14. 記念日は7月17日
樹里が廻堂家に居候をするようになって間もなく半月だ。
暦は七月後半へと突入している。
居間にある卓上型の液晶カレンダーには 【 7月17日(wed)】 と表示されていた。
勉強の場は薫の部屋から食卓へと移っている。別々の場所に別れるよりも同じ場所にいた方が都合がいいと薫が判断したためだ。
今日も可乃子を学校へと送り出した後、いつものように薫は試験勉強に励み、樹里はその横でチェックを行う。
窓ガラスから差し込む朝の日差しとすぐ近くの木に止まっている雀の鳴き声が、一心不乱に問題集を解く薫と、ワンポイント解説をアヒルのマーク付きでせっせと書き込んでいる樹里のいる空間を穏やかに包んでいた。
やがてキリのいいところまで解答欄を埋めた薫がチラチラと様子を伺うような視線を樹里に送り出し、独り言と勘違いされかねないような口調で言う。
「きょ、今日駅前に買い物に行こうかと思ってるんだけどよ」
話しかけられた樹里は赤ボールペンを動かしていた手を止めた。
「食材の買い出しか?」
「いや、糸が足りなくなったから補充しに行く」
「あぁ、実技に出すブラの試作品の材料が切れてしまったのだな」
薫はあぁ、と頷いた後、
「……お、お前も来るか?」
と言いにくそうに誘いの言葉を口にした。
留守番だと思っていた樹里がそれを聞き、「私も一緒に行っていいのか……?」と驚きの言葉を漏らす。
「別に付いてきてもクソつまんねぇと思うけどよ」
薫はあくまで素っ気無い態度を崩さない。
だがあらかじめ張ったその薫の予防線はまったく意味をなさない堤防となった。
すぐに微笑を浮かべ、
「君と一緒に出かけてつまらないなんてことがあるはずないじゃないか」
と樹里がクールに即答したからだ。
「じゅっ十時になったらすぐ出られるようにしとけよ!?」
薫はそう怒鳴るように告げると再び鉛筆を手に取り、何事も無かったかのようにまた解答欄をせっせと埋め始めた。
── そして午前十時。
「早くしろ、行くぞ!」
先に外に出ていた薫はまだ家の中から出てこない樹里を急かした。
上空は雲一つ無い青空が広がっている。今日は気温も高くなりそうだ。
暑がりの薫は着ていたオリーブ色のミリタリーシャツの襟首をつまみ、前後にパタパタ動かしてわずかな涼風を首元に送りながら樹里を待つ。
「お待たせした」
「マジで遅せぇよ。人を待たせんな」
そう憎まれ口を利いたが、着替えて外に出てきた樹里を見て、やっぱこいつスタイルいいなと内心で思う。
女にしては背が高い方だし、身体の凹凸もはっきりしている。しかも今日はスラリと伸びた素足の先にミュールを履いているのでミニスカートの下で余計に美脚が際立っていた。
出かける前に玄関先で薫が、「ちょっと来い」と樹里を呼びつける。
「一応お前のも登録しとく。指出せ」
薫は樹里の手を掴み、認証機の指紋モジュール部分に細い指を押し当てる。そしてこれから樹里一人でも鍵の開閉ができるように認証機の登録を手早く済ませた。
登録完了のアラーム音の後、画面に【現在の登録人数 5名】と出る。
「五人も登録しているのか?」
兄妹二人暮らしのはずがなぜこんなにいるのかと不思議に思った樹里が尋ねる。薫は言おうか言わないか少し迷った素振りを見せた後、結局それを口にした。
「親父たちの分だよ。可乃子が消さないでくれって言うからそのままにしてるんだ」
「あ…」
不用意な発言で言葉を無くしてしまった樹里に、薫は話を切り上げて急かした。
「もう親のデータで開く事はないんだけどよ。おら、行くぞ」
大股で先に歩き出した薫の後を、一瞬の間を置いてミュールの靴音が追いかけてきた。
駅前までの道のりを二人は黙って歩く。
路上で他人と何度かすれ違ったが、それが若い男だった場合、舐めるような視線が樹里の身体に注がれる。それに気付く度に優越感と不快感が薫の中で入れ替わり立ち替わりで現れていた。
そういや女とヤッたことはあってもこうして二人きりで買い物に出歩くなんて無かったな、とふと思い、自分もすれ違う男たちに倣って樹里にチラリと視線を送る。
ペールグリーンの薄いキャミソールの上に白の薄手の半袖カーディガンを羽織っているだけなので胸元の辺りがとてもよく見える。
樹里も背は高いが、大柄な自分はさらにその上をいくのでちょうど上からのぞき込むような位置関係だ。迂闊にも背がデカくて良かったと思いかけ、慌てて脳内でそれを打ち消した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「一口に糸といってもあんなにたくさんの種類があるものなのだな。初めて知ったよ」
糸の買出しを終えた二人は小休止がてら、カフェに入る。
涼しい店内で苺味のフラペチーノを片手にした樹里は、先ほど立ち寄ったハンドクラフト店での感想を述べ、
「それに君と一緒に買い物をしていてとても楽しかった」
という言葉で締めた。薫は聞こえない振りをしてドリップコーヒーを啜る。
「あぁそうだ薫」
残りわずかとなったフラペチーノを味わうために一度ストローを口に含んだが、樹里は急にそれを口元から外した。
「私たちが糸を買った時に精算係をしていた女性店員を覚えているか?」
「あのやたら太ったオバちゃんか?」
手芸店よりは肉屋の店先でナタを振り下ろしている方が断然似合いそうな、恰幅のいい中年の店員を思い出す。
「君は知らないだろうが、精算が終わった後あの女性に “ 男がこんなお店に来ても退屈でしょうに、文句を言わないでついて来てくれて優しい彼ね ” って言われたよ」
飲んでいたコーヒが体内で吸収されていくべきルートから微妙に外れ、薫は思わずごほごほとむせる。
「私も嬉しくて思わず “ はい ” と返事をしてしまったよ」
「おっお前も適当な返事をすんな!」
樹里はその薫の叱責をあっさりと流し、
「でも私は店内ではなくてオープンテラスの方に座りたかったな……。君がどうしても店内だと言い張るからこちらにしたが、どうして店内にこだわるのだろう?」
店内の窓ガラスから人が行き交う歩道を眺め、残念そうに呟く。
「店ん中の方が空調も効いてるじゃねぇか」
「今日はこんなに気持ちのいい天気なのに?」
「い、いいんだよこっちで!」
本心は外で樹里とカフェでくつろいでいる所を通りすがりの知り合いなどに見られないように、という理由であったがそれは言いたくないので強引に話を終わらせる。
樹里はまだ納得しきれていないようだったが、仏頂面でコーヒーを啜っている薫を見つめると、急にその表情を緩めた。
「……いや、場所なんてどうでも良かったな。こうして薫と向かい合ってお茶をしているだけで幸せだよ。今日は君と二人っきりで出かけた初めての記念日だな」
樹里の言葉を受け止めきれない薫は口の中で唸り声を上げる。
「そ、そういえばよ、お前、家はどこにあるんだ?」
照れ臭さをごまかすためにそう尋ねると、樹里の声がわずかに硬くなる。
「……なぜそんなことを?」
「警戒すんな。家の奴に連絡を取るつもりはねぇよ。考えてみりゃ俺、お前の名字も知らねーしな」
「個人に識別子が割り振られている今、名字なんてすでに在って無いようなものじゃないか。個人名称さえ知っていれば充分だろう?」
「ま、そうだけどよ。せめて住んでたところぐらいは教えてくれてもいいだろ」
「……蕪利だ」
樹里の口から出てきた区画名に薫は眉間に皺を寄せる。
そこは有名な財界人がこぞって住むエリアだ。重要施設も数多くあり、国の委託を受けた研究所などがひしめくエリアでもある。
「俺らみたいな一般人が気軽に出入りできないエリアじゃねぇか。お前そこから家出してきたのかよ?」
樹里が手元のフラペチーノに視線を落とし、「よく鎖国エリアと揶揄されている地域だよ」と自嘲気味に答えた。
「お前、どっかのお嬢様だって可乃子が言ってたがどうやらマジらしいな。車両切符の買い方も知らねぇんだろ?」
「お嬢様かどうかは分からないが、世間知らず、物知らずなのは確かだよ。事実、君の家に来てから今日までのわずか半月で知らなかったことにたくさんめぐり合えた」
「お前、本気で帰らないつもりなのか?」
「帰らない。絶対に」
声に無駄な力が入ったのが分かった。
こいつ本気で帰りたくないんだなと薫は思ったが、野次馬的な興味でついさらに突っ込んだ質問をしてしまう。
「でもよ、親が死んだんならお前が跡を継ぐのが普通じゃ…」
「だからそれが嫌なんだ!」
樹里が急に声を荒げた。
今までいつもクールに振舞っていた樹里の突然の豹変に、薫は一瞬呆気に取られる。
「もう嫌だ! 本当に嫌なんだよ薫! 自分の保身のことしか考えない連中にまるで操り人形のように動かされるのはたくさんなんだ!」
「わ、分かったら落ち着けって! お前今メチャクチャ注目浴びてんぞ?」
そう言われた樹里は慌てて自分の周囲を見回し、薫の言っている事が本当なことを知ると恥じらいながら身を縮こませる。
「す、済まない。つい興奮して……」
薫はカップにわずかに残っていたドリップコーヒーを飲み干すと、「出るぞ」と言い先に席を立つ。外で待っていると、少ししてから樹里が出てくる。
「薫、いつ会計を済ませた? 今料金を支払おうと思ったら、もうお支払い頂いてます、と言われたのだが」
「注文した時に払ってたろうが」
「全然気付かなかったよ。では私の分の」
「要らねぇよ」
薫が樹里の言葉を遮る。
「だが…」
「俺が誘ったんだからあれぐらい奢るのは当然だろうが。だが野菜が余ってるから昼飯は家に戻って作るぞ。俺らで処分しちまう」
「私も手伝いたいのだが、やはり駄目だろうか?」
「お前なぁ……」
諦め悪すぎるぞ、と言おうとした薫だが、澄んだ瞳で真っ直ぐに自分を見上げる樹里にどうしても冷淡な態度が取りきれない。
「……野菜を切るぐらいまでは許す。味付けは駄目だ」
自分の甘さに辟易しながらも、結局はそう答えてしまう。
家に戻った二人は共に台所に立ち、昼食の準備を始めた。
樹里は長い髪を後ろで一つに束ねると、冷蔵庫から余っている野菜を取り出して一口大に切り始める。もちろん薫の指示だ。
「これでいいだろうか薫」
「おう、寄越せ」
樹里から託されたカット野菜を火の通りにくいものから順番にフライパンに入れていき、トマト缶やコンソメなども加えて煮込む。最後に軽く塩コショウをし、「ほら食え」と食卓に置いた。
「これ食ったらすぐに続きをするぞ」
薫はそう言うと、帰り道の途中で買ったバゲットをちぎり、口の中に放り込んだ。
樹里もフォークに乗せた薄切りのズッキーニをゆっくりと噛み締めた後、「あぁ、頑張ろう」と頷く。そして「君の作るものは本当に美味しいな」としみじみとした口調で呟いた。
「別に余った野菜をただ煮込んだだけだ。こんな簡単なモン誰でもできるっつーの」
そして、恐らくお前以外はな、と内心で付け加える。
「確かに味付けは野菜を切ってホールトマトとコンソメに塩コショウとシンプルだった。それなのにここまで美味しく感じるのは、大好きな君が作ってくれた料理だからなのかもしれないな」
「ぐ…」
まただ。樹里の自分に対する想いがど真ん中の直球過ぎて、どういう態度を取っていいのかが分からない。
「い、いいから早く食え! 食ってさっさと始めるぞ!」
上品に一口ずつ野菜を口に運ぶ樹里の向かいで、薫は舌打ちしたいのを堪え、乱暴に皿の中の具材を口中に掻き入れた。