1. 亡き父との約束
『父さん! オレ、お願いがあるんだ!』
『おう、どうした息子一号。飴玉でも買う金が欲しいのか?』
廻堂 薫は夢の中で七歳の時の姿となり、今は亡き父と久しぶりに会った。
十一年前、七歳の時に死に別れた夢の中の父は若い。
日に焼けた浅黒い手で頭を撫でられた薫は、その小さな身体いっぱいに詰め込まれた溢れんばかりの希望を告げる。
『ちがうって! オレ、きめたんだ! もっと大きくなったら父さんみたいな、いちりゅーの【 ぶらじゃー・まん 】になる! だからオレにもぶらじゃーの作りかたを教えてくれよ!』
息子のこの突然の跡継ぎ発言に、豆絞り柄の手拭いを頭にかぶった父の顔が歓喜でくしゃくしゃに歪んだ。
『……バッ、バカ野郎、いきなり親を泣かせるようなことを言うんじゃねぇよ! でもな息子一号。お前は一つ大きな勘違いをしているぞ』
『 “ かんちがい ” ってどういういみだ?』
『簡単に言やぁ、間違ってるってことだ』
『オレ、まちがってなんかいないぜ! だってぜったいになるんだ! いちりゅーの、だれよりもすごくてカッコイイぶらじゃー・まんにさ!』
『いいか息子一号。これを見ろ』
父は手にしていた唐草模様の巻尺を作業台の上に置くと、完成したばかりの薄紅色のブラジャーを誇らしげに薫の前にかざして見せる。
『お前が目指しているのはブラジャーマンじゃない。女性下着の請負人、【 マスター・ファンデ 】だ。もう二度と間違えるんじゃねぇぞ。万能工匠の俺を超えるぐらいの最高の職人になりたいならな』
『うん、わかった! もうぜったいにまちがわない!』
『ところでお前どうして急にそんな事を……、あぁ分かったぞ。本妻一号からまた何か言われたな? あいつは気立てはいい女なんだが、店の名前は独断で決めちまうし、どうも余計な一言が多くていけねぇ。女は男のやる事にいちいち口を出さねぇで、黙って三歩後ろをついてくりゃ可愛げもあるってのによ……』
憮然とした表情で腕を組み、この下町区画育ちで昔気質な父は少しだけ遠い目をする。
まるでその空の中にやがては訪れる薫の将来が視えているかのように。
『いいか、息子一号。本妻一号の言う事には耳を貸さなくていいからな。お前はお前のやりたい道を進めばいい。誰かに指図されるような生き方をすりゃあ、きっといつかでっけぇ後悔をすることになっちまうからな。分かったな?』
手拭いからはみ出している灰色がかった短い茶髪が春のそよ風になびく。
父は空に向けていた視線を戻すと、慈愛に満ちた表情で、もう一度薫の頭をその大きな手で愛おしげに撫でた。
『ちがう、オレがじぶんできめたんだ。だって父さんはいつも夜おそくまでいっしょうけんめいぶらじゃーを作ってるだろ? だからオレもますたーふぁんでになれば、父さんも楽ができるじゃんっ! もうすぐオレにも妹ができるし、父さんの手伝いぐらいできるって!』
『……くぅっ……! 俺と、生まれてくる娘一号のために、だと……?』
『父さん、どうしてないてるんだよ? どこかいたいのか?』
『…………う、うう、息子一号よ…………。お前と……、お前という奴はああぁッ! こっちに来いっ! ハグしてやるぞ! ハグ! 父さんの熱い接吻付きだ! ぶちゅううっと思い切り喰らいやがれ!!』
『やめろよ父さん!! 男どうしでおかしいだろ!? みんなが見てる! はずかしいだろーっ!!』
「……お兄ちゃん! おにーちゃんってば!!」
耳元で叫ばれ、自室の勉強机に突っ伏して寝ていた薫は飛び起きた。そしてすぐ横にいた小さな妹を見て、「なんだ可乃子か」と呟くと額に吹き出ていた大粒の汗を拭う。
七月に入ったこの時期なら暑さによる汗となるところだが、どうやらこれはたった今まで見ていた悪夢による冷や汗のようだ。
「なんだじゃないでしょっ! うたた寝していたお兄ちゃんがすごく苦しそうにうなり出したから、可乃子、すっごくすっごく心配したんだからね!!」
なんだ、と言われた可乃子は頬を膨らませてふくれっ面をした。
窓から差し込む夕日が可乃子の右頬を赤く染めているため、本気で怒っているように見える。
「……そ、そうか、悪い」
荒くれ者の薫が唯一頭が上がらないのが妹の可乃子だ。
素直に謝ってきた兄を見て、しっかり者の妹が心配そうにその顔を覗きこむ。
「お兄ちゃんも怖い夢でも見たの?」
「……いや」
「じゃあどんな夢見てたの?」
「覚えてねぇな」
わざと素っ気無い態度で薫は嘘をついた。父親の記憶が無い可乃子を傷つけないためだ。
「そういえばお兄ちゃんに怖いものなんてないもんねっ。逆にお兄ちゃんのことをみーんな怖がってるもん! だから可乃子、心配だよ。お兄ちゃんが本当に女の人にブラジャーとかを勧められるのかなーって。みんな怖がって買いに来てくれないような気がするの」
「だ、大丈夫だっての! 俺の腕はお前だって分かってんだろ!?」
「もちろんそれは分かってるよ? お兄ちゃんはすっごく器用だもん! 可乃子の服とかだって今までいっぱい作ってきてくれたもんね」
「おう。だから何も心配すんなって」
「でもねお兄ちゃん」
可乃子は兄に本気で心配そうな視線を向ける。
「女の人ってガサツな男の人、キライだよ? お兄ちゃんさ、ニコニコしながら “ いらっしゃいませー! ” とかちゃんと言える? いくら腕が良くたって、お兄ちゃんはいっつも人を睨むような怖い顔してるし、しかも口も悪いからお客さん来ないような気がするんだよね」
「ぐ……」
自分も恐れていた心配点を妹に鋭く衝かれ、薫は言葉を失った。
「それにこの間TVで観たんだけど、女の人ってね、男の人を奴隷にして、自分は女王さまみたいに扱ってほしいものなんだって! だから本当はぜんぜん思ってもいないことでも、お客さんにお世辞で言わなきゃならないことってきっとたくさんあると思うよ? お兄ちゃん、それちゃんとできる?」
「……可乃子、お前一体なんの番組観たんだ?」
「んっと、 “ モテる悪女の作り方 ” って番組!」
両脇の三つ編みを揺らし、可愛く笑いながら自慢げに答える可乃子に、「その番組は二度と観るなよ!?」と薫がドスの利いた声で告げる。
「えーどうしてー!? すっごくためになったのにー! 可乃子の今後の人生にも生かせるよきっと!」
「バカなこと言ってんじゃねぇ! んなエロそうな番組はお前にはまだ早いっ!」
容赦のない口調で薫は妹を叱った。
可乃子は少しだけムッとした表情をみせたが、すぐにおとなしく頷く。
「うん、お兄ちゃんの言う事は絶対だもんね……。分かった、約束守る。もうあの番組観ない。だからお兄ちゃん、ずっと可乃子と一緒に暮らそうね? 離れるの、絶対やだよ?」
「分かってる。お前が大人になるまで絶対に俺が育てるから心配すんな」
正面の小さな頭に手を乗せると、可乃子が少しだけ安心した表情を見せた。
「約束だよ? 離ればなれ、やだからね?」
「あぁ約束だ」
「じゃあとりあえず、はいこれっ!」
「あ? 手鏡じゃねぇか。どうすんだこんなもん出して」
「うん! 今日からこれでステキな笑顔の練習をしよっ! まずは、“ いらっしゃいませ~! さぁお嬢さま、本日はどんなブラをお探しですか? ” から言ってみて!」
「い゛っ!?」
目の前にズイとかざされた手鏡には、毛先をワイルドに散らしたアッシュブラウンのショートヘアに、鋭い吊り目の長身な強面男が慌てた表情で映し出されていた。