13. 井戸の中の蛙は決して諦めない
「お待たせしたね。これがコウという男性のマスター・ブラが作った作品だよ」
やがて一枚のブラを手に戻ってきた樹里は、上品な紺藍色のブラジャーを差し出した。それを受け取り、作品に目を落とした薫の表情がみるみるうちに強張っていく。
「す、すげぇ、なんだよこれ……!」
手渡しされた瞬間に大きな敗北感に滅多打ちにされる。それほど手の中にあるブラの出来栄えは素晴らしいものだった。
眼下に広がる美しい刺繍の装飾に薫はただただ息を飲む。
── まるで寺に彫られている飾りみてぇだ
紺藍のブラのカップ部分には水色系の糸で細かい手刺繍が施されている。
しかもその装飾を目を凝らしてよくよく見てみると、一見同じ色のように見えて、実は若干色味を変えた刺繍糸で縫われていることが分かった。
右上にはホリゾンブルー。左上にはベビーブルー。そしてサイドへと続く部分にはターコイズブルーと、水色系の糸でもわずかに濃淡を変え、様々な技法を用いた精巧なステッチが、紺藍の生地の中で華麗に展開されている。
「どうだい薫? 君のインスピレーションが湧き起こる刺激になったかな?」
これを見せることでアイディアが閃くきっかけになればと純粋な想いでブラを出してきた樹里は、薫が激しいショックを受けていることにまだ気付いていない。
しかし目元を恐ろしいぐらいに吊り上げ、険しい表情でブラジャーに見入っている薫の様子に、
「急に黙り込んでどうかしたのか?」
と、心配そうにその顔をのぞきこむ。
すると、昨日初めて顔を会わせてからおそらく今までで一番鋭く尖った目つきが樹里を捉えた。
「……おい」
凄みの効いたその声に、初めて樹里は少しだけ脅えた表情を見せる。
「ど、どうした?」
「これ、着けてみろ」
樹里の顔の前にたった今渡したブラが突き出される。
「え…!?」
「聞こえなかったのか? 今すぐこれを着けてみろって言ってんだ」
樹里を激しく吊り上がった横目でギロリと睨み、薫が再度同じ内容を口にする。
怒鳴りつけられてはいないものの、震えるぐらいのその威圧感に樹里は身を竦ませた。
「つ、着けてどうする?」
「見せろ」
三度目の命令はついにその一言にまで縮まった。
突然の薫の変貌に、樹里は着ていた白のフレアスカートの生地を手でぎゅっと握り締める。
「み、見せろと言われても、恥ずかしいのだが……」
「ふざけんな。昨日風呂場に裸同然で押しかけてきた奴が言う台詞かよ? いいから早く着けろ」
断ることなど許しはしない、そんな脅迫にも近い凄まじい闘気が薫の身体から滲み出ている。樹里は困ったように視線を落とした。
「こ、ここで着替えなければ駄目だろうか……?」
「当たり前だ。さっさとしろ。それとも俺の役に立ちたいって言ったあれはただの口先だけの発言ってことか?」
「し、失礼な!!」
自分の想いを疑われた樹里の顔にサッと怒りの色が表れる。
「私は君にお為ごかしなど言ったつもりはない!!」
「おかめがどうしたってんだよ。いいから早く着けろ」
「あぁ着けてやろうじゃないか! それが君が望むことなら本望だ!」
怒りに身を任せた樹里は身に着けていたエプロンを剥ぎ取り、着ていたシルクのブラウスのボタンを外し始める。
薫は鋭い目つきを崩さぬままで椅子にドカリと座るとその椅子を回転させ、服を脱ぎ出した樹里に背を向けた。ブラ以外の上の衣服をすべて取り去った樹里がその背に向かって言う。
「ブ、ブラをくれないか?」
背中を向けたまま、薫がブラを大きく上にかざす。
それを受け取り、薫の様子を気にしながら樹里は紺藍色のブラに付け替えた。左右の乳房をカップの中にきれいに納めて形を整えた後、「つ、着けたぞ」と声をかける。
「遅せぇよ」
薫がゆらりと椅子から立ち上がる。そして振り返ると上半身がブラ一枚だけになっている樹里の姿を高い位置からじっと眺めた。
ジーンズのポケットに両手を突っ込み、薫は険しい顔で樹里の胸の辺りを見続ける。ねぶるようなその視線に、樹里は頬を朱に染めた。
「そ、そんなに熱心に見ないでくれないか? 本気で恥ずかしいのだが……」
「うるせぇ黙ってろ!」
けんもほろろなその返答に、樹里は残りの言葉を飲み込む。
「……横向けよ」
「わ、分かった」
操り人形のようにおとなしく横を向く。
「後ろ向け」
素直に背中を向けたが「髪が邪魔だ。どけろ」と言われ、慌てて長い髪を前にかき寄せる。
数秒後、背後で舌打ちが聞こえた。そして再び薫が椅子にドカリと座った音が続く。
「……もういいぞ。服着ろ」
たった今まであれだけ凄みが効いていた薫の声が、一気に気落ちしている。
ブラウスを身に着けるのも忘れ、「このブラに何かあったのか?」と樹里が問うと、薫はこれ以上ないくらいに苦々しい顔で吐き捨てた。
「とんでもねぇモンを見せてくれやがったよテメェは!」
そして樹里の胸を覆っているブラに嫉妬に近い視線を向ける。
「すげぇよ、そのブラジャーは。デザインだけじゃねぇ、お前の胸に完璧に適合してやがる」
「そ、それは仕方が無いよ薫。これを作った彼はかなり有名な職人らしいんだ」
「だけどよ、それを作った奴はまだマスター・ブラのランクの奴なんだろ? そのランクでそんなすげーのを作るなら、その上の万能工匠のレベルなんて想像つかねーぞ」
「しかしその称号を持っている職人はほんの一握り程度しかいないと聞いたことがあるが……」
「そうだけどよ、まさか半人前のクラスでここまでのすげぇブラジャーを作れるなんて予想してなかった。少しは自分の腕に自信があったつもりだが、それを見たら完全に無くなっちまったよ。試験前にどうしてくれんだ」
「でも君のご両親もこの仕事をしていたんだろう? ご両親の作品を見てきていたなら自信を無くすことなどあるまい?」
「……親父は職人だったがおふくろはデザインしかしてねぇんだ。親父は俺が小さい時に死んじまったから、俺はデカくなってから実際のブラジャーのサンプルを見たことがあまり無い」
「そうだったのか……」
「マスター・ファンデになろうと思ったのだってつい最近のことだ。可乃子を食わせていくためにな。家がこんなことにならなけりゃ、なろうとは思わなかった職業だ」
本当は子どもの頃は目指していた職業だが、気恥ずかしいのでその辺りは巧みに伏せる。
「私が余計なことをしなければよかったんだな……」
「……いや、考えてみりゃ、最初にそのブラジャーを見せろって言ったのは俺だったな。悪ぃ」
昨日の夕食時のやり取りを思い出した薫は樹里から目を逸らして謝った。
「か、薫、可乃子のためにも気を落としている暇などないぞ? 君はマスター・ファンデの試験に合格しなければならないんだ。だからここは気持ちを切り替えていこう?」
自信を無くした、と言った薫を何とか立ち直らせようと樹里ははっぱをかける。だが樹里の心配は杞憂に終ったようだ。
薫はギラギラとした野生の光をその両の瞳にたぎらせ、もう一度樹里のブラを睨みつける。
「あぁ分かってるさ。心配すんな」
最初は苦い敗北感に襲われたが今は違う。
確かに自分は奢っていた。
こうして自分より明らかに実力が上の作品を見せられてプライドは粉々になったが、文句のつけようのないこの神作品を見ていると、闘志によく似たマグマのような熱い感情が、己の胸の内にふつふつと煮えたぎってくるのを感じる。
「自信は無くしたが、んなモンこれからいくらでもまた取り戻してやるよ。そのコウって奴に負けないようなブラジャーを必ず作ってやるさ。試験に合格した後でな」
井戸の中の蛙が発したこの力強いリベンジ宣言に、樹里がホッと胸を撫で下ろす。
「そ、そうだよ薫。気持ちはいつでもポジティブに、だ」
「分かってるっての。いいから早く服を着ろよ。可乃子がここに入って来たらヤバいだろうが」
「あ、あぁそうだな。確かに可乃子が来たら大変だ」
急いでブラウスに袖を通し始める樹里を横目に、「なぁ、そのブラジャー、フリーか? オーダーか?」と声をかけた。
発注スタイルが一任なのか指定なのかを尋ねた薫に、「フリーで頼んだよ」と樹里が答える。
「ヘッ、やっぱフリーか」
薫は納得気味に口元を歪めて笑う。
「悔しいが、そいついいセンスしてるよ。その紺藍色、お前の肌の色によく映えてる」
「そ、そうか? ありがとう、薫にそう褒められると格別に嬉しいよ」
「別にお前を褒めたわけじゃねーぞ!? 肌の色に合ってるって言っただけだ! 勘違いすんじゃねぇ!」
「それでも嬉しいよ。薫が褒めてくれる事ならどんな些細なことでも嬉しいんだ。君はさっきまた私をブスって言ってたようだし」
「おまっ、途中からって言って最初から全部聞いてたんじゃねーか!」
慌てる薫にふふっと樹里が上品に笑う。
そして「さぁそろそろ夕飯にしよう」と優しい声で告げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夕食も済み、二日目の夜が更けてゆく。
今夜も可乃子の強い希望でまた三人は一緒の部屋で川の字になって寝ることになってしまった。
薄橙色の寝室に沈黙が続く。
ぐっすりと熟睡している可乃子の右脇で、これ以上は無理だ、と思えるほどのしかめっ面で薫が天井を睨みつけている。
「……おい」
言わないでおこう、とは思っていたがとうとう我慢できなくなった薫が口を開いた。
可乃子の左隣の布団にいる樹里はなぜか身を小さくし、掛け布団で顔半分を隠している。
「な、なにかな?」
「しらばっくれんな。なんなんだ、今日のあの晩メシは」
「す、済まない……。まさかあんな味になってるとは思わなくて……」
「味見ぐらいしてから出せよ。なんで俺らが毒見役にならなきゃいけねぇんだ」
小声で文句をつけているせいでどうにもスッキリしない。だが可乃子が隣で寝ているので樹里を大声で怒鳴りつけるわけにもいかないのがストレスだ。
「肉がねぇから豆腐でステーキを作ろうと思ったのはいい。木綿じゃなくて絹で作ったのもまぁいい。しかも水切りを全くしていなかったのも勘弁してやる。だが豆腐にかけていたあの恐怖のソースはなんだ。一口食った瞬間に吐いちまったじゃねぇかよ」
怒りがヒートするあまり、思わず布団から起き上がる。眠っている可乃子の脇に手をつき、樹里の方に大きく身を乗り出して薫の叱責は続いた。
「何を使ったかはおおよそ検討はついている。醤油と味醂を大量にぶち込んで、タバスコもかなり入れてるな。そして止めはバニラエッセンスだ」
「すごい……よく材料が分かったな薫」
布団の中で樹里が目を見開く。
「当たり前だろうが。バカみてぇな辛さの中にあんなに甘ったるい香料の匂いがしてりゃアホでも分かる」
「でも薫。残念だが一つ抜けてたぞ? 実はココアも入れてみたんだ」
「な、に……!?」
「ココアは脳を活性化させる効能があるから君の勉強の効率が上がるかなと思って……」
「効率が上がる前にマズさでダメージ負わせてんじゃねーか!!」
「ううんっ…」
我慢が限界を超えたせいでつい大声を出し、真下の可乃子が目を覚ましそうになった。慌ててまた小声に戻す。
「お、俺はいい。でも可乃子にまであんなゲテモノ食わせんじゃねーよ。俺が無理やり止めなきゃ、こいつはお前に気を使って全部食べる気だったぞ?」
「済まない……」
樹里はシュンとした様子でまた顔半分を隠している。
その様子を見て、薫は “ 反省だけならサルでもできる ” という言葉を飲み込んで説教タイムをやめることにした。
「は、反省してんならもういい。それと明日から飯の支度は俺が全部やるからお前は何もするな。食材がもったいねぇだろうが」
口元を布団で隠したままで樹里が小さく頷く。だが伏せられたその両目には大きな落胆の色が浮かんでいた。
ここは何かフォローをすべきか。
悩んだ薫はアッシュブラウンの鶏冠頭をガシガシとかく。
非常に不味い食事ではあったが、その行動が自分の役に立ちたいという樹里の健気な想いからきていることは分かっている。
薫は若干早口で、「おっ、お前はおとなしく俺の試験勉強を手伝ってればいいんだよ!」と拙いフォローをし、昨夜と同じように背を向けて乱暴に布団へと入り直した。