巫女の名前
とにかくシュアが口にした神の名前は効果てきめんだった。
いや、てきめんすぎた。
まともに喋れない子供が突然巫女の名を口にし、今そのお言葉を伝えた。
初めはそこにいた者同士のささやき合いだった。しかしその様子に何事かと、人が集まってきた。
油の浮いた水に洗剤を一滴落としたかのように、シュアの言葉を伝え聞いた者の表情が消え、それを見てさらに人が集まり、そうして周囲が異様な静寂に飲み込まれていく。
なんかやばいことが起こってる。
近くにいる大人たちの彼女を見る目が、どこか敬意や恐れの色を持ち始める。
そしてあるとき、老婆と同じように跪く者が一人。それを見た者がまた一人と倣っていく。
あれ、なんだろう、これ。
子供たちは何が起こっているのかと、呆然と立ち尽くしている。
いまや廊下の奥まで人が詰めている。
よし。
と、シュアは思う。
泣くか。
赤子時代に培われたスキル。周囲の壁に反響するように大声で泣くのがコツ。
なんとかこれでうやむやにしてしまおう。
パン
手が鳴った。
修道服姿の中年女性が人垣をかき分け、跪く者たちを踏まないよう、シュアの前までやってきた。
「みんな、仕事に戻って」
施設長だ。厳しい顔つきでそう言って、群衆の解散を告げた。
「シュア、ちょっと」
そのまま彼女に呼ばれた。
助かったと思いつつ、何がなんだか分からない子供の顔をしてそれに従う。
案内されたのは一階の客室だ。対面の革のソファに座らされた。
「ちょっと待ってて」
施設長はそう言ってどこかへ行ってしまう。
30分くらいして戻ってくる。
「話は聞いたわ。その巫女様の『声』はいつもきこえるの?」
思わず本当のことを喋りそうになったが、シュアはそれを喉元にとどめ、小さく首を横に振って相手の反応をうかがう。
「その話は誰から聞いたの? よくチップ先生の授業を聞いてたみたいだけど」
「……うん」
「どんな話? 教えてくれる?」
「イアリア様は最初の巫女様で、始まりの十一人とともに島に秩序を。その子供のフェリア様は五大領主とともに安定を。ルティ様は、島に知恵をもたらしました」
とりあえず、そんなところでやめて顔色を窺う。
「なるほど。頭のいい子だね。なんでルティ様があなたに教えてくれたの?」
「ルティ様ならこうおっしゃるんじゃないかって」
ルティ・エンベリスは全国に学校を作ったのだ。そのおかげで、王国は全国民に教育が行き届いたらしい。
「つまり、部屋をきれいにっていうのは、あなたの考えなのね、シュア」
おそるおそる、うなづく。
「わかった。もう戻っていいわ。ありがとう」
意外とすんなり解放された。
その日はおとなしく過ごした。
シュアが無言なのを見て、周囲も表面上はこれまでと同じように接することにしたようだ。
数日経ったが、巫女の声云々という話はシュアの前では聞こえてこなかった。
ホッとしながら彼女は終始おとなしくしていた。
ただ、それですべて平穏どおりに戻ったかといえば、まったくそうではない。
使用人たちは毎朝の掃除をきちんと行うようになった。もちろん老婆たちも。
部屋は驚くほど清潔に保たれ、さらに自分たちの身体も清潔に保ち、赤子をぞんざいに扱う者は担当からはずされ、より丁重な者がつけられることになった。
半年が過ぎた。
朝早く、四頭立ての馬車が孤児院の前につけられる。
馬車自体は変哲のないものだが、馬は見事な駿馬だ。
御者は一般的な服装だが、屈強な30代ほどの男である。
馬車の扉が開く。
現れたのはジャケットコートに身を包んだ身なりのいい一人の壮年の男と、同じく身なりのいい二人の少年だった。