10. この家に妖精なんかいやしねぇ
「今日は寄り道してくんじゃねぇぞ。あと二度と変な拾い者をしてくんな」
小学校へ登校する可乃子を見送りに玄関先に出た薫は、そんな嫌味で妹を送り出す。
自分に向けられたその嫌味が分かった可乃子は、ツンと顎を上げて素知らぬ態度だ。そして薫を無視して樹里にだけ「行ってきまーす!」と挨拶をする。
「今日は急いで帰ってくるからまた晩御飯のお手伝いよろしくね樹里ちゃん!」
「あぁ。了解だ」
「なにぃ!? 今日もだと!?」
薫は慌てて隣にいる樹里を見る。
「お前今日自分家に戻るんだろ!?」
「家にはもう戻らない。もう二度と戻る気はないよ」
澄ました表情であっさりと答える樹里に、薫は思わず拳を握りしめた。
「昨日と話が違うじゃねーか! だからってうちには置かねーぞ!?」
「まぁまぁお兄ちゃん、細かい事はいいじゃないの!」
「バカやろう! 細かいことじゃねーだろ!」
「あれーっヘンだなぁ、お兄ちゃんの声がよく聞こえないよ?」
「可乃子てめぇっ……!」
「あははっ、お小言は帰ってきてから聞くね~!」
憤る兄を無視し、昨夜泣きじゃくったことなどすべて忘れてしまったような顔で可乃子はさっさと学校へ向かってしまった。樹里も「私も朝食の後片付けでもしよう」と家の中に入っていってしまう。
「待てコラ! 一泊だけって話しだったろ!?」
怒声を朝の通りに響かせ、薫もその後を追う。
台所で水につけられていた三人分の食器を洗い出した樹里の背後に立ち、怒鳴りつけようとしたところを絶妙のタイミングで遮られた。
「心配するな。ここを片付けたら出て行くよ」
「あ!?」
樹里が後ろを振り返り、呆気に取られている薫を見上げる。
「ああ言わないと可乃子が学校に行かないだろう? だから可乃子が帰ってきたら君がうまく言っておいてくれ」
薫はしばらく黙った後、
「……お前、これからどうするつもりなんだ?」
と低い声で尋ねた。
「昨日家を出たばかりだからまだ何も考えてないよ。これからゆっくり今後のことを色々考えてみるさ」
「なんでお前家出したんだよ?」
「可乃子から聞いていたみたいだが、先日両親を事故で亡くしてね。お恥ずかしい話なのだが、両親が遺した会社の経営権で親族が揉めに揉めてるんだ。もうあの場所にいたくないんだよ。人の醜い部分をこれ以上見たくないんだ」
薫は茶碗を洗い続ける樹里の背中をしばらく見ていたが、「おい」と呼んで樹里の顔を自分の方に向けさせる。
「お前、金ねぇんだろ? これ使えよ」
薫はジーンズの尻ポケットに無造作に入れていた一万円札を二枚取り出して樹里に押し付けた。樹里は驚いた表情で渡された皺くちゃの札を見る。
「君はいつもそんなところに裸でお札を入れているのか? 財布を持っていないのか?」
「アホか! 財布くらい持ってるっつーの!」
「ではこのお金は私に渡すために、あらかじめポケットに用意してくれていたということか……」
「ち、違うっつーの! たまたまここに入ってたから、その、なんだ、めっ、恵んでやろうかと思ってよ! いらねぇなら返せよ!」
樹里は小さく微笑むと感謝の眼差しを薫に向ける。
「……君は本当に不器用な人間だな。だが嬉しい。ありがとう」
樹里はくしゃくしゃの札を受け取ると礼を言う。
そして「ちょっと待っていてくれ」と告げると茶碗を洗っていた手を止めて台所を出て行く。そして来る時に持っていた小さなバッグを手に戻ってきた。
バッグの中から自分の財布を取り出した樹里は、中から綺麗な一万円札を二枚手にし、それを薫に差し出す。
「これを受け取ってほしい」
「あ? なんで俺がお前から金をもらうんだよ?」
「薫、心配をさせてしまって済まない。先立つものはないと昨日言ってしまったが、多少の現金は持っているよ。だからお金は要らない。君の気持ちだけで充分だ。でも君の優しい気持ちがこもっているこのシワシワのお札はとても欲しい。だから私のお札と交換してほしいんだ」
「い、いいから持ってけって! 金はいくらあっても困んねぇんだからよ!」
「違う。それは違うよ薫。お金は有りすぎれば人の心を狂わせてゆく恐ろしいものだ。両親を失って、私はそれをつくづく思い知ったよ」
樹里は悲しげな表情で二度頭を振る。
「人はそれぞれの身の丈にあった額のお金を持つべきなんだ。自分では管理できない多額の金銭を手にすれば、やがてその人間は破滅に向かってしまう。それなのに自分が底なし沼に浸かりはじめているのが分かっていても、泥沼の中心に見える金塊を手にしようと更に先へと進み続ける……。私はそんな恐ろしい光景を見続けられなくて逃げてきたんだ」
その光景を思い出したのか、樹里の顔に大きな影が落ちる。
「君や可乃子の親切は忘れないよ。ここを片付けたら出て行くから君は気にしないで勉強を始めてほしい」
「で、出て行く前に声かけていけよ?」
「いや、黙って出て行かせてもらうよ。見送りはいらない。本当にありがとう、君たち兄妹のことは忘れないよ」
もう一度そう礼を述べると樹里は新品の二枚の札をそっと食卓に置き、薫に背を向けて再び茶碗を洗い出した。
割り切れない気持ちを抱え、手持ち無沙汰になった薫はとりあえず自室に戻る。
そして問題集を手に取り、昨夜の樹里のアドバイス通りに今までの答え合わせから始めようとした薫の動きがそこで止まった。
「なんだこりゃ…?」
思わずそんな声が出る。
開かれた問題集には赤いボールペンで採点が行われていたのだ。
次のページをめくってみる。
そこにもたくさんの赤いレ点の印と時折思い出したかのように出てくる〇印がびっしりと書き込まれていた。まさか自分が寝ている間にファンタジーな異世界から心優しき妖精が丸付けをしてくれたとは思えない。
「あいつ勝手な事しやがって……」
妖精ではない、心当たりのあるその人物を思い浮かべ、薫は苦々しげに吐き捨てた。
おそらく早起きをしてこっそり採点してくれたに違いない。
しかしひどい正答率だ。
たまに合っている部分はすべて三択問題で、しかもヤマ勘で書いたものばかりである。自分の頭の悪さを赤のレ点マークであらためて突きつけられ、薫はやりきれない表情で首筋を撫でた。
だがチェックはレ点だけで終ってはいない。
間違っている部分にはどのページにもとても綺麗な字でアドバイスがついている。
しかもブラが誕生した日はいつか?などの答えには、正しい西暦だけではなく、記憶しやすいよう語呂合わせまで書かれているサービスぶりだ。
「なになに……」
一ページ目に戻るとそのアドバイスをじっくりと読み始める。
薫の頭の程度に合わせたのか、分かりやすいように噛み砕いた文章だ。
「 “ ブラが誕生したのは1913年2月12日だそうだ。【 1913 2 12 】で覚えると良いと思う ” か……。ケッ、くだらねぇことを書いてやがんな」
薫は赤字のアドバイスに悪態をつく。
だが覚えやすいことは確かだ。事実、一発で記憶の中に叩き込まれた。
「ふーん、洗濯機で洗う時は必ず洗濯ネットに入れねぇと駄目なのか……」
鉛筆の端を口に咥え、『 長持ちさせるブラの洗い方を述べよ 』 の質問で洗濯機の場合の正しい答えを読む。
その正答のすぐ下にエクスクラメーションマークが書かれ、『 ワンポイントだぞ 』 と注釈がついていた。そして 『 ネットに入れる前にホックを止めることを忘れぬようにな 』 と書かれてある。
『 忘れぬようにな 』 の後には何かの動物のようなマークも描かれているのだが、あまりにもヘタで何の動物かまったく分からない。
「ド下手クソのくせに絵なんて描いてんじゃねーよ」
悪態はつき続けるものの、気付けば夢中になってページをめくっていた。
丁寧に解説されたアドバイスが、一言一言すんなりと脳内に入ってくる。一ページ、また一ページと、真心のこもったその注釈を貪るように読み続けた。
真剣に読んでいると玄関の扉がかすかに軋んだような音が聞こえ、ハッとした薫は椅子から立ち上がる。廊下に飛び出して「おい!」と叫ぶも家の中はシンと静まり返っていた。
玄関先に走る。
朝はそこにあった女物のショートブーツとスーツケースが無くなっていた。
「あいつマジで黙って出て行きやがったのかよ!?」
薫は舌打ちをするとスニーカーに足を突っ込み、自分も外へと飛び出した。