11. 世の中すべてギブ&テイク
家の周囲の道路をぐるりと見渡すと、だいぶ先の歩道に見覚えのあるショートブーツを履いた背の高い女が歩き去ろうとしている後ろ姿が見える。
顔を歪めて二度目の舌打ちをし、樹里の後を追った。全力で走ったせいでその華奢な背中はすぐ目の前に迫る。
「おいてめぇ!!」
背後からいきなり怒鳴られた樹里はビックリした表情で振り返る。
「薫……、どうしたんだ?」
「どうしたんだじゃねーだろ!? 黙って出て行く奴があるか!!」
「見送りはいらないといっただろう」
「だれがテメェを見送るかよ! 出て行く前に家主に挨拶ぐらいしてけってんだ!」
キョトンとした表情で樹里が薫を見上げる。
「それは先ほどしたと思うのだが……。まだ足りなかっただろうか?」
「あぁ足りねぇよ! 全然足りねぇ! てめぇは一宿一飯の恩義っつーもんを舐めてる!」
「そ、そうか。済まない。ではあらためてもう一度礼を言わせて貰うよ」
手にしていた小型のスーツケースから手を離し、再び樹里がお辞儀をしようとしたその瞬間を見計ってスーツケースを奪い取る。
「こんなとこでするつもりか!? いい見世モンだろうが!」
樹里のスーツケースを軽々と肩に担ぎ、薫は踵を返すと自宅へと戻り始める。だが樹里が後ろをついてくる気配がないので後ろを振り返りまた怒鳴りつけた。
「さっさとついてこいやゴラァ!!」
何が起きているのかがよく理解しきれず、呆然としていた樹里が慌てて後をついてくる。
家に戻った薫はスーツケースを手にしたままで自分の部屋へと一直線に向かった。そして勉強机の脇にそれをドサリと置くと、乱暴に椅子に座る。
「……んなとこに突っ立ってないで入れよ」
そのぶっきらぼうな一言で廊下で様子を伺っていた樹里がおずおずと入ってきた。
「あ、あの、この度は君たち兄妹に本当に世話になって…」
「そんなことはどうでもいい。これをチェックしたのはお前か?」
薫は机の上にあった問題集を樹里に向かって軽く放った。それをうまくキャッチした樹里が「そうだが?」と頷く。
「やっぱりお前か……。なんだよ、得意なブラだのヒップだの、フザけた語呂合わせは? しかも妙な生き物まで描いてたろ。あの生き物はなんだ?」
「アヒルのつもりで描いたのだが……」
「アヒルだぁ!? あれのどこがアヒルだよ!? 顔面をしこたまぶん殴られたモグラかと思ったぞ!?」
「し、失礼な! 一生懸命描いたのに!」
今までずっと冷静に受け答えをしていた樹里が珍しくムキになる。
「アヒルっつーのは普通こんな生き物だろうが」
机の上にあったメモ帳の余白に薫はサラサラと落書きをする。それを横からのぞき込んだ樹里が、「君、動物の絵も上手いんだな」と感心したように言った。
「朝っぱらからあんな人を脱力させるようなクソゆるキャラを描いてんじゃねーよ。やる気が下がるじゃねぇか」
容赦のない薫の言葉の攻撃に樹里はうつむいた。
その落ち込んだ様子を見た薫は急いで自分の書いたアヒルの落書きをメモ帳から破り取る。
「だ、だけどよ、お前のあの説明はすごく分かりやすかった。サ、サンキューな。それが言いたかったんだよ。なのに黙って出て行きやがって」
破り取った落書きをクズカゴに放り投げ、どもりながらも礼を言うと、樹里が少しホッとした表情を見せた。
「そうか……、そう言ってもらえると私も嬉しいよ。少しでも君の力になりたかったんだ。マスター・ファンデの試験、頑張ってほしい」
樹里が薫の横にあったスーツケースに手を伸ばす。
しかしその行動を遮るように「待てよ」と薫がスーツケースの前に立ちはだかる。
「と、取り引きしようぜ?」
「取り引き?」
「そうだ。お前どうせ行く当てがないんだろうが。あと一ヶ月半、ここにいて俺の試験対策を手伝えや」
瞼を何度も瞬かせ、樹里がその取り引き内容を確認する。
「それは君の家庭教師をしろということだろうか?」
「あぁそうだ。ただし金は払わねぇ。だが代わりにここに置いてやるよ。飯、風呂、寝床がついてんだ。そんなに悪い取り引きじゃないと思うがな」
「いや、それはむしろ破格の待遇だと思うが……」
「なら決まりだな。それと二度と家に戻る気がねぇならここにいる間にどこかでバイト先でも見つけろよ。宿無しじゃどこも雇ってくれねぇぞ」
感激の面持ちで樹里が頭を下げる。
「ありがとう薫……!」
「か、勘違いすんな、お前のためじゃねぇ。俺が絶対に試験に受かるためだ。ガンガンこき使うからな。覚悟しとけ」
「あぁ、何でも言いつけてくれ」
「俺、また勉強すっから後でチェック頼むわ。終ったら呼ぶから居間にでもいろよ」
「分かった」
頷き、部屋を出て行きかけた樹里だが、戸口で急に足を止める。そして、「薫」と名前を呼ぶ。
「あ?」
「私は君に特別な想いを抱いてしまったのかもしれない」
「はぁ? 何が言いてぇんだよ」
「あぁ、君は回りくどいことが嫌いだったな。ではストレートに言わせてもらうよ。どうやら私は廻堂 薫に心を奪われてしまったようだ。では向こうで待機しているので終ったら呼んでほしい」
唖然としてその場に固まる薫を残し、樹里は部屋を出て行った。
「な、なに考えてんだあの女……!?」
放心状態の口から出たその言葉が薫のパニック度を如実に表していた。