15. 「ちょっと待った」は許されず
昼食が終わり午後の試験勉強が始まった。
食卓の上を綺麗に片付けた後、薫は2Bの鉛筆でがしがしと解答欄を埋めていく。今日もなかなかのハイペースだ。
樹里はそんなやる気充分の薫のすぐ隣で採点とワンポイント解説を書き込んでいたが、ん? といった表情で突然手を止め、解答集を見入り始める。
「どうした? 救いようのねぇ間違いでも書いてたか?」
「いや…」
樹里はまずそう一言だけ答えると、
「この 【 問い17 】 のブラの正しいサイズの選び方を答える問題なのだが、トップとアンダーの差だけでバストのカップサイズが決まるわけではないのだな。知らなかったよ。ちなみに君の解答も間違っていたよ」
「そこ間違ってんのかよ? で正しい答えはなんなんだ?」
「アンダーとトップの他にバージスラインが決め手だそうだ。薫、そのラインはどこか分かっているか?」
「…………」
「やれやれ、忘れたのか覚えてないのかどちらなのだろうな。ここだよ」
樹里は人差し指で自分の乳房の下側とボディの境目を、まるでアルファベットのWの文字のように、ふわんふわんと一筆書きのように指でなぞる。
「な、撫でんなっ!」
「だが口で言うよりこうして目で見たほうが頭に入るのではないか?」
確かに一発で入った。
この先、輪廻転生をしてどんな生き物に生まれ変わったとしても、おそらく二度と忘れないだろう。
「例えばアンダーとトップの差がBサイズの範囲だったとしても、バージスラインがCであればCカップのブラをつけるべきなのだそうだ」
「へぇ…、でもカップのサイズがワンサイズ違うと着け心地も全然違うんじゃねぇのか?」
「もちろんだよ。それに言われてみれば、マスター・ファンデの職人はサイズを測るときに必ずバージスラインを専用の器具で測っている。しかもマスター・ブラのクラスになればこのラインに直接手を当てて採寸できる技量を持っている職人も多いし。ハンド採寸というらしいが」
へぇ、と二度目の相槌を打とうとした薫だが、そこである事実に気付く。
「……おい。お前あの紺藍のブラジャー、男のマスター・ブラに作ってもらったって言ってたよな」
「あぁ。それが?」
薫はギロリと樹里を横目で睨むと青筋を立てる。
「つーことはお前そいつに裸を見せて、しかもそこんところを手で触らせたってことかよ!?」
「そうだが?」
樹里は不思議そうな表情で問い返す。
「マスター・ファンデにブラを作ってもらう時に胸を見せるのは当たり前じゃないか」
「でもよ、そいつ男なんだろ!? ジジイか!?」
「いや彼は若かったよ。たぶん二十代前半くらいだと思う」
「二十代だと!? お前よくそいつに平気で胸を見せられたな! 恥ずかしいとかいう気持ちはねぇのかよ!?」
「もちろん多少は恥ずかしかったよ」
当時のことを思い返した樹里は眼を閉じ、喉元に手を当てる。
「でも彼はあくまでマスター・ブラとして、私のバストを丁寧に採寸してくれた。洗練された物腰で真面目に採寸してくれたから、途中で恥ずかしさも消えていたよ。それに薫。君のその理屈では若い男の医者に女性が胸を見せるのはおかしいということになるのではないか?」
反論できない薫は黙る事しか出来ない。
顔だけを横に向けていた樹里は椅子の上で身体を動かし、身体も薫の方に向ける。
「薫」
「な、なんだよ」
樹里は二度瞬きをした後、一気に言う。
「これは私の自惚れの可能性もあるかもしれないが、もしかして君は、私の胸をハンド採寸した彼に嫉妬していると思っていいのだろうか?」
「ア、アホか!! んなもん誰がするか!!」
大声で全否定するも、樹里は納得していない。
「でもそれ以外で君が急に怒った理由が私には分からないのだが……」
「いっ医者はいいんだよ医者はっ! 要は女が男に気安く胸を見せんなってことだ!」
「なるほど。それが君の考える女性の持つべき貞操観念ということか。しかし…」
小首を傾げ、樹里が矛盾点をさらに挙げる。
「しかし医者以外で女性が男性に胸を見せてはいけないと言うのであれば、この先君がマスター・ファンデになったら君は女性の胸を一切見ないでブラを作るという事になるのだが?」
ぐぅの音も出ないとはまさにこのことだ。
将棋で言えばこれは完全に詰みの状態。王の駒が逃げる場所などすでにどこにも無い。
「その件に関して君の見解をぜひ聞きたい。教えてくれ薫」
しかもこのクールな美人棋士は、相手が窮地に陥っているのに手心を加えてくれる気など全くなさそうだ。「早く教えてほしい」と何度も同じ台詞を繰り返している。
ここで「ちょっと待った」をかけるわけにもいかず、脂汗を浮かべた敗戦予定棋士は拳を握りしめ、低く唸るしかなかった。
時刻は午後三時半となり、「ただいま!」という声と共に可乃子が学校から帰ってくる。
そして居間に入ってくると食卓で問題集を解いている薫と採点をしている樹里を見て、気を利かせた。
「あ、勉強中だったんだね。じゃあ可乃子、邪魔だから部屋に行ってるよ」
「いや、俺が部屋でやるからいい。可乃子はここにいろ」
薫は椅子から立ち上がり、食卓の上にあった問題集や参考書をまとめて掴む。
部屋に去りかけた薫に、樹里が「一息入れてお茶でも飲まないか」と告げた。
「いい」
冷淡な口調でそう一言だけ返事をし、薫は向かいの自室へと入っていってしまった。
不機嫌そうなその後ろ姿を見送り、可乃子が口を開く。
「ねぇ樹里ちゃん、お兄ちゃん機嫌悪そうだね。なんかあったの?」
「さ、さぁ、私は知らないが?」
樹里が笑顔で答える。
「でも樹里ちゃんはすごく嬉しそうだね……」
「そ、そうかな?」
そう答えた樹里だが、やはりその上気した表情は嬉しそうで、声も弾み気味だ。
「うん、すごく嬉しそう。ね、今日は二人でずっと勉強していたの?」
「いや、午前に薫と買い物に出かけたよ」
「えっ、いいなぁ! どこにお買い物に行ったの!?」
羨ましそうに尋ねてきた可乃子に、糸を買いにハンドクラフト店に行った事を樹里が教える。
「あっ試験に出すブラの材料が切れちゃったんだ。行ったのはそこだけ?」
「あぁ。後はカフェでお茶をしてすぐに帰ってきたよ。薫は勉強をしなければならないからね」
「お兄ちゃんと一緒に出かけて退屈じゃなかった? うちのお兄ちゃんってあまり自分から喋らないし」
「全然だよ。本当に楽しくて幸せなひと時だった。実はついさっきも薫から幸せをもらったんだけどね」
少々心配げな可乃子に樹里はそう答えると、ほんのりと赤らんだ顔のままで穏やかに微笑んだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夕食後、茶碗を布巾で拭きながら可乃子が薫に話しかける。
「お兄ちゃん、今日樹里ちゃんとお出かけしたんだってね! 可乃子もお兄ちゃんとお出かけしたいな。最近ずっとどこにも出かけてないから」
そのおねだりに薫が答える前に、樹里が可乃子に尋ねる。
「可乃子は薫とどこに行きたいんだ?」
「うーん……、やっぱ海かな!」
「海? この近くにあるのか?」
「ちょっと遠いけどでもお兄ちゃん車運転できるし大丈夫! お兄ちゃん、試験が終わったら連れて行ってくれる?」
食器棚の扉を閉め、ようやく薫が口を開く。
「……試験は8月下旬だぞ? それが終わってからなら海に入れないだろ」
「入れなくてもいいの! お出かけできれば」
「ならお前が夏休みに入ったら連れて行ってやる」
「えっ、来週から夏休みだよ?」
「あぁ。天気がいい時に行くぞ」
「い、いいのお兄ちゃん? だって勉強しなくっちゃいけないんじゃ……」
「こいつのおかげで結構いいペースで進んでるしな。一日くらい遊びに出かけても大丈夫だ」
薫は樹里を顎でしゃくる。
パァッと顔が明るくなった可乃子に樹里は笑いかけた。
「良かったな可乃子。楽しんでくるといい」
「樹里ちゃんも一緒に行くんだからね?」
「私も?」
「うん、三人で行こっ! 絶対楽しいよ!」
「私も行っていいのか薫……?」
樹里は遠慮がちに薫に尋ねる。すると「ついてきたいなら来ればいいだろ」と淡白な返事が戻ってきた。
「樹里ちゃん、お弁当作っていこうね!」
「待てや! お前は作るなよ!?」
身の危険を感じた薫は、樹里が返事をする前に充分な釘を刺す。
「でもお兄ちゃん、練習しないと樹里ちゃんもいつまでたってもお料理が上手くならないと思うけど……」
「闇鍋みたいなモンを食わされるこっちの身にもなってみろ!」
特に今のような暑い時期は食べ物が傷みやすい。
ここでまた仏心を出して樹里に調理OKの許可を出せば、今度はリアルに救急車で搬送コースもありえるため、薫は断固として樹里の弁当作りに関してはNGを出した。出さざるをえなかった。