われた薫はわずかに顔を赤らめて口を尖らす。
「う、うっせーな。何かあってからじゃ遅せぇんだよ」
「何か飲むか薫? 寝起きだから喉が渇いているだろう」
「あぁくれ」
クーラーボックスから出した清涼飲料水を樹里から手渡され、シートから起き上がるとそれを半分ほど飲み干す。
「お前、まだ海に入ってないのかよ?」
「あぁ、まだだよ。薫も寝ていたし、君を一人にしておくのは心配だったから」
「か、勝手な心配してんじゃねぇ! 誰がんな心配してくれって頼んだんだよ!?」
樹里の思いやりが本当は分かってはいるのだが、口から出てくるのはなぜか悪態になってしまう。
しかし樹里は特に気分を害した風もなく、寝転がっている薫に優しげな視線を向けている。
おかげで今の自分の不遜な態度を大幅に修正する羽目になった薫は、気まずそうにシートの上に起き上がると樹里に向かって、「お前、髪を縛るゴム持ってるか?」と尋ねた。
「ヘアゴムのことか? いや、持って来てない」
樹里は時折強く吹きつけてくる潮風に長い髪を持て余し気味だ。
今も顔に覆いかぶさってきそうになっている髪を押さえている。
「お前髪が長いから海に入るのにそのままじゃグチャグチャになっちまうぞ。ちょっとこっちに来い。俺の前に座れ」
樹里は素直に頷くと一旦シートの上から立ち上がり、薫のすぐ前に座る。
だが正面を向いて座り込んできたので今にも顔が触れそうなぐらいの近さだ。
「バ、バカ! 何でこっち向くんだよ!? 向こう向け、向こうを!」
「だってそんなこと言わなかったじゃないか」
「髪の話をしてたんだからそれぐらい分かるだろ!? 早く向こう向けよ!」
しかし樹里はまだよく分かっていないようで、「こうか?」と確認した上で薫に背を向ける。
薫は「ったく何考えてんだお前は」と舌打ちをしながら自分のデイパックを引き寄せた。そして前の収納ポケットからヘアゴムを三本取り出す。それを見た樹里は少し驚いたようだ。
「薫……、君はいつもそれを持ち歩いているのか? そのツンツン頭をどうやって縛るのだろう?」
「俺用じゃねーよ! 可乃子の髪を結んでやることがあるからいつも持ち歩いてるだけだ! 大体俺の髪のどこを縛る必要があるんだよ!?」
「あぁ、可乃子のために持ち歩いているのか……。本当に君は妹思いだな」
薫は聞こえない振りをし、「縛ってやるから動くなよ?」と言うと、樹里の長い髪をまず中央から半分に分けた。
そして頭頂部から右耳横までの毛束を細く取って三等分にし、外側の毛束を中心の毛束の上に持っていきそれをクロスさせ、三束に分けた分以外の下の毛も拾いながら三つ編みを編み込んでいく。
「しかしお前髪なげーな……。こんなに長くて邪魔じゃねぇか?」
「薫は短い髪の女性の方がタイプなのだろうか? もしそうなら私も思い切って切ろうかな」
「べっ、別に髪にタイプもクソもねぇよ。いいから黙って前向いてろや」
耳横を過ぎた辺りまで編み込み終えると一旦ヘアゴムで毛束の先を縛っておき、逆側の左サイドにも同様の編み込みを作った。
最後にすべての髪を頭頂部でまとめ、高い位置でポニーテールを結ってやる。
「おら、これでスッキリしたろ」
樹里は軽く頭を振ってそのまとまり具合を確かめると、「本当だ」と感心したように言った。
「どんな風に縛ってくれたのか見てみたいな」
「鏡はさすがに持ってねぇぞ?」
「じゃあ自分のを出すよ」
樹里は化粧ポーチから自分のコンパクトケースを出し、その中にあるミラーで自分の髪型をチェックした。そして先ほどよりもさらに感心した声で言う。
「本当に薫は器用だな……。こんなに素敵な髪型が結えるなんてすごいよ」
「毎朝可乃子の髪を縛ってやってるからな。自然と上達したんだろ」
「どうだろう、似合うかな?」
「あぁ、その水着にはその頭の方が映えるな」
「ありがとう薫。とても嬉しいよ。でも薫に褒められるとどうしてここまで嬉しい気持ちになるんだろう? 自分でも不思議だよ」
「……褒めてねぇよ。その頭と水着がマッチしてるって言ってるだけだ。勘違いすんじゃねぇ」
頬を染めて静かな喜びを表す樹里とは対照的に薫は憮然とした表情で顔を背けた。